以下、大和岩雄『神社と古代王権祭祀』(新装版、白水社、2009年)から引用です。

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大神[おおみわ]神社――三輪山と祭祀氏族

小子部連の伝承と多遺跡

p.125〜126 
多遺跡から祭祀的色彩のきわめて濃厚な遺物が出土することは、オホ臣らの祖の神八井耳命(神武天皇皇子)が、「汝を扶[たす]けて、忌人[いはひびと]となりて仕へ奉らむ」(『古事記』)、「汝の輔[たすけ]と為[な]り、神祇を奉典せむ」(『日本書紀』)といって、皇位を弟に譲ったという伝承と重なる。


卯月上卯日に行われる大祭の意味
p.130
 大神神社の大祭は古来、「卯月上卯日」に行なわれていた。明治6年の新暦採用の採、四月上卯が9日だったので、4月9日に固定し、いまは8日・9日・10日が春の大神祭になっている。
 4月8日は、仏教では釈迦誕生の日といわれ、灌仏会[かんぶつえ]の行われる日だが、また山開きの行なわれる日でもある。[略]

p.131〜132
 大神祭も四月上卯日に行なうが、四月は卯月であり、卯の方位は東、色は青である。
 『古事記』は、三輪山の神の登場について、国作りの途中で、少名毘古那[すくなびこな]神が常世国に行ってしまったので、自分一人で国作りはできないと、大国主神が「愁[うれ]ひて」いると、「海を光[てら]して依り来る神」が、「吾[あれ]をば倭[やまと]の青垣の東の山の上に拝[いつ]き奉[まつ]れ」ば国作りはできるといったと書き、「此[こ]は御室[みもろ]山の上に坐す神なり」と書く。『古事記』は多神社を祭祀するオホ氏が編纂した書だが、『古事記』のみが三輪山を「青垣の東の山」と書いていること、しかも単に「東の山」でなく「東の山の上」と、「山上」を強調していることに注目したい。
 『日本書紀』(1書の6)も、同じ話を載せている。スクナヒコナが去ったあと、

  時に神[あや]しき光海[うな]に照して、忽然[たちまち]に浮び来る者あり、曰[い]はく、「如[も]し吾在[あ]らずは、汝[いまし][いかに]ぞ能[よく]く此の国を平[む]けましや。吾が在るに由[よ]りての故に、汝其の大きに造る績[いたはり]を建つこと得たり」といふ。是の時に、大己貴神問ひて曰はく、「然らば汝は是誰ぞ」とのたまふ。対[こた]へて曰[い]はく、「吾は是汝が幸魂[さきみたま]奇魂[くしみたま]なり」といふ。大己貴神の曰はく、「唯然[しか]なり。迺[すなは]ち知りぬ、汝は是吾が幸魂奇魂なり。今何処[いづこ]にか住まむと欲[おも]ふ」とのたまふ。対へて曰はく、「吾は日本[やまと]国の三諸[みむろ]山に住まむと欲ふ」といふ。故、即ち官を彼処[かしこ]に営[つく]りて、就[つ]きて居[ま]しまさしむ。此、大三輪之神なり。

と書く。ここでは「青」「東」「山の上」という表現は使われていない。『古事記』の表現は、卯月卯日の祭を意識した表現と推測される。
 暁に日輪のように照り輝いて示現したという『大神崇秘書』の記事は、海を照らした依り来るという記・紀の記事を山頂降臨に変えた話だが、時刻は「暁」であり、神の示現に朝日のイメージを重ねていることがわかる。日向・東・青垣・卯月卯日は、この朝日のイメージに由来するものと考えられる。
 大神祭が卯月上卯日なのは、倭の青垣の東の山の上から昇る朝日を里に迎える祭だからであろう。それは山の神が田の神になるという、古い信仰にもとづく祭祀の一例でもあるが、大和国中[くんなか]の人々は弥生時代から、この祭祀を春祭として行なっていたはずであり、その場所は多の地であったろう。
 雄略朝の頃から、ヤマト王権は三輪君をして、三輪山々麓で王権の「マツリゴト」を行なわしめるようになったが、春祭は、里宮としての多の地で行なわれたと考えられる。しかし欽明朝になって、春祭の主催も三輪君が行なうようになった。


p.133
 春の大祭の4月8日に、高い竿の先に花を結びつけて屋外に立てる風習が近畿以西にみられ、「天道花」「高花」「立花」「八日花」などと呼ばれている。特に「天道花」という例が一番多いのは、お天道様・日天様(日神・太陽のこと)が竿に依代に花として示現する行事だからであろう。このように、山の神が田の神になる4月8日の行事には太陽祭祀的な面がうかがえる。花は天降りした神の象徴であり、『大神崇秘書』でいえば、光り輝いて示現した日輪が花である。そして、竿は神が依代とした大杉である。
 この大杉の神木がそびえる山頂に、神坐日向神社が鎮座する。この神社を上社・高宮というが、『大神崇秘書』がその示現した神を「日本[ひのもと]大国主神」と書くように、三輪の神は、本来は日神のイメージをもつ神であった。山麓に神殿がなく、拝殿だけなのも、そのことを証している。


三輪と伊勢
p.133
 三輪山々頂は、大和国中[くんなか]の人々にとっては、朝日の昇る日本[ひのもと]であり、日向[ひむかし](東)の地である。その日向[ひむかし]の方向に伊勢がある。三輪山々頂から見て伊勢は日本[ひのもと]であろう。この場合、三輪山々頂は日向[ひむか](日を迎える地)である(ヒノモト・ヒムカ・ヒムカシの関係については神坐日向神社・大和日向神社の項参照)。



天神としての三輪の神と斎女[いつきめ]

p.136〜137
 伊須気余理比売[いすけよりひめ]は、狭井河のほとりで神武天皇と一夜[ひとよ]寝て、のちに皇后となっている。この比売が神八井耳命らを生むが、庶兄の当芸志美々[たぎしみみ]命らが彼らを殺そうとしたので、母の伊須気余理比売は、「狭井河よ 雲立ち渡り 畝火山 木の葉騒ぎぬ 風吹かむとす」と歌って、神八井耳命らに陰謀を知らせている。狭井は、このように、オホ臣らの始祖の母子にとっては縁の深い聖地である。
 [略]
 注目すべきは、この説話がオホ臣編纂の『古事記』にのみ記されていることである。しかも、伊須気余理比売が危難を息子に知らせた歌には、狭井と共に畝傍[うねび]山が登場するが、神八井耳命は、狭井の伊須気余理比売から生まれ、死ぬと畝傍山の北に葬られている(綏靖紀)。このように神八井耳命に深くかかわることからみても、この『古事記』独自説話は、オホ臣らの視点から特に掲載されたものであろう。
 一方、『新撰姓氏録』(大和国神別)は、倭大国魂神を祀る倭直の始祖の椎根津彦を、大和宿禰条で「神知津彦[かみしりつひこ]命」と書く。ところが『延喜式』神名帳は、多神社を「多坐弥志理都比古[みしりつひこ]神社」と書く。「弥」は「御」で「神」と同じ敬称だから、多神社の「シリツヒコ」と倭直の始祖は同名である。これも、偶然の一致ではないであろう。