以下、大和岩雄『神社と古代王権祭祀』(新装版、白水社、2009年)から引用です。

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伊勢神宮――「アマテル」の神と皇祖神

伊勢神宮の創祀と忌部氏・中臣氏・物部氏

p.40
私は、雄略朝に伊勢神宮は創祀されたと推測する

p.42
要するに、敏達朝の頃、日祀部設置を機会に、従来の忌部氏に代わって中臣氏が、伊勢神宮の祭祀に強い影響を及ぼすようになったのであろう。日祀部設置までは、斎王の派遣について、「伊勢の祠」「伊勢の大神」に「侍[つか]へ祀る」と書かれていたのが、日祀部設置後の斎王派遣(用明紀の酢香手皇女の派遣)については、「日神を祀[まつり]に奉らしむ」とあり、日神祭祀が明記されている。このことからみても、敏達朝の日祀部創設が、伊勢神宮の祭祀に新しい画期をもたらしたと考えられる。


天照大神の誕生

p.43
 天武天皇が即位すると、斎王の派遣が復活した(『日本書紀』)。そして、宮司・禰宜職が置かれ、二所太神宫の宮司は中臣氏、禰宜は度会氏が任命された(『二所太神宫例文』『豊受太神宮禰宜補任次第』)。

p.43〜44
荒木田神主が登場する持統朝になって度会氏が皇大神宮の祭祀からはずされたのは、この時期に皇大神宮の祭神の変更があったためであろう。
 いままで祭祀していた度会神主に代わり、まったく新しい氏族が禰宜職を世襲することになったのは、持統朝の皇大神宮が新しい神を祀ったからであろう。
 新しい神とは、「天照大神」というヒメ神で、この変革を推進したのは、神祇伯の中臣大島と伊勢神宮の祭主の中臣意美麻呂であろう。大島は、即位した持統女帝をバックアップする意味で、皇大神宮の祭神(日神)を男神から女神に変え、この女神と女帝を重ねたのである。
 このように皇大神宮(内宮)の祭神を女神に変えたため、内宮・外宮は共にヒメ神となり、日神を女神とする類稀な神統譜が成立した。しかし、日神というのは本来、男神であり、その神妻としの[ママ]日女[ひるめ]が斎王である。持統天皇も、即位以前は現人神天武天皇(「神」として『万葉集』にうたわれている)の妻として「日女[ひるめ]」であった。この「ひるめ」が天皇(現人神)になったため、「ひるめ」を神にしたのである。だから、柿本人麻呂は「天照日女[ひるめ]命」とうたい、『日本書紀』は「天照大神」を「大日孁貴[ひるめむち]」の亦[また]の名としているのであろう。


p.45
 文武2年の記事は、従来の伊勢祭祀をいっそう強力に推進するために、朝廷が直接関与したことを示す記事といえる。「意美麻呂等」を旧姓の中臣に戻した理由となった、「神事」とは、主に伊勢大神宮の祭祀をいう。藤原と中臣に姓を別けたという記事に、不比等と意美麻呂の名が特にあげられていることからも、文武2年の記事には、政治の中心人物不比等と神祇の中心人物意美麻呂の、相呼応した意図がうかがえる。
 この文武2年は、伊勢皇大神宮の祭神が、天照大神という皇祖神として神統譜・皇統譜の中心にすえられた、注目すべき年といえる。まだ持統太上天皇は健在だったから(大宝元年〔702〕に崩じている)、太上天皇と天照大神(その頃の名は天照日女命)をダブルイメージとして、万世一系の皇統譜に母性重視をうたったのであろう。
 天武天皇の数多い皇子のなかでも、持統が生んだ皇子と皇孫こそ皇位継承の権利があり、天武という父系よりも持統という母系を重視する主張が、皇祖神天照大神の創作にこめられているように思われる。その点で、天照大神の誕生は、現実的・政治的要請によるものといえよう。


アマテル神と物部氏・尾張氏

p.45
 天照大神の前に祀られていた男神とは、三輪山のアマテル神である。おそらく、このアマテル神を中央王権の伊勢進出と共に伊勢へ持ち込んだのは雄略天皇であり、敏達紀が伊勢で祀ったと書く「日神」もこの神であろう。


p.46
 雄略朝における伊勢進出を示唆する伝承としては、伊勢朝日郎[あさひいらつこ]を討った物部連目[め]の伝承や、伊勢采女の伝承が、雄略紀に記されている。この伝承は、『伊勢国風土記』逸文では、伊勢朝日郎が伊勢津彦、物部連目が度会神主の始祖天日別命、雄略天皇が神武天皇になっているが、伊勢の地に中央王権の支配が及んだことを示す伝承として、前者と後者は重なっている。

 伊勢に中央政権の勢力が[ママ]支配が及んだ話を、『日本書紀』は伊勢朝日郎伝承や伊勢采女[うねめ]の伝承で示し、『伊勢国風土記』は伊勢津彦伝承で示しているのであり、その時期は5世紀後半とみられる。それは伊勢の海人たちが祀る「海照」神の上に、中央政権の「天照」神が重ねられた時期である。[略]

p.47
 『日本書紀』は高御魂神を、天照大神と同じく「皇祖神」と書くが(神武紀)、中央政権が伊勢にもちこんだアマテル神は、大和国中[くんなか]の人々が祀る高御魂神的な日神であったろう。伊勢の場合は、その日神的性格が皇大神宮、御魂的性格が豊受大神宮に分離されたと考えられる。



丹波と后妃出自氏族

p.49
 息長氏を代表する人物は、仲哀天皇の皇后で応神天皇の母、息長帯比売[おきながたらしひめ]命(神功皇后)である。
 神功皇后紀に、仲哀天皇9年3月、皇后みずから神主となって斎宮に七日七夜こもったところ、伊勢国度会郡の五十鈴宮の神と、伊雑宮(内宮の遙宮)の神が現れたとあり、摂政元年2月条には、天照大神と稚日女尊が現れて、天照大神の荒魂と稚日女尊を祀れと託宣したとある。
 このような伝承は、伊勢の斎王が息長氏系の皇女であったことの反映であろう。斎王が継続的に派遣されるようになった継体朝の最初の斎王は、息長真手[まで]王の娘麻績郎女[おみのいらつめ]と継体天皇の間に生まれた荳角[ささげ]皇女であり、日祀[ひまつり]部を設置した敏達朝の斎王は、息長真手王の娘広姫と敏達天皇の間に生まれた菟道[うぢ]皇女である。

p.50
 『皇大神宮儀式帳』は、近江での遷幸地を「淡海坂田宮」とする。坂田宮は滋賀県坂田郡近江町宇賀野に比定されているが、坂田の地は息長[おきなが]氏の本拠地である。



オナリ神とオナリ
p.51
 西田長男は、天照大神と伊勢神宮の成立にはオ(ヲ)ナリ信仰が影響しているとみて、斎王をオナリと解している。[略]オナリとは、オナリ神の妻で、神の子を出産・養育する母である。
 オナリについて、『名義抄』には「養〈ヲナリス〉」とあり、『和訓抄』にも、「をなり、漢書に養の字をよめり」とある。玉依姫はウガヤフキアエズを「治養[ひた]し」たと『古事記』は書くが、「養[をなり]」は「養[ひたし]」であり、「日足[ひたし]」である。
 伊勢の内宮の神は皇祖神であり、その子孫は日の御子(天皇)である。日の御子を養育することを「日足[ひたし]」という。[略]

p.53
 以上、ヤマト王権による伊勢神宮祭祀の歴史的変遷を概観したが、ヤマト王権が中央祭官による祭祀を伊勢の地で行なう前から、伊勢の人々による日神祭祀は行われていた。それは、雄略紀の物部連目に討たれた伊勢朝日郎の名からも推測できる。伊勢のおいては、日神は海原を照らしつつ水平線の彼方より来臨する。すなわち「アマテル」は「海照」でもある。この「海[あま]」の神を「天[あま]」の神に変えたのが、ヤマト王権による天照神の伊勢における祭祀であり、男神「天照」が女神「天照大神」になったのは、持統朝から文武朝のころであろう。
 日本古代国家が律令制度によって確立する時代に、皇祖神を祀る神社もマツリゴトのシンボルとして確立したのである。