以下、大和岩雄『神社と古代王権祭祀』(新装版、白水社、2009年)から引用です。

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鹿島神宮――藤原氏の氏神となったタケミカヅチ

建甕槌神の「甕」

p.270
 タケミカヅチは、文献でみるかぎり9世紀以降の祭神名で、それまでは祭神を何と称していたか定かではない。

p.270〜271
 『古事記』は「建御雷」と「建甕槌」の2神を記載しているが、建御雷神の系譜を、
  迦具土神――甕速日神――樋速日神――建御雷神(建御雷男神) 
とし、建甕槌神については、次のような系譜を記している。
  大物主神――櫛御方命――飯肩巣見命――建甕槌神――意富多多泥古
 ここでは、建甕槌神は三輪君の祖オホタタネコの父になっているが、『土佐国風土記』逸文所引の『多氏古事記』の三輪山伝説や、『常陸国風土記』那賀郡の晡時臥[くれふし]山伝説などからみて、多氏系の甕神と考えてよかろう(詳細は『日本の神々・11』の大井神社の項を参照)。一方、建御雷神は、国譲りの使者として出雲に天降りする剣神である。建御雷神は、『古事記』では「亦[また]の名は建布都神・豊布都神」と書かれ、剣神経津主神と重なっている。
 このように『古事記』がタケミカヅチを天つ神と国つ神の2神にしていることを学界は無視している。こうした無視は『日本書紀』が「建甕槌」を切り捨てていることによるが、そのかわり『日本書紀』は、『古事記』の「建御雷」を「武甕槌」と書いている(神武天皇即位前紀の神剣降下の条にのみ「武甕雷」とある)。この『日本書紀』の表記からみても、建御雷神は、大物主神系の建甕槌神を剣神の天つ神にしたものと推測できる。
 結論からいえば、本来は建甕槌神であった当社の祭神を、藤原・中臣氏が当社の祭祀氏族になるや建御雷神に変えたのである。「甕」の神が本来の祭神であることは、次の伝承からもいえる。
 康元元年(1256)に鹿島をおとずれた藤原光俊は、
  神さぶる かしまを見れば 玉たれの 小かめはかりそ 又のこりける
   此歌は鹿島といふ島は、社頭より十丁ばかりのきて、今は陸地よりつづきたる島になんはへり、その処につぼといふ物のまことにおほきなるか、半すぎてうつもれてみえしを、先達の僧にたずねしかば、これは神代よりとどまれるつぼにて今にのこれるよし申し侍りしこそ、身のけはよたちておぼえはべりしか、こかめ有り、今事たかひてよめり……(傍点引用者)
と『扶木抄』に書いている。

 

p.273
鹿島神宮に大甕の伝承があるのは、船の航海の加護に大甕が霊験を示すからであろう。

p.273
 『琉球神道記』のなかの「鹿島明神のこと」に、
  鹿島の明神は、もとはタケミカヅチの神なり。人面蛇身なり。常州鹿島の浦の海底に居す。一睡十日する故に、顔面に牡蠣[かき]を生ずること、磯のごとし、故に磯良と名づく。
とある。これによれば、鹿島神宮や息栖神社の海底の大甕こそ鹿島明神ということになる。また、鹿島明神は海神安曇磯良[あずみのいそら]と同じにみたてられているが、このような伝承は、いままで述べたことから無視できない。
 『対馬神社誌』によれば、上県郡上対馬町舟志[しゅうし](旧舟志村)の氏神、地主神社の神体も大甕である。上県町の志多留・伊奈・女連[うなつら]・大ヶ浦などの神社も甕を神体にするが、この地域には、志多留の浜に大甕がカラの国から漂着し、その甕は、潮が満ちてくる時刻になると水がいっぱいにあふれ、干潮時になると空になったので、この不思議な霊験に驚いた村人らが、大甕をカナクラ山の山頂に祀ったという伝承がある。
 以上のような伝承からみても、当社の祭神タケミカヅチの「ミカ」は「甕」で、「雷」でないことは明らかである。


「カシマ」と甕
p.273〜274
『常陸国風土記』は「カシマ」について、注に、
  風俗[くにぶり]の説[ことば]に、霰零[あられふる]香島の国といふ。
と書く。ところが、『肥前国風土記』逸文の「杵島[きしま]山」の条にも、
  あられふる 杵島が岳を 峻[さか]しみと 草取りかねて 妹が手を執る
とあり、注に「これは杵島曲[きしまぶり]なり」とある。

p.274
「鹿島立ち」(長旅に出立する際、無事を祈って鹿島神の加護を求める習俗)

p.275
「鹿島立ち」は、鹿島の神が「甕の神」である点に、その本源をもつ。『万葉集』に、
  草枕 旅ゆく君を 幸[さき]くあれと いはひへ据ゑつ あが床[とこ]の上[へ]に (巻17、3927番)
とあるが、これは大伴家持が天平18年、越中の国守に任命されたとき、叔母の大伴坂上郎女が送った歌で、「旅行く君がご無事なようにと斎瓮を据えました。わたしの床のそばに」という意味である。このような、旅立ちに斎瓮[いはひへ]を据えた歌は、ほかにもある。
  ……母父に 妻に子どもに 語らひて 立ちにし日より たらちねの 母の命は 斎瓮を 前に据ゑ置き……(巻3、443番)
の歌も、「自分は任地に行くと父母や妻子にいい聞かせて出発したときから、母は斎瓮を前に据えて無事を祈った」という長歌である。また遣唐使の船が難波に発[た]つときに母親が子に贈った歌1首と題詞にある長歌には、
  ……草枕 旅にし行けば 竹玉を しじに貫[ぬ]き垂れ 斎瓮に 木綿[ゆふ]取り垂[し]でて 斎ひつつ 我が思ふ 我[あ]が子 ま幸[さき]くありこそ (巻9、1790)
とある。また防人がうたった歌に、
  ……大君の 命[みこと]のまにま ますらをの 心を持ちて あり巡[めぐ]り 事し終[を]はらば 障[つつ]まはず 帰り来ませと 斎瓮を 床辺に据ゑて 白たへの 袖折り返し ぬばたまの 黒髪敷きて 長き日を 待ちかも恋ひむ 愛しき妻らは
  (巻20、4331)
とあり、さらに
  大君の 命にされば 父母を 斎瓮と置きて 参ゐ出来にしを(巻20、4393番)
とある。このように斎瓮を据えて神の加護を祈ることが「鹿島立ち」である。


p.276
 港は陸と海の境界であり、「カシマ」の地に甕の神が祀られたのも、そのためであろう。
 『播磨国風土記』託賀郡法太里甕坂の条に、
  昔、丹波と播磨と、国を境ひし時、大甕を此の上に掘り埋めて、国の境と為しき。故、甕[みかさか]坂といふ。
とある。


荒ぶる神と甕の神
p.276
斎瓮や甕を境界に据えるのは、異境へ旅立つ人を加護するためだが、荒ぶる異境から来る邪霊を防ぐためでもある。


坂戸社について
p.278
『常陸国風土記』は養老5年(721)頃、常陸国司であった藤原宇合[うまかい]によって編集されたとする説が有力だが、香島郡の条には、鹿島神宮についての詳しい記述があり、その始めのほうに、
  天の大神の社、坂戸の社、沼尾の社、三処[みつところ]を合せて、すべて香島の天の大神といふ。
とある。

p.278
 「坂東[ばんどう]」が「箱根の坂(関)の東」(関東)を意味するように、坂には上り下りの坂だけでなく、境・界の意味がある。

p.278
 「戸[と]」は鳴戸、瀬戸、水戸、山門[やまと]、川門、水門[みと]などと同じ「ト」であり、「ミナト」の「ト」も「入口」の意である。



「あられふる」の枕詞と祭頭祭

p.281
 「あられふる」は本来、「荒ぶる」の意であろう。

p.281〜282
 坂戸の神は、異境のあらぶる神と戦うあらぶる神であり、それが擬人化されたのが、『常陸国風土記』行方[なめかた]郡の「荒ぶる賊」を討つタケカシマ(建借間)である。タケカシマは、兵たちと共に、
  杵島の唱曲[うたぶり]を七日七夜遊び楽み歌ひ舞ひき。時に賊[あた]の党[ともがら]、盛なる音楽を聞きて、房挙[いへこぞ]りて男も女も悉尽[ことごと]に出で来、浜傾[はまかぶ]して歓咲[えら]ぎけり、建借間命、騎士[うまいくさ]をして堡[をき]を閇[と]ぢしめ、後[しりへ]より襲[おそ]ひ撃ちて、尽[ことごと]に種属[やから]を囚[とら]へ、一時[もろとき]に焚[や]き滅しき。
とある。タケカシマたちの歌舞は荒ぶる所作で、まさに「荒[あら]れふるカシマ」が荒ぶる賊を討ったのである。その唱曲[うたぶり]を「カシマブリ」(杵島[きしま]の唱曲[うたぶり])という。
 この「カシマブリ」について、『常陸国風土記』の香島郡の条は、神宮の神事の1つとして、
  年別[としごと]に四月十日に、祭を設けて酒灌[のみ]す。卜氏[うらべうじ]の種属[やから]、男も女も集会[つど]ひて、日を積み夜を累[かさ]ねて、飲[さけの]み楽[たのし]み歌ひ舞ふ。
と書く。現在、鹿島神宮の祭で最も盛大な祭頭祭[さいとうさい]は、正木篤三・堀一郎・和歌森太郎の「鹿島神宮式年御船祭拝観記」にあるように、『風土記』のこの祭から来たものであろう。


p.283
 この「タケカシマ」は、『常陸国風土記』には大(多)臣の祖とある。多氏については三輪神社の項で述べるが、この「タケカシマ」に代表される多氏が、「建甕槌神」を奉じていたのであろう。多氏は三輪山(大物主神)祭祀にかかわるから、大物主系の建甕槌神を奉斎しするのは自然である。『古事記』のみが、この国つ神系のタケミカヅチを載せるのは、『古事記』の編者が多氏だからである。
 『多氏古事記』(『土佐国風土記』逸文記載)は、毎夜しのんでくる壮士[をとこ](大物主神)の着物のすそに倭迹迹媛[やまとととひめ]が針をつけておいたところ、
  旦[あした]になりて之[これ]を看[み]れば、唯三輪の器者[うつはもの]のみ有り。故に時の人、称して三輪村となす。社の名もまた然り。
と書く。「器」とは「甕」のことだが、『古事記』や『日本書紀』に載る神人婚姻譚の三輪説話を、『多氏古事記』のみ「器(甕)』を主とする話として載せていることからも、「三輪―甕―多氏」の関係が推察できる。
 藤原・中臣氏は、この「甕」の神を「雷」の神に変え、国譲り・天孫降臨神話で活躍させ、藤原・中臣氏の氏神としって春日大社に遷し、主祭神として祀ったのである。だから、正史の『日本書紀』からは、『古事記』が伝える大物主神系の建甕槌神は消えている。


「カシマ」の神の祭祀と藤原・中臣氏

p.287
 このような歴史的事実からみて、国譲り神話で大活躍し、藤原・中臣氏が氏神として春日大社で祀る建御雷神は、机上で作られた神で、常陸や陸奥の人々に対しては神威がなかったといえる。