以下、大和岩雄『神社と古代王権祭祀』(新装版、白水社、2009年)から引用です。

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新屋坐天照御魂[にいやにますあまてるみたま]神社――銅鐸と「日読み」と物部氏

饒速日命と「日読み」

p.31
 当社も「日読み」にかかわる神社であり、丘の上の福井社を中心として河原に2社が配されているところに特徴がある。

p.32
饒速日命にも日神的性格がある。[略]『日本書紀』の神武天皇31年条に、神武天皇ではなく饒速日命が「虚空[そら]見つ日本[やまと]の国」と名づけたとあり、特に「日本」という表記を用いていることからみても、物部氏の始祖ニギハヤヒの日神的性格は否定できない。ニギハヤヒが火明命と一体化し、物部氏が天照御魂神の祭祀氏族になっているのも、そのためであろう。


伊香色雄命と鏡
p.32
当社の最初の祭祀者と社伝いにある伊香色雄命(『古事記』では伊迦賀色許男[いかがしこを]命)の「香」は「カガ」と訓み、「天香山」の「香」は、『万葉集』に「天之香具山
」(2番)、「天之香来山」(257番)と書かれているように、「カグ」である。一方、火明命の子の天香山命は「天香語山命」(『旧事本紀』)、「天香吾山命」(『新撰姓氏録』)と書かれており、『新撰姓氏録』左京神別の尾張連は、天香吾山命を祖にしている。

p.33
伊香色雄の「カガ」は照り輝くの意で、鏡の「カガ」、天香山の「カグ」も同じであろう。


銅鐸と「日知り」

p.34
 当社のある三島地方を代表する三島溝杭耳[みしまみぞくいみみ]神の娘は、『古事記』によれば、美和(三輪)の大物主神(『紀』は事代主神)の妻となって比売多多良伊須気余理比売[ひめたたらいすけよりひめ](『紀』は媛蹈鞴五十鈴媛[ひめたたらいすずひめ])を生み、神武天皇の正妃になったという。
 三島溝杭耳命と大物主神または事代主神の血を引くタタラ姫を、新しい権力者に妻としてさし出したという伝承は、東奈良遺跡や唐古・鍵遺跡の地で銅鐸を作らなくなったこと、つまり、銅鐸の鋳型を埋めて新しい権力者の要望の鏡を作るようになったことの反映ではないだろうか。

p.35
「アカガネ」が輝くことは、奈良県橿原市の橿原考古学研究所付属博物館に展示されている模造銅鐸を見ればわかる。とすれば、輝くを意味する「カガ・カグ・カゴ」には「銅(青銅)」の意味もあると考えられる。
 「アカガネ」のヤソタケルたちは神武軍に討たれるが、これは、銅鐸を作って祭祀していた集団が滅ぼされたことを暗示する伝承ではないだろうか。

p.36
天岩屋神話(『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』)には、天香具山の賢樹[さかき]を根のついたまま掘りとって、真中に鏡、上に玉、下に幣を懸けたとある。この鏡も、銅鐸に代わるものだったのではなかろうか。銅鐸が巨大化するにつれて、樹につるさなくなったのであろう。巨大化したのは、太陽の光をあびてえ、黄金色がより以上に光り輝くからであった。この「カガ」の強調が銅鐸を巨大化したのであり、それは広形の銅剣・銅鉾などと共に「日読み」の呪具であったにちがいない。
 このように巨大化しった青銅器を伴う弥生時代の「日読み」は、まだ巨大な権力が生まれていなかった段階の「マツリゴト」である。『日本書紀』によれば、神武軍に抵抗して戦ったヤソタケルとしては、葛城の高尾張の赤銅のヤソタケルのほかに菟田[うだ](宇陀)の磯城[しき]のヤソタケルがいた。「八十[やそ]」とは多数の意だが、新しい権力者に抵抗した多くのヤソタケルは、のちに「ヤマトタケル」という一皇子に象徴化されていく。
 「日読み」としての「マツリゴト」が1人の権力者に集中していく過程で、「ムラ」ごとのマツリは「クニ」のマツリとなり、銅鐸に代わって鏡が「日知り」のシンボルとなった。柿本人麻呂が神武天皇を「橿原の日知り」とうたうのは、「日知り」の権力者が1人に集中したことを示している。
 『古事記』のヤマトタケルは、皇子といっても天皇から疎外された皇子であり、このヤマトタケルの原点になるタケルたちは、「橿原の日知り」に敗れた人々だが、ヤマトタケルもヤソタケルも尾張氏とかかわりがある。また、物部氏の祖はヤマトの「日知り」であったが、神武天皇に「日知り」の権力を譲っている。
 このような伝承からみて、天照御魂神を祀る氏族は、もともと銅鐸祭祀にかかわる「日知り」であり、のちに新しい権力に服従し、ヤマト王権の「日知り」としての天皇の協力者になったと考えられる。


伊香色雄命の伝承と大嘗
p.37
『日本書紀』は、伊香色雄命に「祭神之物」を作ることを命じた日を、崇神天皇7年の「十一月丁卯[ひのとう]の朔[ついたち]己卯[つちのとう]としてる。十一月の卯日は大嘗祭の儀礼を行なう日である[略]

p.38
 『続日本紀』の文武天皇2年(698)十一月己卯(23日)条に「大嘗」とある。この「己卯」の日は冬至の頃である。「日読み」にとって、冬至は起点である。大嘗祭は天皇の即位の祭儀であり、冬至の日に即位儀礼が行なわれるのは、天皇にとって、「日読み」の基点としての冬至こそ、「日知り」として行なう祭祀の原点だったからであろう。
 この冬至の日に、大物主神と大国魂神、いわゆる「国つ神」を祀るため、物部氏の祖伊香色雄命が「祭神之物[かみまつりのもの]」とつくったという記事は(「物部」の「物」には、「祭神之物」を作る意味の「物」も含まれているだろう)、「日読み」としての「マツリゴト」の本来の姿を示している。大嘗祭の前日に物部氏が鎮魂祭を行なうのも、伊香色雄命の伝承を想起させる(鎮魂祭については石上神宮の項参照)。
 『皇太神宮儀式帳』によれば、孝徳朝に度会の山田原に屯倉[みやけ]を立てて神郡にしたとき、新家(屋)連阿久を「督領」、磯連牟良を「助督」にしたという。伊勢神宮の項で述べる、新屋連と伊勢神宮の関係からみても、新屋坐天照御魂神社は重要な意味を持っている。新嘗の日に新屋(室)を建てて新築を祝う記事が『日本書紀』(景行紀・雄略紀)に載っていることからみて、新屋(家)連の「ニイヤ」は、新嘗の儀礼にかかわる名称であろう。