以下、大和岩雄『神社と古代王権祭祀』(新装版、白水社、2009年)から引用です。

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宇佐八幡宮――「ヤハタ」信仰の原像と新羅・加羅系氏族

「ヤハタ」の語義について
p.244
当社は、宇佐市南宇佐の御許[おもと]山の北北西、通称「小倉山」という丘陵上にあり、現在は「宇佐神宮」と称している。
 『日本書紀』は神武天皇即位前記に、天皇が東上の途中、菟狭[うさ]に寄り、菟狭国造の祖菟狭津彦・菟狭津媛が迎えたと書き、『古事記』は地名を「宇佐[うさ]」と書いて同じ話を載せている。
 このように、宇佐は古くから文献に登場するが、当社が「宇佐宮」「宇佐八幡宮」と呼ばれるようになったのは、貞観元年(859)、山城国に八幡神が勧請されたあとである。奈良時代の八幡宮に関する文献は32件あるが、すべて「八幡[やはた]の神」「八幡大神宮」「広幡八幡大神宮」とあり、「宇佐」と書かれた文献はまったくない。聖武天皇の宣命にも、広幡八幡大神の託宣によって大仏を造営したとある(『続日本紀』)。

p.245
鎌倉時代の正和(1312―1317)年間に書かれた『八幡宇佐宮御託宣集』(略して『託宣集』)に、八幡大神は、
  辛国〈乃〉〈尓〉〈天〉天降八流之幡〈天〉〈者〉日本神〈止〉〈礼利〉
  (辛国[からくに]の城[き]に始めて八流の幡を天降して、吾は日本の神となれり)
と宣して示現したとある[略]


「八幡」の神は韓国[からくに]の神
p.247
宇佐八幡宮の「宇佐」は「石清水」と区別するためにつけられたもので、本来の「ヤハタ」の神は、宇佐の土地神ではない。「辛国ノ城ニ始メテ」天降り「日本ノ神」になったというのだから、韓国[からくに]の神である。

p.248
『魏志』東夷伝馬韓条
  常に五月を以て下種し、訖[おわ]りて鬼神を祭る。群聚歌舞飲酒して、昼夜休む無し。其舞は数十人倶に起きて倶に起きて相随ひて地を踏むに低昂手足相応ず、節奏鐸舞有り。十月農功畢[おわ]り、亦復び之如し。鬼神を信じ、国邑各々一人立てて天神を祭らしむ。之を名づけて天君という。又諸国それぞれ別邑あり、これを名づけて蘇塗という。大木を立てて鈴鼓を懸け、鬼神に事[つか]

p.248〜249
 「大木を立てて……鬼神に事ふ」祭事は立竿儀礼として今も朝鮮で行なわれているが、この立竿儀礼で「看過できないものに農楽の農旗がある」と依田千百子は書く。
 金両基も、農楽は農旗を中心にして歌い踊る円舞だから、『魏志』の神木のまわりを群衆が歌い舞って天神を祭るのと同じで、天神を旗に招いて五穀豊穣を祈願する神事芸能であるとし、農旗はもともとは幟[のぼり]ではなく、木や竿などの神木と考えられると書き、農旗イコール神木とみる。
 この依田・金両氏の説を私は支持するが、農旗は、布地に「農者天下之大本」と墨書し、旗のまわりを赤・黃・青などの絹布でかざり、旗竿の頂きに雉の羽をたばねて巻きつけてある。秋葉隆の「朝鮮民俗誌』によるとはいえ、慶尚北道盈徳面華南洞の10年に1度の大祭には、紅旗を2間余の竹竿につけ、竿の頂に雉の羽根、旗のまわりに白紙、麻布、紅布を結びつけたものを立てたという。これは農旗と同じである。
 ヤハタの原像は、この旗であろう。韓国の「ハタ」は、依田千百子が指摘するように、「巡遊(幸)性」が特徴である。八幡宮の最大の祭事は放生会[ほうじょうえ]だが、その祭事でもっとも重要なのは、香春岳の銅で作られた神鏡を、香春の採銅所にある古宮(元宮)八幡宮から宇佐の和間浜[わまのはま]まで運ぶ神幸行事である。詳細はここでは略すが、前頁の図でもわかるように、豊前国のほとんどを15日かけて巡っている(今は行なわれていない)。
 神鏡は八幡宮の「御正躰(御神体)」といわれているが、私は、幡を先頭に神鏡が巡幸したのではないかと推測している。『魏志』東夷伝には、蘇塗の神木に鈴鼓をかけたとあるが、鈴鼓はいわゆる朝鮮式小銅鐸で、それが八幡宮の神幸では鏡になったともみられる。景行紀に、神夏磯[かむなつそ]姫が、賢木[さかき]に鏡・剣・玉をつけ、船の舳[へ]に「素幡[しろはた]」を立てて参向したとあるが、八幡宮の神幸は、このような海上巡幸を陸上で行なったものであろう。



神功皇后の「ハタ」による降神儀礼

p.250
 神功皇后紀によれば、九州遠征のとき、神功皇后は自ら神主となり、武内宿禰に琴をひかせて、琴の前と後に「千繒高繒[ちはたたかはた]」を置いて降神儀礼を行なったという。

p.250〜251
神功皇后紀の降神儀礼の記事には、神の示現の託宣を「幡荻穂[はたすすきほ]に出[いで]し吾は」と書かれている。ススキは幡のようになびくから「幡荻」なのであり、「穂に出る」の「穂」は「秀[ほ]」の意で、形があらわれることをいう。この記述からも、神が「千ハタ高ハタ」の幡を依代として現れたとみられる。『続日本紀』に載る聖武天皇の宣命や『豊前国風土記』逸文には、「広幡八幡大神」と書くが、「広幡八幡」は「千繒高繒」と同じ表現であろう。また「千ハタ高ハタ」に琴が登場するのは、蘇塗の神木と歌舞、農旗と農楽、旗と琴の関係と重なっている。
 このように「ハタ」が神の依代であることを証す神功皇后の記事は、八幡神の本質を示唆している。八幡神は、辛島氏や大神氏に憑いて託宣する神として、いろいろな文献や伝承に登場するが、神功皇后紀の神も、「千ハタ高ハタ」に示現して託宣する。
 前述のように、蘇塗[そと]の神木と「ハタ」は神の依代として同じであるが、神功皇后紀の託宣では、まず「賢木[さかき]」を依代とする女神が現れ、次に「幡」を依代とする女神が現れている。この依代に憑[つ]いた神は女神であり、この女神の託宣をするのは巫女である。この関係は、八幡宮の祭神と、本来の祭祀氏族である辛島氏との関係を示している。「幡荻穂に出し吾は」の「吾」や、「幡を天降して吾は日本の神となれり」の「吾」は、神が託宣者と一体になった「吾」であろう。

p.251
辛島氏の家伝の『書上帖』には、辛島の家は「女官ノ家ニテ、先代皆女称ヲ以呼来候」とある。女官の家だから、女官でない男の場合も「女称」で呼んだというのである。
 宇佐八幡宮の祭神大帯姫、辛島氏や八幡宮と深くかかわる香春神社の「辛国息長大姫大目命」(『延喜式』神名帳の表記)は、神功皇后(オキナガタラシヒメ。『記』は息長帯比売、『紀』は気長足姫と書く)にかかわる神名とされている。[略]「辛国宇豆高島」の略が辛島だとすれば、「辛国」は「辛島」と同義とみてもよかろう。そして、「大目」と「乙目」が同根だとすれば、「辛国息長大姫大目命」(『三代実録』の貞観7年〔865〕2月条には、「辛国息長比咩神」とある)は、「辛国の城」の「八流の幡」に降臨した神を祀る巫女の名(辛島乙目)と、「千繒高繒」に降臨した神を祀る巫女の名(気長足姫)を、組み合わせたものであろう。

p.252
 八幡宮に関する縁起でもっとも古いのは、承和11年(844)成立の『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』(略して『承和縁起』)だが、この縁起によれば(まぎれこんだ大神氏伝承は除く)、欽明朝に「宇佐郡辛国宇豆高島」に降臨したヤハタの神は、「比志方荒城潮辺[ひしかたあらきうしおのあたり]」(この名称の「比志方」は「菱形」、「荒城」は「荒木」で、宇佐市に荒木の地名がある)で初めて辛島乙目に託宣してという(「乙目」は「乙女」だが、宇佐市荒木の隣が乙目で、乙咩八幡社があり、「比志方荒城潮辺」は荒木・乙目の地域をいう)。そして、この地から酒井泉・瀬・鷹居と移り、さらに天智朝に小山田(宇佐市北宇佐字小山田で、小山田社がある)の地に移り、辛島波止米[はとめ]が社殿を造営して祀ったが、神亀2年(725)、禰宜波止米に託宣があって現在地の小椋(倉)山へ移ったという。


大神氏の登場

p.255
託宣は辛島氏中心であって、大神氏ではない。大神比義のシャーマン的性格は、辛島氏のもつシャーマン性を投影して作り上げられたものであろう。


御許山と大神氏・辛島氏
p.255
大神比義は鷹居社で八幡神を祀ったとあるが、辛島氏の伝承では、八幡神は鷹居に移る前に、すでに荒城→酒井泉→瀬で祭祀されている。八幡神は、駅館[やっかん]川(宇佐川)の西側の辛島氏の本拠地を海岸から南へ移動し、駅館川を渡って鷹居に到ったことになる。鷹居は馬城峯(御許山)がよく見える所に位置している。大神[おおが]氏は、大和の大神[おおみわ]氏(三輪君)の関連氏族であり、三諸[みもろ]山祭祀の伝統をもつ。その大神氏の伝承にのみ「馬城峯」が登場するのだから、この峯がよく見える鷹居の地に移ったのは、大神氏の意向もあってのことと思われる。大神比義が八幡神を鷹居社で祀ったという伝承も、そこから生まれたのであろう。
 この山は、本来は、宇佐国造の宇佐氏が祀る聖山であった。大神氏は、その神体山信仰を御許山に重ねて、大神比義の伝承を創作したのであろう。御許山(馬城峯)伝承に大神氏・宇佐氏のみが登場し、辛島氏が登場しないのは、そのためであったと推測される。




菱形池の鍛冶翁伝承と大神氏・辛島氏
p.257
八幡宮の社殿は、菱形池を背にしている。したがって、八幡宮を拝むことは菱形池を拝むことになる。ヤハタの神が辛島氏の祖の辛島乙目に最初に託宣した地は「比志方荒城潮辺[ひしかたあらきうしおのあたり]」であるが、菱形池は、この「比志方」にちなんだ名であろう。菱形池の原点にも辛島氏がいる。八幡宮の社殿が、菱形池を祭祀するような向きになっているのも、ヤハタの神が辛島氏のシャーマンに憑くものだったからであろう。



宇佐氏の登場
p.261
八幡神の祭祀にかかわった氏族は、まず辛島氏、次に大神氏、そして宇佐氏である。


「ヒレ」と「ハタ」
p.263
『託宣集』の「辛国の城」は、欽明紀23年7月条の、
  韓国の 城[き]の上[へ]に立ちて 大葉子は 領巾[ひれ]振らすも 日本[やまと]へ向きて
  韓国の 城の上に立ちて 大葉子は 領巾振らす見ゆ 難波へ向きて
の「韓国の城」をヒントにしたとみられているが、なぜ、この歌をヒントにしたかが問題である。私は、「幡」と「領巾」がダブルイメージだったからと考える。

p.264
「ヒレ」を振るという行為が、離れて行くものを呼び戻す招魂の意味を持つ

「ヒレ」には天女の羽衣の意味がある。

p.265
 『三国遺事』(紀異第1)の「延烏郎・細烏女」の項に、次のような伝承が載る。延烏郎・細烏女が日本に去ってしまったので、新羅の国は日も月も出なくなってしまった。そこで、使者を派遣して帰国するように頼んだところ、帰国できないが、細烏女が織った絹の布を持ち帰れば、日も月も元のように輝くであろうといわれ、そのとおりにしたところ、新羅に再び日と月が輝いたとある。この絹の布は「ハタ」であり「ヒレ」である。[略]



祭神について
p.267〜268
宇佐神宮の現在の祭神は応神天皇・比売大神・神功皇后であるが、前述のように、『延喜式』神名帳には「八幡大菩薩宇佐宮」「比売神社」「大帯姫廟神社」とある。中野幡能は、辛島氏のヤハタ神に応神天皇の神格を賦与したのが大神比義とみて、その時期を鷹居社造立の時期と推測する。私は、鷹居社の次の小山田社から現在地(小椋山)へ移る時期とみるが、神功皇后と応神天皇を祭神に比定したのは大神氏であろう。
 「歴史上の人物」を氏神の名にすることはよくあることだとしても、「ヤハタ」の神に、記紀神話の神功皇后・応神天皇と共通した要素があったことは確かである。すなわち、神功・応神と大帯姫・八幡大菩薩は母子神であり、比売神は巫女としての神妻である。
 神功・応神伝承はウツボ船漂着譚のヴァリエーションであり、母子神信仰と不可分の関係にある。ウツボ船伝承は朝鮮半島・対馬・九州だけでなく、沖縄・台湾にも分布する。八幡信仰は、朝鮮半島南部を含む黒潮圏の海人系母子神信仰に、朝鮮からの渡来人が伝えた東北アジア系シャーマニズムが重層したものであろう。『託宣集』によれば、八幡神は童子と鍛冶翁の姿で示現している。九州地方の沿岸部に八幡社が多いのも、八幡信仰の原初的性格と無関係ではなかろう。