以下、大和岩雄『神社と古代王権祭祀』(新装版、白水社、2009年)から引用です。

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春日大社――ワニ氏の聖地から藤原氏の聖地へ

春日大社と春日神社とワニ氏
p.334
石上神宮は物部氏、春日大社は藤原・中臣氏が本来の祭祀氏族と、一般にはみられているが、石上神宮の神主はワニ氏系の布留氏であり、春日大社が神体山とする御蓋(春日)山も、春日大社創祀以前は、布留氏と同族の春日氏らが祀る聖山であった。

p.334
この神社の祭神は、中世末までは「巨勢[こせ]姫明神」と呼ばれていた。「巨勢」は、『日本書紀』の神武即位前紀に、「和珥[わに]の坂下[さかもと]に、巨勢祝[はふり]といふ者有り」とある「コセ」である。

p.336
天平神護・神護景雲の「神護」は、鹿島神の春日遷幸を意識しての年号と推測される。
 天平神護元年は春日大社造営開始の年、神護景雲元年は鹿島神遷幸の年、神護景雲2年は春日大社の創祀の年であろう。


春日氏らの御蓋(春日)山祭祀

p.337
三笠(春日)山の祭祀氏族はワニ氏系で、「春日」の社名にかかわる春日臣が中心であった

p.337〜338
 『新撰姓氏録』(左京神別・大春日朝臣条)には、「糟[かす]を委[つ]みて堵[かき]と為[な]した」ので、仁徳天皇が「糟垣臣」と名づけ、のちに改めて「春日臣」としたとあるが、折口信夫は、春日臣と同族の柿本臣の「カキ」も「垣」であると述べている。
 垣は境界を示すものだが、持統天皇の殯宮の垣(大殿垣)造司に刑部親王が任命されていることからみても、垣を造ることの重要性がわかる。この場合は、生者と死者をわける境界としての垣である。
 垣は人工による境だが、坂は自然の境界である。春日神社の祭神巨勢姫の「コセ」にかかわる居瀬祝は、神武紀によれば「和珥[わに]の坂下[さかもと]」にいたという。ワニ坂に祝がいたのは、この坂(境)が特に重要だったからである。ワニ坂からは、北は山城・近江へ、東は都介野[つげの]を経て伊賀・伊勢へ至る。特に、それは日本海へ至る北の出口であり、同時に、北陸からの人や物が大和国に入る入口でもあった。

p.338
忌(斎)瓮をワニ坂にすえたのは、ワニ坂が境界としての聖地、「垣」の場所だったからであろう。『延喜式』神名帳に載る和爾坐赤坂比古[わににますあかさかひこ]神社の「赤坂」はワニ坂のことだが、ワニの地でワニ氏が祀る上は坂(境・垣)の神であり、この神が御蓋(春日)山の神の原形であったと考えられる。


p.340
言語学者の金沢庄三郎は、比売許曾神社の「コソ」は新羅の始祖赫居世[かくこせ]の「コセ」と同じで、「コ」は「大」、ソは「国」の古代朝鮮語と解している。比売許曾の神は加羅・新羅からの渡来神である。「コセ」「コソ」は、同じ意味だから、聖地の意味で「コソ」に社という字があてられたのであろう。
 ワニ坂の祭祀者をコセ祝というのは、ワニ坂(赤坂)が聖地(コソ・コセ)だったからであろう。


仲臣[なかつおみ]と鹿島神宮・春日大社と中臣[なかとみ]

p.341〜342
 神武天皇の後をついで2代目天皇になるはずの神八井耳命が、庶兄のタギシミミを「手足わななきて」殺せなかったので、実弟の神沼河耳命が、神八井耳命の兵を率いてタギシミミを殺した。それを見た神八井耳命は、
  吾は仇[あだ]を殺すこと能[あた]はず。汝命[みこと] 既に仇を殺し得たまひき。故、吾は兄にあれども、上[かみ]と為[な]るべくにあらず。ここを以て汝命上となりて、天の下治[し]らしめせ。僕[あ]は汝命を扶[たす]けて、忌人[いはひびと]となりて仕へ奉らむ。
といったと『古事記』は書き、神八井耳命を意富(多・太)臣の祖と書く。
 『日本書紀』も同じ記事を載せ、弟に皇位を譲り、「神祇の奉典」のみを行なうと書いている。この伝承は、祭政を行なっていた神武天皇の後をついだ2人の皇子のうち、兄は祭のマツリゴト、弟は政のマツリゴトを行なったという、祭政分離を示す伝承である。
 祭の代表が仲臣の多臣であり、多臣の祀る神社が春日宮なのは、忌人、祝人にかかわる意味が「春日」にあるからであろう。この春日宮としての多神社の神を鹿島神宮に遷したという伝承が、鹿島神宮の祭祀氏族の中臣連によって伝えられたことは重要である。鹿島神宮の本来の祭祀氏族は、仲臣の多氏と同じく神八井耳命を祖とする常陸の「仲(那賀)国造」であり、この仲国造から祭祀権が中臣連に移ったことについては、鹿島神宮の項でくわしく述べた。
 問題は、春日宮(多神社)→鹿島社→春日大社という伝承も、鹿島社→春日大社という伝承も、仲臣(多臣)→仲臣(春日臣)という移動を意味しており、結果として、出発地の多臣の神が中臣(藤原)氏の氏神になり、到着地の仲臣の春日臣の神が片隅におしこめられたということである。春日大社の創始には、仲臣[なかつおみ](春日臣・多臣)と中臣[なかとみ]の問題がある。

p.343
「審神者」こそ、神と人の中を執りもつ仲臣[なかつおみ]である。『日本書紀』の神功皇后摂政前紀に、
  皇后、吉日を選びて、斎宮[いつきみや]に入りて、親ら神主と為りたまふ。則ち武内宿禰に命[みことのり]して琴撫[ひ]かしむ。中臣烏賊津使主[いかつおみ]を喚[め]して、審神者[さには]にす。
とある。この「中臣」を一般に「ナカトミ」と読むのは、中臣・藤原氏系図に載る「雷大臣」を「烏賊津使主[いかつおみ]」にあてるからである。雷大臣を系図は卜部の祖にしているが、この「中臣」は本来は「ナカツオミ」であって、卜部よりも「仲臣」にかかわる存在である。だから、仲臣の多臣が編纂した『古事記』は、中臣・藤原氏の祖で卜部の祖とされている「中臣烏賊津使主[なかとみいかつおみ]」を削り、仲哀記に、
  天皇、御琴をひきたまひて、建内宿禰大臣、沙庭[さには]に居て、神の命[みこと]を請ひき
と書き、審神者[さには]を建内宿禰にしている。
 『常陸国風土記』(香島郡)に登場する「中臣巨狭山[おほさやま]命」も、鹿島の神(「天の大神」)の託宣を受けた審神者(仲臣[なかつおみ])であり、大神との仲を執りもって、大神のために船を作っている。おそらく「中臣巨狭山命」は、常陸の鹿島社の仲臣の祖であったと推測される。

p.344
 このように「ナカツオミ」の烏賊津使主や巨狭山命を、中臣・藤原氏の系図入れしているのは、卜部としての中臣[なかとみ]が、仲臣[なかつおみ](オホ臣・ワニ〔春日〕臣)の祭祀する鹿島や春日の神を、自家の氏神にしたのと共通している。

p.344
仲臣の「臣」は姓[かばね]の「臣」でなく、「大忌[おみ]」の意である。多臣や春日臣の「仲臣[なかつおみ]」は「仲大忌[なかつおみ]」で、烏賊津使主の「使主[おみ]」は神に仕える主の意である。

p.345
 春日臣や多臣は「大忌[おみ]」である。多臣の始祖、神八井耳命は、皇位を弟に譲ったとき、「汝命[なんじみこと](弟の綏靖天皇のこと)を扶[たす]けて、忌人[いはひびと]となりて仕へ奉らむ」といっている。忌人とは「大忌」のことである。この大忌に対して「神事の細部に与[あずか]る人々」を小忌[をみ]という。中臣連や忌部連は小忌である。小忌の中臣連が大忌に成り上がり、大忌の祀っていた鹿島の神や春日の神を、自家の氏神として取りこんだのである。


2つのタケミカヅチノ神

p.346
大物主神系のタケミカヅチが、本来の鹿島の神である。鹿島の神が甕神であることは、拙著でくりかえし述べたが、この甕神は前述した鹿島神宮の伝承からみても、三輪山祭祀にかかわる仲臣のオホ氏系の神である。春日宮(多神社)→鹿島社→春日大社という遷座伝承は、鹿島社を仲介してタケミカヅチが甕神から剣神に変わったことと、仲臣から中臣連への祭祀権の移動を示している。

p.346
 鹿島神は、蝦夷地との境に忌(斎)瓮として祀られた境界神で、この甕神を剣神に作り変えたのが建御雷神であった。しかし、机上の神では権威がないので、鹿島から春日への遷幸という一大デモンストレーションを行なったのであろう。

p.347
 ワニ臣もオホ臣も、「ナカツオミ」として境界祭祀にかかわる審神者[さには]であり、境(坂)で甕を祀っていた。それが鹿島社であり、ワニ社であった。中臣連は、この甕神ゆかりの聖地を自らの氏神の地とし、王権祭祀を掌握したのである。


イハヒヌシ・アメノコヤネ・ヒメ神について
p.347
タケミカヅチに、天つ神と国つ神の2神がいることは、『古事記』だけでなく、『旧事本紀』にも書かれている。


御蓋山と三輪山

p.350〜351
三輪山の真西に春日神社がある。春日にある春日神社が巨勢姫明神と呼ばれていることからみて、三輪山の真西の春日社は、率川神社のコセ(越)氏が祀った神社と考えられる。この春日神社のさらに真西に、春日宮と呼ばれる多神社が鎮座する。春日神社と春日宮は、三輪山の神坐日向神社を拝する位置にあるが、この関係は、大和日向神社―春日神社―率川神社にも当てはまる。
 御蓋山と三輪山の山頂は、山頂の真西にある神社からみれば「日の本」にあたる。日向神社は日本[ひのもと]神社でもあり、2つの春日神社と春日宮(多神社)・率川神社は日向神社でもある。
 「日向」は時間境界を示す言葉でもあり、「日」は朝日を意味している。
 空間(国)統治が「政」のマツリゴトなら、天皇を「日知り」といい、神武天皇の出発地を「日向」とするのは時間統治の「祭」もまた天皇のマツリゴトだからであろう。この「祭」「政」のマツリゴトを、巨大な前方後円墳を造営する権力の成立以前から大和盆地で行なっていたのが、仲臣[なかつおみ]のワニ氏とオホ氏なのである。春日大社の源流は、この両氏族の祭祀にある。だから記・紀は、神祇祭祀の代表として、オホ氏の祖の神八井耳命の伝承を載せたのであろう。