以下、大和岩雄『神社と古代王権祭祀』(新装版、白水社、2009年)から引用です。

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神坐日向[みわにますひむかい]神社大和日向[やまとにますひむかい]神社――三輪山と春日山の山頂に「日向神社」がある理由 


三輪上社としての高宮日向神社
p.55
 かねてから、私は三輪山が古代王権の太陽(日神)祭祀の聖山であったことを述べてきた。だが、日神は天照大神だから、国つ神の代表神大物主神を祀る大神[おおみわ]神社が日神祭祀を行なうはずはない、というのが従来の一般的見解である。

p.55〜56
 従来の一般的見解は、天照太神と大物主神を、天つ神と国つ神の代表神として、机上で図式化したものであり、この図式では、三輪山の神は日神であってはならなかった。
 この発想は、明治政府が神道を天皇制国家の統治思想の中核に置いたとき、神社統制の基準となった。その結果、国つ神を祀る三輪山々頂に日神祭祀の日向神社があるはずはないし、あってはならないとして、『延喜式』の神名帳に載る「神坐日向神社〈大。月次新嘗〉」が、三輪山々頂にあることを認めなかった。だから、現在の本宮の南の高宮垣内(通称「御子森[みこのもり]」)の神社を日向神社、山頂の日向神社を高宮神社にしてしまったのである。これは、日神祭祀は伊勢皇大神宮を氏神とする天皇家のものと規定しようとする、神社行政にかかわる神道家たちの考え方であって、三輪山を祭祀してきた人々の考え方ではない。


日向[ひむか]と日本[ひのもと]
p.60
 大神祭は四月上卯日に行なうが、四月は卯月であり、卯の方位は東、色は青である。
 『古事記』は、三輪山の神の登場について、国作りの途中で、少名毘古那[すくなびこな]神が常世国に行ってしまったので、自分一人で国作りはできないと、大国主神が「愁[うれ]ひて」いると、「海を光[てら]して依り来る神」が、「吾[あれ]をば倭[やまと]の青垣の東の山の上に拝[いつ]き奉[まつ]れ」ば国作りはできるといったと書き、「此は御室[みもろ]山の上[へ]に坐す神なり」と書く。
 『日本書紀』(一書の6)も、同じ話を載せている。スクナヒコナが去ったあと、

 時に神[あや]しき光海[うな]に照して、忽然[たちまち]に浮び来る者あり、曰[い]はく、「如[も]し吾在[あ]らずは、汝[いまし][いかに]ぞ能[よく]く此の国を平[む]けましや。吾が在るに由[よ]りての故に、汝其の大きに造る績[いたはり]を建つこと得たり」といふ。是の時に、大己貴神問ひて曰はく、「然らば汝は是誰ぞ」とのたまふ。対[こた]へて曰[い]はく、「吾は是汝が幸魂[さきみたま]奇魂[くしみたま]なり」といふ。大己貴神の曰はく、「唯然[しか]なり。迺[すなは]ち知りぬ、汝は是吾が幸魂奇魂なり。今何処[いづこ]にか住まむと欲[おも]ふ」とのたまふ。対へて曰はく、「吾は日本[やまと]国の三諸[みむろ]山に住まむと欲ふ」といふ。故、即ち官を彼処[かしこ]に営[つく]りて、就[ゆ]きて居[ま]しまさしむ。此、大三輪之神なり。

と書く。ここに「青」「東」「山の上」という表現がないことからみても、「吾をば倭の青垣の東の山の上に拝き奉れ」という『古事記』の表現には深い意味があるのだろう。私は、卯月卯日の祭を意識した表現と推測している。

p.62
 『古事記』が「倭の青垣の東の山の上」と書き、『日本書紀』が「日本国の三諸山」と書くのは、三諸山(三輪山)が、朝日の昇る「日本[ひのもと]」の「ヒムカシ」の山だったからであろう。この「ヒムカシ」から昇る朝日を迎える地が「ヒムカ」である。


三輪山の神を日神とする日吉社伝承と三輪流神道  
p. 63
 三輪山の神が日神であったことは、延暦寺の古記録『山家要略記』に、
 
 大宮、大比叡大明神、俗ノ神形老翁体、欽明天皇元年、大和大三輪神天降リ、天智元年、大比叡ノ山ニ顕レタマヘリ御、此国ノ地主也、天照大神ノ分身、亦名‹›日ノ神‹

とあることからもいえる。大比叡山に示現した「大和大三輪神」が、「天照大神ノ分身」で、日神だというのである。
 この「日神」を「此国ノ地主也」と書くのは、『大神分身類社鈔』が、「三輪上神社」(日向神社)の祭神を「日本大国主命」と書くことによるのであろう。
 日吉大社の『祝部広継記』には、「当社大明神三輪影向之時為‹›天神‹›云々 …… 則天神虚空ニ之儀也 ‹›…… 神勅曰、垂‹›我跡‹›之処、結枌楡 [ニレノキ] 宜‹レ›為其験云々 …… 大如‹›日輪‹›現‹›虚空 ……」とある。三輪山の「神杉」に日輪が降臨したように、日吉でも「枌楡」に関連して日輪が現れているのは、伝承の根に三輪山があったからだろう。
 この「影向[ようごう]」伝承が日向神社の伝承であることは、神杉が日向神社の神体であることからも証される。[略]


p.65
 私は、天照大神と三輪の神の一体説を伊勢神道が受け入れている点に注目したい。

p.65
延暦23年(804)に伊勢神宮の宮司大中臣真継が神祇官に提出した『皇太神宮儀式帳』は、天照大神は垂仁天皇のとき「美和乃御諸宮」で奉斎され、この宮から宇太[うだ]・伊賀・淡海[おうみ]・美濃をめぐって伊勢に入ったと記している。つまり、天照大神はいったん三輪山に鎮座してから伊勢へ移ったというのである。だからこそ、『倭姫命世紀』(鎌倉中期、1280年代に伊勢神道の経典として書かれた神道五部書の1つ)も、「倭弥和[ミワ]乃御室嶺上宮」で倭姫が天照大神を2年奉斎し、この御室嶺上宮から奉戴して各地をまわり、伊勢に遷座したと記すのだろう。
 『倭姫命世紀』が書かれた頃は『三輪大明神縁起』の成立期だから、天照大神は三輪山が「本」、伊勢が「迹」で、三輪と伊勢の神は「一体別名」だとする主張(『三輪大明神縁起』)は、三輪流神道の我田引水ではない。


海を照らして依り来る神
p.66
 海を照らして依り来る神とは日神である。

p.67
 沖縄の「ニライ・カナイ」と奄美の「ナルコ・テルコ」が同じ系列の語であることを、柳田国男(「海神宮考」『定本柳田国男集』第1巻)、折口信夫(「琉球の宗教」『折口信夫全集』第2巻)、伊波普猷(『をなり神の島』)は述べているが、ナルコ神は海、テルコ神は山からの来訪神である。