以下、大和岩雄『神社と古代王権祭祀』(新装版、白水社、2009年)から引用です。

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石上[いそのかみ]神宮――「フル」の神の実像とワニ氏・物部氏

石上神宮と物部氏の関係

p.307
石上の地における神祀りの氏族はワニ氏であり、物部氏は、石上にあった神宝の庫[くら](武器庫)の管理を主としていた。

5・6世紀はもちろん、7世紀以降も、石上神社の神主は、ワニ氏の系譜を主張する氏族がつとめていた。

p.308
『姓氏録』は、仁徳天皇のとき「布都奴斯[ふつぬし]神社を石上の御布留村の高庭の地に賀[いは]ひ祀った」のが市川臣で、初代神主となり、以後その子孫(布留宿禰)が連綿として神主であったと、大和の布留宿禰の条で書いている。


物部氏は主に神宝の管理にあたっていた

p.309
石上神宮における物部氏の役割は、次のようであったろう。
 第1、神宝としての武器庫の警護と管理
 第2、各地の服属社の武器を収める役目(それゆえ、物部氏は軍団を率いる軍事氏族の正確をもつ)。
 第3、神宝としての武器を作らせる役目(鍛冶・鋳物などの技術集団、いわゆる「倭鍛冶[やまとかぬち]」を物部氏は統轄している)。
 このような「物」の警護・管理と充実(収納と製作)のために、物部氏は石上神宮にかかわったのであろう。


「布留」が古く、「布都」は新しい

p.310〜311
 霊剣をサジフツ、ミカフツ、フツノミタマということから、フツは刀の切れ味のよいことを表わした語だとか、朝鮮語の名剣の意とする説があるが、フツは「真経津鏡」(『日本書紀』神代紀、『倭姫命世記』)、「麻布都鏡」(『播磨国風土記』賀古郡条)ともいわれ、鏡にも用いられているから、「フツ」を剣だけを示す言葉とみるわけにはいかない。
 フツとフルが同義だとしても、フツは剣や鏡などに用いられ、フルは「招魂」を「ミタマフリ」と訓ませるように(『日本書紀』天武天皇4年条)、マツリゴトに用いられている。このちがいを無視して、「フル」と「フツ」を同じ表現として片づけるわけにはいかない。
 『古事記』は「石上神宮」、『日本書紀』は「石上神宮」「石上振神宮」と書く。『日本書紀』は歌謡でも「石上振る神杉」と書き、『万葉集』にも「石上振の神杉」(1927、2418)とあり、「石上振の山」(422)、「石上振の尊」(1019)、「石上振の里」(1787)、「石上振の早田[わさだ]」(1353、1768)、「石上振の高橋」(2997)とも詠まれている。「石上」は「フル(振)」の枕詞であって「フツ」の枕詞ではない。
 また、『古語拾遺』は石上神宮と書くが、『旧事本紀』は「石上布都大神」、『新撰姓氏録』は「布都奴斯神社」と書く。このような例から、「フル」が古く、「フツ」が新しいことがわかる。

p.311
 「布都主剣」について、『旧事本紀』の「天孫本紀」は、
  宇摩志麻治命、先に天瑞宝を獻ず。亦[また]、神楯を竪[たて]て、斎矣[ものいみします]。五十櫛[いそくし]と謂ふ。亦云、今木を刺し、布都主剣を繞[めぐ]らし、大神を斎殿の内に奉ず。
と書く。「五十櫛」といわれる神楯や、今木(斎木[いみき]のこと)や経津主剣を繞らした中が「斎殿の内」である。「斎殿」は、必ずしも屋根のある建物だけをいうのではない。
 この「天孫本紀」の「布都主剣」を「大神」に改めた文章が、「天皇本紀」に載る。
  宇摩志麻治命、天瑞宝を獻じ奉り、神楯を竪[たて]て以[も]て斎[いつ]く。亦、今木を立て、亦、五十櫛を布都主剣大神に刺繞[さしめぐ]らし、斎殿の内に崇む。
 この記事は、経津主剣と大神を1つにしているが(「天皇本紀」も「天皇本紀」も、訓みは鎌田純一の『先代旧事本紀の研究』の校本の訓みに拠った)、記事としては「天皇本紀」の方が古い。
 布都主剣は、「フル」の神の神域のまわりを囲む神楯や斎(今)木と同じ五十櫛であったが、のちに神に祭り上げられた。 「天皇本紀」の「布都主剣」が、「天神[ママ]本紀」で「布都主剣大神」になっているのは、そのためである。「布都主剣大神」になることによって、「フル」の神は「フツ」の神になったのである。


仲臣[なかつおみ]の布留氏は「布留人」としての祝[はふり]
p.312
石上神宮には本殿がなく、拝殿後方の瑞垣内の地が禁足地として崇められている。古来、この禁足地は「高庭」「神籬」「御本地」「神の御座」「斎殿」などと呼ばれている。

p.312
 「石上」が「振」の枕詞であるように、ワニ氏が祀る「フル」の神が、袖振山(石上)の神である(『万葉集』3013には「石上、袖振川」ともある)。「社の名に依りて、布留宿禰の姓に改む」(『新撰姓氏録』大和国皇別、布留宿禰条)とあるように、本来は「フル」が社名であった。この「フル」はワニ氏にかかわり、「フツ」は物部氏にかかわる。
 石上の神宝を代表するのが「剣」だから、神の物を作り管理する「物部」が、剣を神格化した「フツヌシ」を、布留宿禰の祀る「フル」の神の代わりに、祭神に仕立てたのであろう。
 「フル」の神を祀るワニ氏を代表するのは春日氏だが、『新撰姓氏録』(左京皇別)は、大春日朝臣について次のように書く。
  孝昭天皇の皇子 天帯彦国押人命より出ず。仲臣[なかつおみ]、家に千金を重ね、糟[かす]を委[つ]みて堵[かき]と為さしむ。時に大鷦鷯[ささぎ]天皇〈謚付仁徳〉、其の家に臨幸して、詔して、糟垣臣と号けたまひき。後に改めて春日臣と為る。桓武天皇の延暦廿年に、大春日朝臣の姓を賜ふ。



鳥の「羽振り」と「はぶき」
p.313
祝[はふり]について、大槻文彦の『大言海』は、放[はふり]と同じで、罪・けがれを放[はふ]る義とみる。この説を『日本国語大辞典』や『岩波古語辞典』は採るが、私は、祝の語源を、「ハフ・リ」でなく、「ハ・フリ」と解したい。
 新井白石は『東雅』(享保2年〔1717〕刊)で、祝を「袖振[そでふり]」の義とし、谷川士清は『和訓栞[わくんかん]』(安永6年〔1777〕―明治10年〔1877〕刊)で、「羽振りの義。羽は衣袖をいふ。立ちまふ袖などよりよめる意なるべし、又鳥の羽根にかよはしめる歌あり」と書く。新井白石や谷川士清は歴史にくわしい学者であり、羽(袖)を振ることが神事であることを理解していたから、「羽(袖)振り」と解したのであろう。
 祝が「羽振り」なら、羽根を振って飛ぶ鳥は、天(神の世界)と地(人の世界)を執りもつ「仲臣[なかつおみ]」である。

 
p.314
 谷川健一は、『青銅の神の足跡』で、
  羽ばたきをすること、羽をふることを、古語で「はぶく」といい、「羽振[はぶき]鳴 く」とか「羽振鶏」という語がすでに『万葉集』にも見えているが、この「はぶき」は古代にはふいごの意味にも使用されていて、ふいごの動作が鳥の羽ばたく姿を連想させたのであろうか、
と書いている。
 
p.314〜315
 三品彰英は、「シャーマンと鍛冶は、全く不可分の関係にあり、司霊と鍛冶は同一の職業であった」ことを、「新羅古代祭政考」で詳述している。

p.316
 天(神の世界)と地(人の世界)を仲介する者(仲臣)として、鳥と鍛冶と祝は重なっている。


石上神宮と鳥取氏と鍛冶 

p.318
物部氏と鳥取氏は、石上神宮の神宝の剣を作った伝承にかかわっている。鳥取氏のうち、鍛冶にかかわる人々は、物部氏が管掌する倭鍛冶[やまとかぬち]の集団に組み込まれていたと思われる。



剣と布とワニ氏

p.319
 石上神宮の祭祀と神宝管理は、垂仁天皇の皇女大中姫[おおなかつひめ]が行なっているが(垂仁紀87年)、この名は、水の女としての仲臣、大祝の意である。
 柿本人麻呂は、石上の神域を、娘子らの「袖振山」と表現するが、それは当社の祭祀が、女の仲臣、中姫の祝による祭祀だったからであり、「袖」は、石上の神宝の「比礼」にあたる。
 この「比礼」は女が振るものだが、水の女としての「比礼」の呪力がいかに強いかを、石上神宮の伝承は示している。
 一般に、石上神宮でもっとも重視されるのは布都主剣と思われているが、剣よりも布の方に霊威がある。
 『袖中抄』で、顕昭(生没年不詳、平安・鎌倉時代前期の歌人・歌学者)は、石上神宮にまつわる次のような話を記している。
  昔、女の河のはたに、布をあらひたてりけるに、河上より剣のながれきたるが、よろづ物を皆きりやぶりてけるに、この布にまつはれてとどまりにけり。その剣をとりて、此社にいはふによりて、布留とは、布のにとどまるとかける也とぞうけたまわる。但ふるといふ所におはする神なれば、ふる社と申にや
 また、『石上大明神縁起』は「詞林采葉抄ニ曰ク」として、次のように書く。
  昔、此川ニテ女ノ布ヲ濯ヒケルニ、水上ヨリ剣ノ流レ下リケルガ、アタル土石草木タマラズ截[キ]レケルニ、此布ニ纏ハレテ留リタリケルヲ、俗人取テ神ヲ斎[イハ]ヒタリケレバ、一夜ニ椙[スギ][オヒ]タリケルヲ、神椙と[ママ]申ス云々。但シ今ニ至ルマデ神剣ヲ祓殿ノ岸下布留河の石上[イシノウヘ]ニ安置シ奉リ、祓除ヲ修スル故実アレバ、神剣此地ニ鎮座シ給フ時、石上ナドニ仮ニ斎ヒ奉リタル事ナドノアリテ、其由縁ヲ以テ、石以テ石上ト名付タルニモアランカ


p.320
石上の伝承や歌は、剣より布(袖)を重視している。女が登場することからみても、魂振りの祝は仲姫(水の女)である。
 「鎮魂」と書いて「タマフリ」と訓ませるのは、荒魂・和魂、生魂・足魂などの魂の両面性を、音の「タマフリ」と字の「鎮魂」で示したものである。「布留」の「留」も「鎮魂」の「鎮」と同じ意味をもっており、したがって「布留」もまた、「振る」と「留む」の両面性を表わしている。


「比礼振り」と鎮魂祭

p.321
 鎮魂祭[たまふりのまつり]にかかわる石上の神宝10種は、物部氏の祖の饒速日命が天より持ってきたと、『旧事本紀』(天皇本紀)は書くが、石上の神宝十種のうち、剣は「八握剣」のみで、他は、4種が玉(生玉・足玉・死返玉・道反玉)、3種が比礼(蛇比礼・蜂比礼・品物比礼)、2種が鏡(瀛津鏡・辺津鏡)である。剣が1つだけであることからも、石上神宮を剣神祭祀の神社とみる従来の通説には問題がある。
 神宝のうち、玉・鏡・剣はいわゆる三種の神器だが、「ヒレ」はちがう。「ヒレ」は、布留川の「布」であり、倭文氏の織った神衣であり、天女の羽衣である。

p.322
死人を生き返らせるのは比礼であって、剣などのいわゆる「三種の神器」ではない。

p.322
 このように、石上の神宝や天之日矛の神宝の3分の1または半分が「ヒレ」なのは、「羽振り」が本来、女性の役だったからであろう。シャーマンといっても、わが国の場合、卑弥呼で代表されるように女性の祝[はふり]だから、死人を生き返らせる呪術の「羽振り」の「羽」は「ヒレ」なのである。


『万葉集』の石上の歌はすべて恋歌

p.324
 石上を冠した万葉集が、ほとんど恋の歌であることも、記・紀に書かれる剣神布都主命のイメージが、『万葉集』時代の石上神宮のイメージではないことを示している。

 
ワニ氏の「フル」の神から物部氏の「フツ」の神へ

p.325
 「布都主剣を繞[めぐ]らし」と「旧事本紀」が書くように、剣は瑞垣の垣(五十櫛)として立てられていたが、後世、神の依代として、瑞垣内の中央に埋められるようになったと推測される。「フル」の神が「フツ」の神になり、「比礼(布・袖)」の霊威が「剣」に代ったのは、そのときであろう。

p.325〜326
 石上神社に坐す「布都御魂」は、建御雷神の依代として高天原から降下したと「古事記」が書くように、布都主神は 建御雷神と対[ペア]である。そのことは、国譲りの使者として高天原から派遣されるとき、両神が対[ペア]で天降ったとか、布都主神が建御雷神に役目を譲ったと書かれていることからもいえるが、建御雷神は中臣・藤原氏の氏神である。

p.326
 「仲臣[なかつおみ]」の鏩着大使主[たがねつきおおおみ](臣)を祖とする中臣臣[なかつおみのおみ](仲臣)とちがって、建御雷神を祖とする中臣[なかとみ]連は、「ナカツオミ」といわず「ナカトミ」といい、姓[かばね]も「連」である。仲臣[なかつおみ]の「オミ」は姓の「臣」ではなく、「大忌[おみ]」の意である。石上神宮の最初の祝[はふり]を「市川臣」というが、この「臣」も「大忌」の意である。大忌は、神武天皇の皇子神八井耳命が弟に、「汝[いまし][みこと][かみ]と為りて、天下治[しらしめ]せ。僕[あ]は汝[いまし][みこと]を扶[たす]け、忌人となりて仕へ奉らむ」と云ったと『古事記』が書く「忌人」のことであり、忌人は祝人、大忌は大祝のことである。
 『日本書紀』は、神八井耳命が弟に、「汝[いまし]を輔[たすけ]て、神祇を奉典せむ」といったと書き、「忌人」を、「神祇を奉典」する人と書いている。神八井耳命は「手足わななきて」と『古事記』は書くが(『日本書紀』は「手足ふるへおののき」と書く)、谷川健一によれば、この表現は神がかりの状態を暗示しているという。神八井耳命は多(太)臣の祖と、記・紀は書くが、オホ臣もワニ臣と同じ仲臣であることを、『新撰姓氏録』(右京皇別・島田臣条)や『多神宮注進状』(久安5年〔1149〕成立)は記している。
 このように、忌人・祝人は「大忌」だから、仲臣[なかつおみ]は「仲大忌[なかつおみ]」である。この「神祇を奉典」する「大忌[おみ]」に対して、「神事の細部に与[あづか]る人々」を「小忌[をみ]」という。祭官の中臣連や忌部連、また神の物を作り管理する物部連は、「小忌」である。だから姓[かばね]は「連[むらじ]」であって、仲臣のワニ臣・オホ臣のように「臣[おみ]」ではない。中臣連も、卜占をもって「大忌」の仲臣を助けた「小忌」であった(布留宿禰は「連」から「宿禰」になっているが、本来は「臣」であったのを「首」に落とされたから、「連」になったのである。)

p.327
 中臣(藤原)・物部(石上)両氏の氏神のタケミカヅチとフツヌシが一体になって天孫降臨神話に登場し、両氏が「中臣」と称するのは、仲臣のワニ氏・オホ氏の振神・喪神を、剣神・雷神として氏神に変質させたからであろう。私は、このような工作をしたのは、天武・持統・文武期の中臣(藤原)大島と物部(石上)麻呂であり、フツヌシよりタケミカヅチが優位に書かれているのは、元明・元正朝の藤原不比等の工作であろう。