以下、大和岩雄『神社と古代王権祭祀』(新装版、白水社、2009年)から引用です。

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宗像大社――水沼君・宗形君と「海北道中」

水沼君が祭祀していた宗像神

p.220〜221
 この宗像三女神は天照大神と素戔鳴尊の誓約[うけい]によって生まれたと、『古事記』と『日本書紀』本文・一書に書かれているが、その記事は大別して次の3つに分類できる。
①アマテラスがスサノヲの十握剣を折って噛みくだき、吹き出した狭霧から生まれた。(『古事記』『日本書紀』本文)
②アマテラスがスサノヲの曲玉を噛みくだき、吹き出した気噴[いぶき]の中から生まれた。(『日本書紀』一書の2)
③日神が自分の十握剣・九握剣・八握剣を食して生まれた。(『日本書紀』一書の1と3)
 [略]
 ③は、日神とあって、天照大神が欠落しており、誓約説話として①と②のような整った型になっていないから、③記事を元に、①と②の記事がつくられたとみられる。
 ③は次のような記事である。
  日神の生[な]せる三[みはしら]の女神を以て、筑紫洲[つくしのくに]に降りまさしむ。因りて教へて[のたま]はく、「汝、三の神、宣しく道の中に降り居[ま]して、天孫を助け奉りて、天孫に祭かれよ」とのたまふ。(一書の1)
  日神の生[あ]れませる三[みはしら]の女神を以ては、葦原中国の宇佐島に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在[ま]す。号けて道主貴[みちぬしのむち]と曰[もう]す。此[これ]筑紫の水沼君[みぬまのきみ]等が祭る神、是なり。(一書の3)

p.221〜222
『日本書紀』の雄略天皇10年10月条に、
  身狭村主青[むさのすぐりあを]等、呉の献れる二の鵞[が]を以て筑紫に到る。是の鵞、水間君の犬の為に齧[く]はれて死ぬ。是に由りて、水間君[みぬまのきみ]、恐怖[おそ]れて憂愁[うれ]へて、自ら黙[もだ]あること能[あた]はずして、鴻[かり]十隻[とを]と養鳥人[とりかひ]とを献りて、罪を贖[あがな]ふことを請[まう]す。天皇、許したまう。
とあり、水間(沼)君と身狭村主青が登場するが、身狭村主青は、雄略紀14年正月条に、呉から織女を連れてきたとある。[略]
 雄略紀10年の記事は、天皇に献上しようとして海外から連れてきた鳥を犬が殺したので、そのつぐないをしたという記事だが、つづいて、
  水間君が献れる養鳥人[とりかひひと]等を以て、軽[かる]村、磐余[いはれ]村、二所に安置[はべ]らしむ。
と『日本書紀』は書く。水沼君の本貫地、筑後国三潴[みつま](水間[みつま])郡には鳥養郷(久留米市大石町付近)があり、今も白鳥川が流れているから、水沼君の白鳥献上の話は事実であろう(『出雲国造神賀詞』も、服属の証[あかし]として出雲国造が白鵠を献じると述べている)。
 
p.222
 神代紀と雄略紀の水沼君の記事は、ヤマト王権に服属した水沼君が、ヤマト王権の使者たち(その代表が身狭村主青)が往復する道中の海導者になって、宇佐島(宇佐島がどこかは後述)の「道主貴」の神を「海の北の道の中」の沖ノ島に遷し祭ったことを、反映したものと考えられる。

p.223
 海北道中の沖ノ島祭祀をヤマト王権がより積極的に行なうようになった時期と、雄略紀の水沼君の服属伝承が重なることは、無視するわけにはいかない。



道主貴と水沼君と丹波
p.223
水沼君が海北道中に祀った「道主貴」の神と、記・紀における丹波道主貴との関連を、折口信夫は「水の女」で書いている。

p.223
 折口信夫は、真奈井の天女伝説からみて、「宗像・水沼の神は実は神ではなかった。神に近い女、神として生きている神女なる巫女であったのである」と書き、丹波道主貴の娘たちを含めて、このような神女・巫女を「水の女」というと書く。

p.223
 『播磨国風土記』託賀[たか]郡荒田の条には、
  此処に在す神、名は道主日女[ひめ]命、父なくして、み児を生みましき。
とあり、つづいて、
  袁布[をふ]山といへるは、昔、宗形の大神奥津島比売命、伊和大神の子を妊みて、この山に到来[いた]りて「我が産むべき時は訖[を]ふ」と云ひき。故、袁布山といふ。支閇[きへ]の丘と云へるは、宗形の大神「我が子を生む月に尽[つき]ぬ」といへき。故、支閉の丘といふ。 
とある。

p.223〜224
「大日孁貴」が天照大神になったように、祀る巫女が祀られる女神になった点では、伊勢神宮と宗像大社は同じである。それは、伊勢神宮が丹波とかかわり(伊勢神宮の項参照)、宗像大社が「裏伊勢」といわれる1つの理由である。

p.224〜225
 水沼君は「鳥養[とりかひ]人」の管掌者でもある。垂仁紀の鳥取部伝承からみても、鳥を捕ることと、養うことの両方を兼ねている。「祝[はふり]」に「羽振り」の意味があるように(石上神宮の項参照)、鳥は神祀りと密接にかかわっている。福岡県の珍敷塚古墳や鳥船塚古墳の壁画には、船の舳に鳥が描かれており、天鳥船という名称も、鳥が船の水先案内であることを表している。道主貴は、海北道中(朝鮮半島と往来する海路の道中)の水先案内の神であり、水沼君の神である。


水沼君とアヂスキタカヒコネ伝説とヒメコソ伝承
p.225
 『古事記』は、
  大国主神、胸形の奥津宮に坐す神、多紀理毗売[たきりびめ]命を娶[めと]して住[ママ]みませる子、阿遅鉏高日子根[あぢすきたかひこねのかみ]神、次に、妹高比売命、亦の名は下光比売[したてるひめ]命、
と書く。『播磨国風土記』託賀郡の記事と重ねれば、大国主神が伊和大神、多紀理毗売命が奥津島姫命である。
 阿遅鉏高日子根神について、『出雲国風土記』は仁多郡三沢郷の条で、次のように書いている。
  大神大穴持命の御子阿遅須伎高日子命、御須髪[みひげ]八握[やつか]に生ふるまで、夜昼哭[な]き坐[ま]して、辞[みこと][かよ]はざりき。その時、祖命[みおや]、御子を船に乗せて、八十島を率巡[ゐめぐ]りて、宇良加志[うらかし]給へども、猶[なほ]哭き止[み]たまはざりき。大神、夢に願[ね]ぎ給ひしく、「御子の哭く由[よし]を告[の]りたまへ」と、夢に願[ね]き坐しき。その夜、御子辞[みこと]通ふと夢見坐ししかば、寤[さ]めて問ひ給ふに、その時「御津[みつ]と、申したまひき。その時「何処[いづく]をか然[しか]云ふ」と問ひ給へば、即[やが]て御祖の前を立ち去り出で坐して、石川を度り坂の上に至り留[とど]まりて、「是処[ここ]ぞ」と申したまひき。その津の水沼にして御身浴[みみそ]ぎ坐しき。故、国造、神吉詞[よごと][まを]しに朝廷[みかど]に参向[まゐむ]かふ時、其の水沼出だし用ゐ初[そ]むるなり。 此に依りて、今も産婦[はらめるをみな]、その村の稲を食はず。若[も]し食へば、生るる子已にもの云はず。故、三津[みつ]と云ふ〔神亀3年に字を三沢と改む〕即ち正倉あり。
 この『風土記』の伝承にも、水沼(間)君が影を落としている。[略]
引用の記事は、加藤義成の『出雲国風土記参研究』の訓みに従った[略]『出雲国造神賀詞』に「生ひ立つ若水沼間[わかみぬま]」とあるのだから、加藤義成のように、「国造、神吉詞[よごと][まを]しに朝廷[みかど]に参向[まゐむ]かふ時、其の水沼出だし用ゐ初むるなり」と訓まなくては、意味が通じない。「水沼出だし」とは、水が湧き出る様をいう。水の生まれる場所が「生ひ立つ若水沼間」である。仁多町原田の小字三津田(光田とも書く)に、どんな旱天にも渇れない豊な泉があり、これが伝承の水沼だといわれている。だから「三津」なのである。[略]

p.227〜228
『肥前国風土記』基肄[きい]郡姫社[ひめこそ]郷の条に、姫社郷というのは、筑前国宗像郡の人、珂是古[かぜこ]が、荒ぶる神を鎮めるために女神を祀ったとある。同書は、姫社郷について次のように書く。
  [略]
 「臥機[くつびき]」は朝鮮渡来の織機、「絡垜[たたり]」は四角形の枠の糸繰り道具だが、沖ノ島からは、こうした織具のミニチュアが出土している。

p.227
 『肥前国風土記』の姫社[ひめこそ]郷の伝承が宗像の水沼君の祖とかかわり、摂津の比売許曽神社が下照比売と称したことからみても、「水沼君―宗像女神―下照姫―姫社」の回路が推定できる。


宇佐島は姫島

p.228
宇佐島とは、比売語曽神社のある宇佐の姫島(大分県東国東郡姫島村)ではないだろうか。
 [略]
私は、「宇佐島」は国東半島沖の姫島と考える。
 1、姫社[ひめこそ]神の亦の名の下照姫と宗像女神の子下照姫。
 2、姫社神の織女的性格と宗像女神の織女的性格(後述)。
 3、宗像の人珂是古と姫社の神。
 以上3例の結びつきは、典拠も論拠もあるから、宇佐の周辺に宇佐島を求めるとすれば比売語曽神社のある姫島以外には考えられない。



ミヌマ氏からムナカタ氏へ
p.231
『旧事本紀』の天孫本紀によれば、水間君の祖の阿遅古(珂是古)は、安閑天皇のときの大連、物部麁鹿火[あらかひ]の弟である。しかし、天皇本紀は、景行天皇の皇子武国凝別命を筑紫水間君の祖(『旧事本紀』は阿遅古も含め「水間」と書く)、国背別命を水間君の祖、豊門別命を三島水間君の祖と書く。水間君には物部氏系と景行天皇の皇子系の2流があったことになる(なぜ2流あるかは、高良大社の項参照)。

p.231
 前述の雄略紀に登場する水沼君の伝承は服属伝承だから、沖ノ島祭祀に中央政権がかかわったのは雄略朝であろう。5世紀後半は、沖ノ島の第1期の岩上祭祀から第2期の岩陰祭祀に移行する時期と、ほぼ重なっている。宗像女神を祭祀するこの水沼君は、筑紫君磐井の乱後、物部氏の支援によって、筑紫君と組んだ三潴[みつま]郡の水沼君の地に進出した。それが『肥前国風土記』の基肄郡(筑後川をはさんで三潴郡の対岸)に宗像郡人珂是古が登場する理由であろう。
 ところが、宗像郡の水沼君は、物部本宗家が用明天皇2年(587)に滅びたため、中央の後盾を失い、代わりに宗像君の登場となったのだろう。宗像氏は、天武紀に初めて史上に現れることからみても、著名な氏族としては新しい。物部本宗家が滅びた時期は、沖ノ島の第2期の岩陰祭祀から半岩陰・半露天の第3期の祭祀に移行する時期と、ほぼ重なっている。


御長手神事と祭神
p.236
沖ノ島(息御島)では、春夏秋冬に行なわれる最も重要な神事が「ミナカテ(御長手)」の神事である。
 『宗像大菩薩御縁起』は、「ミナカテ」を「御手長」と書き(振仮名は「ミナカテ」とあるから、「御長手」のことである)、「宗大臣(宗像神)」が「ミナカテ」を捧げ来て、「武内大臣(武内宿禰)」の「織り持て」る「赤白二流の旗」を「ミナカテ」に付けて、軍の前陣で振り上げ、振り下げたと書く。そして、「ミナカテ」は「息御島(沖ノ島)に立て置きたまへり」と書き、「ミナカテ」を「異国征伐御旗杆也」と書く。
 [略]
 現在は「みあれ祭」と呼ばれているが、主役は浪切大幣であり、大幟であり、赤白の旒である。「御阿礼[みあれ]」とは神の降誕をいうが、幡は神の依代である(宇佐八幡宮の項参照)。[略]

p.236
「ミナカテ」は、振り上げ、振下ろすことによって霊力を発揮する。そして、満珠・乾珠と連動して、その振りが海潮を左右する。

p.237
「ミナカテ(御手長)」も幡のことであり、幡が航海の守護神であることを示している。


p.237
 水沼君の本拠地、福岡県三潴郡大川町に風浪神社がある。社伝によれば、神功皇后が三韓より帰還の途中、台風で船が覆ろうとしたので、皇后が海神に祈ると、白鷺が現れ、風は和ぎ海が鎮まった。そこで、武内宿禰に命じて、白鷺の止まった地に少童[わだつみ]神を祀ったのが、風浪神社の創祀だという。
 [略]
 水沼君が鳥にかかわる氏族であることは前述したが、鳥は船の水先案内である。海北道中の神といわれる道主貴は、素幡であり白鷺であり、「ミナカテ」である。「御長手」「素幡」のはためきは、鳥の飛ぶ姿である。


p.238〜239
「素幡[しらはた]を船の舳[へ]に樹てて参向[まづでき]」たのが神夏磯媛[かむなつそひめ]で、「白幡を表挙[かか]げて、道に迎へ」たのが寸津比売[きつひめ]であるように、幡は巫女とかかわる。「千繒高繒[ちはたたかはた]」をたてて降神呪儀を行なったのは気長足姫[おきながたらしひめ]である。
 折口信夫は、宗像三女神は「実は神ではなかった。神に近い女、神として生きている神女なる巫女であった」と書いているが、神夏磯媛や寸津比売・気長足姫と同じく幡(ミナカテ)をかかげた巫女、道主貴を祀る神女が、宗像神に成り上がったのであろう。
 神女・巫女とは斎姫[いつき]のことである。『日本書紀』本文が書く、辺津宮の市杵島姫の「イツキ」は「斎[いつき]」である。『古事記』は市寸嶋比売と書いて中津宮の神とし、『日本書紀』の一書の2は、市杵島姫を沖津宮の神とする。一書の3も、沖津宮の祭神の瀛[オキ]津島姫の亦名を市杵島姫と書く。このように、辺津宮・中津宮・沖津宮の祭神がいずれもイツキシマ姫と書かれていることからも、宗像三女神は、海北道中の沖ノ島(斎島)で神祀りをする巫女(斎姫)が神格化され、3つの宮に割り当てられたものと考えられる(安芸の厳島[いつくしま]神社は宗像三女神を一所で祀っており、『延喜式』神名帳も「市都伎島神社」と書いている)。イツキ(イツク)島の本来の神は道主貴であり、その神を祀るイツキ姫が神になったのである。前述したように、この点で宗像大社と伊勢神宮は同じであり、「裏伊勢」とも呼ばれている。
 天照大神は、記・紀によれば、大嘗・新嘗の日、織殿[はたどの]で神衣[かんみそ]を織る織女でもあるが、沖ノ島の4号岩窟遺跡(御金蔵)からは金銅製雛形機織具が出土している。また、22号の岩陰遺跡の1メートル四方の正方形の石囲いの埋納施設からは、紡織にかかわる桛[かせい]、椯[たたり]、紡錘[つむ]、【月+?】[ちぎり]、貫[ぬき]、反転[くるへき]、刀杼[とうじょ]品などや、人形[ひとがた]、細頸壺、高坏[たかつき]、台付盃、円板などが出土した。機織具・紡織具は、宗像女神が機織るために奉献したものであり、この点でも伊勢と宗像の神は重なっている。
 『日本書紀』によれば、応神天皇37年2月に縫工女[きぬぬいめ]を求めて呉[くれ]に渡った阿知使主らは、縫工女の兄媛[えひめ]・弟媛[おとひめ]・呉織[くれはとり]・穴織[あなはとり]を連れて、41年2月にようやく筑紫に帰還した。そのとき、胸形大神が工女[ぬいめ]が欲しいといったので、兄媛を胸形大神に奉ったとある。また、『肥前国風土記』基肄郡姫社郷の条には、筑前国宗像郡の珂是古[かぜこ]が荒ぶる神を鎮めるため、この地で女神を祀ったとあるが、女神であることがわかったのは、珂是古の夢に「臥機[くつびき]と絡垜[たたり]」が「儛ひ遊び出で来て」、阿[ママ]是古を驚かしたからだという。このように、宗像にかかわる伝承には織女伝承があり、織幡神社の存在もそのことを示している(前述したように、宗像郡の式内社は宗像大社の3座と織幡神社の1座だけである)。

p.240
 なお、『宗像社造営代々流記』は、沖ノ島の神を「玉取散髪姫」と書く。「玉取」は、三輪や賀茂の神の神婚伝承の玉依姫の「玉依」と同義である。「玉」は「魂」で、神霊が依り憑く姫、斎姫の意である。だから玉取姫といってもよいのに「散髪」がつくのは、沖ノ島の神の性格が『魏志』倭人伝の海導者「持衰[じさい]」の「散髪」とかかわるからであろう。


雄略紀の宗像神祭祀記事と聖婚秘儀

p.240
記・紀や風土記の「玉依」のつく姫は、すべて神妻である。