以下、大和岩雄『神社と古代王権祭祀』(新装版、白水社、2009年)から引用です。

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天照大神高座[あまてらすおおかみたかくら]神社――「天照大神」を社名につけた理由

「天照大神高座神社」という社名を称する理由

p.75〜77
 秋田籬里の『河内名所図会』(享保元年〔1801〕刊)は、天照大神高座神社について、「 元、春日戸神社と号す。教興寺村東の山窟にありしが、今、弁財天と称して、教興寺の堂内に安す。神像あり。弘法大師の作といふ。長[みたけ]七寸。 例祭、六月七日。此所の生土[うぶずな]神とす。旧跡は山腹にして、巨巌巍々たり。一箇の岩窟を神殿として、前に扉鳥居あり。頗[すこぶる]、天岩戸ともいふべき岩窟なり。まことに、神代よりのすがたなるべし」と書き、前頁のような絵を載せている。この旧跡に当社はある。
 『河内名所図会』は「岩窟を神殿とし」と書くが、「天岩戸ともいふべき岩窟」は、「神殿」ではなく、「神体」である。この「神体」の前に拝殿がある。この祭祀の形は、現在も変わっていない。天照大神高座神社と称した理由の一つは、このような祭祀にあったのだろう。
 岩壁の谷を「クラタニ」というが、当社周辺の地形は、まさに「クラタニ」である。「クラ」は、『綜合日本民俗語彙』や『全国方言辞典』では、「岩石の山地」「高くそびえた岩石」「断崖」の意味とされているが、「神座[かみくら]」「磐座[いわくら]」「幣[みてくら]」などの語があることから、柳田国男は、「クラ」とは「本来はすべて神の降りたまふべき処」とみている。「高御座[たかみくら]」は天皇の玉座をいう。「高座」も、神の坐す所の意であろう。
 天照大神高座神社は、クラ(岩壁)にあるアナ、つまりアナグラ(岩窟)を神体にしているが、クラといわれる谷や岩窟が女陰と関係あることは、『古事記』が、火神加具土[かぐつち]の「陰[ほと]」に成れる神を闇山津見神と書いていることからもいえる。
 クラには谷の意味があるから、本居宣長をはじめ古事記学者は、「クラヤマツミ」を、女陰からの連想による谷山の神と解釈している。岩窟や穴は、凝似女陰・凝似母胎(子宮)なのである。
 女陰を梭で突いて天岩窟にこもり(死)、日神として再生する天照大神(日女・織女と書かれる)にとって、天岩窟隠りが死と再生の呪儀であることは、「天照大神と女陰」に詳述したが、当社の周囲には、岩戸神社古墳群と呼ばれる30基ほどの古墳が確認されている。このように、この場所は死と再生の「こもりく」なのである。そのことは現地に行ってみればよくわかる。
 「こもりくの」という枕詞は、奈良県桜井市の初瀬(長谷)の枕詞であるが、藪田嘉一郎は、長谷寺発行の『長谷寺』のなかで、「コモリクは幽谷密林の中、こもりかくれたところということで、此の地の風致をよく言いあらわしている。古代人はこのような母胎にも似た地形の水源地帯を生命の根源の在る処と観じ、その神秘性を畏敬し、大地母神の信仰を持った」と書いている。
 「大地母神」と長谷の信仰をストレートに結びつけるのは問題があるが、「こもりく」を「母胎にも似た地形」から出たとみている点に注目したい。西郷信綱も、「こもりく」に母胎のイメージをもち、一方、初瀬をうたった歌に葬歌が多いことから、「古代の葬場の一つ」とみている。このように、死と再生の場所が「こもりく」であるからこそ、伊勢神宮の斎宮になる皇女にとって、まず初瀬で「こもり」を行うことが重要な儀礼になっていたのであろう。当社の場所も、そのような聖地であった。この聖地に天岩窟隠の伝承を重ねて、天照大神高座神社という社名が生まれたのであろう。


藤原・中臣氏と春日戸村主と秦氏

p.79
 対馬の阿麻氐留神社を祀る対馬県直(津島朝臣)も、藤原氏と始祖を同じにする系譜を『新撰姓氏録』に載せている。
 また、山城国未定雑姓には、「大辟、津速魂命の後なり」とある。佐伯有清は、大辟(大酒)神社の名と関係があるとみるが、大辟神社は秦氏の神社であり、大辟神社に隣接した木島坐天照御魂神社も、秦氏の祀るところであった。
 このように、対馬出身でアマテル社を祀る氏族と、アマテル社を祀る渡来系氏族が、藤原氏と同じ津速魂神を祖とする系譜をもつことは無視できない。しかも、津島朝臣は、養老から天平勝宝年間(717~756)に伊勢神宮の大宮司を勤めている。これは、藤原・中臣氏の意図なしにはありえないことである。
 当社が伊勢神宮の祭神と同じ名を社名に用いたのも、「アマテル」を称する他の神社とちがって、藤原氏と同祖の系譜もつ春日部(戸)が祭祀していたことと、深くかかわっているのであろう。

p.80
 当社は、中世以降、教興寺の鎮守として、弁財天社を境内に祀り、現在地は奥の院となっていた。近世にも弁財天社として有名で、 商売繁昌の神として大阪商人の信仰を集めた。延宝七年(1679)の『河内鑑名所記』には、正月六日と六月七日が縁日で、この日は参詣者が群れをなすと書かれている。明治の神仏分離で、弁財天の像は教興寺に残り、神社は「天照大神社」と称して分離した。今は岩窟弁財天の岩戸神社といわれ、弁財天信仰は相変わらず盛んである。
 弁財天はインドの河の女神で、水の信仰とかかわる(当社境内の渓谷と白飯の滝は、いかなる旱天でも流れが変わることはないといわれて、修験の行場になっていた)が、弁財天を祀るところには、多く岩窟と女陰信仰がある。[略]

p.80〜81
 当社は教興寺の鎮守で、教興寺が当社の神宮寺になっていたが、この寺は秦氏の寺である。教興寺について『河内名所図会』は、「教興寺村にあり。一名、高安寺。(中略)当寺、いにしへは大厦にして、伽藍巍然と連れり。 初は秦川勝の建立にして、秦寺ともいふ」と書いている。
 秦氏の祀る山城の大辟神社にかかわる大辟氏と、山城の春日部(戸)村主が祖を同じにすることと、河内の春日戸神社の神宮寺が秦氏の寺であることからみて、藤原・中臣氏と春日戸村主の回路には、秦氏も含める必要がある。秦氏は木島坐天照御魂神社の祭祀氏族であり、秦氏の祭祀する松尾大社・稲荷大社や、秦氏が関与する宇佐八幡宮が神祇信仰のなかで大きな影響力をもっているのは、神祇伯の中臣氏と秦氏の関係が親密だったためであろう。藤原・中臣氏のバックアップが、秦氏系の神社が大社になった一因とも考えられる。 当社が春日戸神社から天照大神高座神社になった背景には、秦氏の関与が推測できる。


「アナクラ」としての天照大神高座神社
p.81
 私は、大和の「こもりく」の聖地が三輪山々麓の長谷なのに対し、河内の「こもりく」の聖地は当地だと書いたが、大和の三輪山に対するのは高安山である。