以下、大和岩雄『神社と古代王権祭祀』(新装版、白水社、2009年)から引用です。

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香取神宮――物部氏とタケミカヅチとフツヌシ

祭神について
p.289
『日本書紀』は天孫降臨の条(一書の2)に、当社の祭神について次のように記している。
  天神[あまつかみ]、経津主[ふつぬし]命・武甕槌[たけみかづち]神を遣して、葦原中国[あしはらなかつくに]を平定[しづ]めしむ。時に二[ふたはしら]の神曰さく、「天[あめ]に悪[あ]しき神有り。名を天津甕星[あまつみかほし]と曰ふ。亦[また]の名は天香香背男[あまのかかせを]。請[こ]ふ、先[ま]ず此の神を誅[つみな]ひて、然[しかう]して後に下[くだ]りて葦原中国を撥 [はら]はむ」とまうす。是[こ]の時に、斎主[いはひぬし]の神を斎[いはひ]の大人[うし]と号[ます]す。此の神、今東[あづま]の国の檝取[かとり]の地に在[ま]す。
 [略]
「是の時」以降の文章は前文とつづかないから、檝取(香取)に坐す斎主の神が経津主神・武甕槌神とかかわる神であることを示すための追記と考える。


p.290
 香取神宮の丑寅[うしとら](艮)の方位に、鹿島神宮(津の宮・跡宮も含め)が位置している。北東の方位を鬼門というが、鹿島神宮は『当社例伝記』によれば、「鬼門降伏」のために鎮座しているという。この「鬼門」は、畿内からみての位置だが、45度の正確な方位関係で鹿島と香取が位置するのは、偶然の一致ではなく、意図的なものと推測できる。


フツヌシとタケミカヅチ

p.293
 このように、『古事記』と『日本書紀』は、藤原・中臣氏用のタケミカヅチ以外のタケミカヅチを登場させている点で共通するが、藤原・中臣氏の氏神のタケミカヅチを「フツ」の神とする点でも一致している。このような共通性は、いかなる権力者といえども、古い神統譜をまったく無視して新しい神統譜を作り出すことができなかったことを示している。


物部氏と香取神宮

p.295
香取連は、物部小事を祖とする物部匝瑳・物部信太連と同様に、物部香取連といってよいであろう。香取連が祖を経津主神にしたのは、香取神宮の祭神を経津主神と意識していたためとみられる。


「斎主[いはひぬし]」について

p.295
『日本書紀』『続日本後紀』『文徳実録』など正史に書かれる香取神宮・春日大社の祭神は、すべて「イハヒヌシ」である。また『延喜式』の春日祭祝詞にも、「香取坐伊波比主命」とある。このように、藤原氏にかかわる正史や春日祭祝詞が「イハヒヌシ」とするのは、石上神宮に祀られる物部氏の氏神「フツヌシ」と、同一国内の春日で藤原(中臣)氏が祀る氏神を、同じにしたくなかったためであろう。
 藤原・中臣氏は、その権力で他氏の祭祀権を奪っていった。たとえば、斎部[いんべ](忌部)氏とともに行なっていた宮廷祭祀を、一方的に独占しようとした。このような専横に怒った斎部広成は、大同2年(807)に『古語拾遺』を書いたが、そのなかで経津主神を、「今下総国香取神、是也」と記している。『日本書紀』(養老7年〔720〕成立)から『延喜式』(延長5年〔927〕成立)まで、正史はすべて香取の神を「イハヒヌシ」とするのに、藤原・中臣氏弾劾の書『古語拾遺』のみが「フツヌシ」とするのは、香取の神は物部氏が祭祀していたことを示すためであろう。
 物部氏の家記『旧事本紀』は、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』を引用しているが、香取の神については『日本書紀』のイハヒヌシとする説を採らず、『古語拾遺』の説を採って、前述のように「経津主神、今下総国香取に坐す大神、是也」と書く。『古語拾遺』とちがって「大神」と書くところも、氏神に対する物部氏の敬意があらわれている。このように、正史が香取神を「イハヒヌシ」と書いても、中央の斎部氏・物部氏らはそれを認めていない。


鹿島・香取の両神宮と伊勢の内宮・外宮
p.297
日神をまつる巫女日女[ひるめ]を天照大神と称して、伊勢の海人の祀る日神の社[やしろ]の主神とし、天皇家の氏神としたのに対し、ここでは、鹿島の神をまつる斎主を神にして、藤原・中臣氏の氏神とした。それが、天皇家の伊勢神宮と、藤原氏の鹿島・香取両神宮なのである。したがって、鹿島・香取を対[ペア]にしたように、伊勢でも天照大神と豊受の大神の宮を内宮・外宮と呼んで対[ペア]にした。香取は外宮にあたる。


かとりまち神事
p.298
「かしまだち」に対して「かとりまち」という言葉がある。風水害もなく無事に田植を終え、秋の収穫を待つことをいう。その「かとりまち」の祭が、現在4月4日に行なわれる大祭「御田植祭」である(かつては5月5日)。
 [略]
 このような神事を香取神宮が大祭として重視することからみても、鹿島神宮を内宮とすれば、その外宮的性格は明らかである。わが国の神祇政策を掌握した中臣氏(大中臣朝臣)は、そのシンボルとして、皇室の氏神である伊勢内宮・外宮に対応するものとして、藤原・中臣氏の氏神鹿島・香取を、神祇政策に合わせて整備していったと考えられる。


香取と香島の関係と物部氏

p.298
香取神宮は物部氏が祭祀していた神社である。それが鹿島の神の藤原・中臣氏の氏神化によって、鹿島の神の斎主の神社になっていった


香取神宮と海人と蝦夷地
p.299
香取は「檝取」とも書かれるように、船の「楫取[かじとり]」のことである。

p.300
香取神宮は本来、内海沿岸と海人(楫取)たちが祀っていた神社であろう。それに対して「カシマ」は、名のとおり港であった(鹿島神宮の項参照)。港といっても、内海で魚をとるための港でなく、外海へ出て蝦夷地へ向かうための港であったから、内海の住民たちの日常の生活と直接関係はない。だから、鹿島神宮周辺の海人たちを支配するのは、中世になっても香取神宮なのである。田植祭などの生活にかかわる祭を盛大に行なうのが香取神宮であることも、そのことを証している。
 あらぶる神々のいる異境に向かう場合には、境界に甕を据えて祈る。蝦夷地に向かう船の航海の安全と、人々の武運長久とを祈るための港が「カシマ」であった。だから、内海の住民たち(カジトリたち)は、内海の人々が太平洋に船出するときには外界(外海)に霊威をもつ神に祈ることになる。それが香取と鹿島の関係なのである。

p.302
北上した鹿島・香取の神が、ほとんど太平洋岸か、河に面したところに鎮座していることは、この神を奉斎する氏族が船にかかわることを示している。


大戸神社と多氏
p.302
香取神宮の真西に大戸神社(佐原市大戸)がある。大戸神社は香取神宮の第2摂社だが、老尾[おいお]神社(匝瑳明神)とともに、香取神宮の大禰宜香取氏が祠官として祭る神社である(「旧大禰宜家文書」県史料香取)。いまは「大戸[おおと]」というが、もとは多氏にかかわる「大部[おおべ]」ではないかと思う。[略]


日高・日高見と鹿島・香取
p.304〜305
信太郡はもと日高見国といったと『常陸国風土記』は書き、この日高見国へ、前述の大臣[おほのおみ]の族黒坂命の棺を載せた車が戻ったと『常陸国風土記』逸文は書くが、「日高見国」については諸説がある。ただし、「日高見」の「見」については、「日高」を「見る」の意とする点では異論がない。諸説に分かれるのは「日高」の解釈である。
 神功皇后紀の紀伊の「日高」の話と、神武紀の河内の「日下」の話が、どちらも日(太陽)にかかわる伝承であることからみて、「日高」は「日立」の意味をもち、日高見国は、ヒタチの国に入る前に「東に面[む]きて鹿島の大神を拝む」(『常陸国風土記』信太郡榎浦津の条)地、日の出(日立)を拝む国の意ではなかろうか。
 [略]
 「東を面[む]」くとは、日立[ひたち]・日高[ひたか]に向くことである。そこに「香島の大神」があるのだから、鹿島の神が日高の神で、その神を拝する地が日高見になる。古くは、印波国の北東部(大戸神社の周辺)が日高見とされていた時代があったのではなかろうか。そこから船に乗って渡る日高の国は、日立としての東夷の国であり、この日高(日立)・日高見の関係を象徴するのが鹿島・香取の関係である。そして、このような両神宮の関係を設定したのは、おそらく多氏系の氏族であろう。「ヒタチ」としての東夷の国を「皇威」に服させたのが建借間命や黒坂命であるのも、そのことを示唆している。
 「ヒタチ」が「皇威」に服すると、日高見国は「ヒタチ」の信太の地に移動したのであろう。次いで陸奥の信太郡付近が日高見国になり、ついには蝦夷地が「ヒタチ」、つまり日高、日の本の国となる。その移動に伴って鹿島・香取神も移動した。両神が日高(日立)と日高見の神である以上、このコンビは、新しい日高と日高見の地にとっても必要だったからであろう。