以下、大和岩雄『神社と古代王権祭祀』(新装版、白水社、2009年)から引用です。

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諏訪大社――建御名方命と古代王権

建御名方命の二面性

p.184
 信濃国の祭政にかかわる信濃国造が、諏訪の古くからのミシャグチ信仰をヤマト王権の神統譜に組み入れた結果、建御名方命という神名が生まれたのである。この神は『古事記』にのみ記されて、日本書紀にはまったく登場しない。

p.185
 『古事記』のみに載り、『古事記』の大国主命の神統譜にも入っていないのに、強引に大国主命の子として「飛び入り」で登場するのは、『古事記』編者の主観的意図によってのことと考えられる。[略]
 [略]特に諏訪の地が選ばれたのは、『古事記』の編者が信濃国造や諏訪大社下社大祝[おおはふり]の金刺[かなさし]氏と始祖(神武天皇皇子の神八井耳命)を同じくする太(多)氏だったからであろう。
 『古事記』の編者は、同族の意向を受けて、大国主命の神統譜に入っていない建御名方命を、強引に大国主命の子として国譲り神話に組み込み、諏訪の神としたのであろう。建御名方命が国譲りに反対して諏訪に逃げ、この地にとどまったという話は、諏訪のミシャグチ神を祀る守矢(屋)氏が、科野国造の勢力に敗れ、その祭祀権が上社地域に限定さるたことと重なっている。諏訪の国譲り神話を拡大したのが、『古事記』の建御名方神話であろう。
 室町時代初期に書かれた『諏訪大明神画詞』には、明神(建御名方命)と洩矢[もれや](ミシャグチ)神とが争い、洩矢神が国譲りしたとあるが、同じ伝承は他の文献にも記されている。守矢氏は神長官として上社大祝に従っているが、守矢氏の祀る神はミシャグチ神である。諏訪の伝承による建御名方命と洩矢神の関係は、出雲の国譲り伝承の建御雷命と建御名方命の関係であり、建御名方命は、出雲では被征服者、諏訪では征服者という、二面性をもっている。


建御名方命という神名

p.185
多祁御奈刀弥神社は現在、徳島県名西郡石井町大字浦庄諏訪にあり「タケミナカタトミ」の神を祀っている。地元の人々は「お諏訪さん」と呼び、「元諏訪」の神社とも称してる。

p.187
 建御名方命という神名は阿波の名方郡の神とかかわる名だが、上社の祭神は、神名では神名では外来性、性格では在来性という二面性をもっている。この二面性は、『古事記』の建御名方命と共通する。


八坂刀売命と伊勢と信濃

p.189
 伊勢津彦命と伊勢朝日郎の伝承は、雄略天皇の東国への勢力拡大(伊勢朝日郎が物部氏に討たれたのは雄略朝)政策のために伊勢を追われた船木氏・猪名部の、信濃移住の反映伝承ではなかろうか。

p.189
 考古学者によれば、諏訪の古墳時代の遺跡・遺物は、三河・遠江から天竜川を遡上して(信濃の天竜川沿岸が上・下伊那郡)諏訪に至った文化伝播のルートを示しているという。建御名方神が「科野[しなの]国の州羽[すは]の海」に至ったのも、このルートを辿ってのことと思われる。[略]


信濃の神と竜田風神の祭祀
p.190
当社が『日本書紀』に登場するのは、持統天皇5年(691)8月23日条の、「使者を遣して、竜田風神、信濃の須波、水内等の神を祭らしむ」という記事である。

p.191
 『日本書紀』の天武天皇4年(675)4月10日条に、
  小紫美濃王・小錦下佐伯連広足を遣して、風神を竜田の立野に祀[まつ]らしむ。
とある。
 この記事は、前述の諏訪や水内の神を祀ったという記事とは性格を異にする。前述の記事では、いままで祀られていた諏訪と水内の神に持統天皇が使者を派遣したのだが、この記事では、使者を派遣して「竜田立野」の地(奈良県生駒郡三郷町大字立野竜田)に「風神」を新しく祀ったのであり、こうした書き方は、「風神」が中国の「風伯」の性格をもつ新しい神であったことを示している。

p.192
 風神を竜田立野に祀る記事につづいて
  小錦中間人連大蓋[はしひとのむらじおおふた]・大山中曽禰[そね]連韓犬[からいぬ]を遣して、大忌神を広瀬の河曲[かはわ]に祭らしむ
とある[略]

p.192
 以上述べたように、竜田・広瀬の祭祀は他の神社祭祀とやや発想を異にするが、この竜田風神の祭祀と共に行なわれた「須波」や「水内」の神の祭祀は、単に古くから信仰されていた信濃の神々を祀っただけではなく、新しい神祇政策や風伯信仰にもとづく祭祀であったと考えられる。


諏訪大社の風祝・薙鎌・風伯

p.194
 諏訪大社では、春秋の遷座祭の行列の先頭に薙鎌[なぎかま]を持つ者が2人立ち、6年に1度の御柱祭のときには、御柱用材(神木)に薙鎌を打込む儀式をする(『綜合日本民俗語彙』)。古くは御柱祭の前年に、信濃国中の末社に鉄製の薙鎌を贈る神事があった(今は近隣の上・下伊那郡の各神社が御柱祭の当年に薙鎌を譲り受けるだけとなっている)。
 『諏訪大明神絵詞』にも、薙鎌は御神宝の一つとして記されている。長野県には、諏訪大社の神宝の薙鎌を擬し、各自、家の鎌を竿の先に結びつけて屋根棟に立て、風を鎮める習俗があった。この薙鎌は風を薙ぐ(和[な]ぐ)ものと解されているが、なぜ、鎌でなければならないのだろうか。
 薙鎌は木に打ち込むものである。[略]

p.195〜196
 薙鎌を木に打ちこむのは、風を切るという世界共通の発想と異なっている。理由は、この神事が、風伯に対する陰陽五行の思想にもとづくものだからであろう。相剋の理では「金剋木」である。金気は金属、刃物であり、木は金気(斧・鋸)によって倒される。刃物のなかから特に鎌が選ばれたのは、風切鎌の習俗が古くからあったからだろう(長野県の風切鎌を屋根に立てる習俗は、諏訪大社の神宝の薙鎌を擬したものといわれているが、この習俗では、薙鎌神事の「金剋木」の思想は無視されているから、古い習俗を薙鎌神事に仮託したものであろう)。


天武・持統両天皇と信濃
p.197
 風神を竜田立野に祀ったのも、薙鎌を木に打ちこむのも、陰陽五行の「金剋木」の風鎮めの呪術だが、一方、この相剋の理には「火剋金」がある。竜田立野が「金」なら、方位として飛鳥は「火」である。
 天武王朝が「火徳」であることは別に書いたが、天武天皇が自らを漢の高祖に擬していたことは通説である。



上社大祝神氏と太(多)氏
p.200
信濃国造が伊勢船木氏と同祖であることは『古事記』に記されているが、建御名方神話は『古事記』にのみ書かれ、『日本書紀』には登場しない。この点に関しては、『古事記』の編者で信濃国造や伊勢船木氏と同祖の、太(多)氏の存在が無視できない。太氏は三輪山祭祀にかかわるが、『和名抄』の信濃国諏訪郡には「美和郷」が見え、水内郡には式内社「美和神社」(『三代実録』は「三和神」と書く)がある。
 下社の大祝は、信濃国造と同じ金刺[かなさし]氏であり、上社の大祝は神[じん]氏という。

p.201
 信濃国造と太(多)氏は同祖氏族であるが、史上に登場する太(多)氏で官位と活躍がはなはだしいのは、壬申の乱に活躍して持統天皇10年8月25日に亡くなった直広壱(正羅下)の多品治と、養老7年7月7日に亡くなった民部卿従四位下の太安万侶と、平城天皇のときに活躍した多入鹿である。

p.203
 この諏訪郡人の金刺舎人(太朝臣)貞長(金刺舎人が下社大祝だから、諏訪郡人の貞長は下社関係者)こそ、上社・下社の神階を急激に上げさせた推進者であったとみられる。だが、彼一人で成功するはずはなく、在京の太朝臣(入鹿の子や関係者たち)の協力を得ていたにちがいない。

p.203
 大国主命の神統譜を無視して、建御名方神を『古事記』に強引に割り込ませたのは、太(多)氏が諏訪の神にかかわっていたからであろう。そのような多氏と諏訪の関係が、平城天皇の時代に上社大祝の世襲制の創設となり、貞観時代とその前後の建御名方命と八坂刀売命の急激な神階上昇にも及んでいるのであろう。
 建御名方命と八坂刀売命という神名が、諏訪にかかわる名ではないことからみても、古代ヤマト王族と諏訪大社の関係は、多氏と信濃国造金刺舎人を無視しては考えられないのである。