以下、大和岩雄『神社と古代王権祭祀』(新装版、白水社、2009年)から引用です。

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他田坐天照御魂[おさだにますあまてるみたま]神社――「日祀り」と「日読み」と「日知り」

天照御魂神と日祀部

p.6
 天照御魂神の「御魂」は一般に「ミタマ」と訓まれているが、『延喜式』の「神祇九、神名」(いわゆる『延喜式』神名帳)に載る天照御魂神社4社のうち、先頭の木島坐天照魂神社の「御魂」には「ミムスヒ(ビ)」の訓があり、他田坐天照御魂神社・鏡作坐天照御魂神社・新屋坐天照御魂神社の「御魂」には訓がない(国史大系『延喜式』)。また、同じ『延喜式』の「神祇八、祝詞」には、「神魂[カムムスヒ]・高御魂[タカミムスヒ]・生魂[イクムスヒ]・足魂[タルムスヒ]・玉留魂[タマルムスヒ]……」という訓がある。だから、「御魂」は本来「ミムスヒ」と訓まれたのであろう。
 ムスヒは、『古事記』では「産巣日」、『日本書紀』では「産霊」、『延喜式』では「魂」「産日」と書かれており、「産[むす]」は「生成する」「繁殖する」という意の自動詞で、「産子[むすこ]」「産女[むすめ]」の「ムス」である。『古事記』が「巣」の字を加えているのは、生み(産)・育てる(巣)の意であることを示すためであろう。また、「ヒ」は、「日」「霊」と書くように、生命力・霊力の意である。
 なお、「高御魂」と「天照御魂」は、ムスヒの神としての日神であり、「高」と「天照」のちがいはあっても両神は同性格であるが、記紀神話で高御魂が日神として公認されていないのは、天照大神を皇祖神とする神統譜にもとづいて記紀が書かれたからであろう。

p.7
敏達天皇のとき日祀部[ひまつりべ]が設置されている

「天照国照彦火明命」(『日本書紀』)、「天照国照日子火明命」(『旧事本紀』)とも書かれているように、火明命もまた日神である。
 [略]火明命は日明命でもあり、だから「天照国照」が冠されたのであろう。

 日祀部を設置した敏達天皇は、この火明命を祖とする尾張連の血統に属している。

p.8
日祀部を設置したのが尾張氏系の敏達天皇で、その宮が「他田宮」であることからみて、他田坐天照御魂神社は尾張氏系氏族が祭祀した神社の1つであろう。しかし、天照御魂神社は、畿内にあって「日読み」のマツリゴトにかかわるという点で、他のアマテル系の神社とは異なっている。


「日読み」と「日知り」

p.8
太田堂久保の他田坐天照御魂神社の地は、山と太陽の位置関係を巨大な自然のカレンダーとして観測できる「日読み」の地である。

p.9
 「日読み」は、冬至・夏至、春分・秋分、立春・立冬、立夏・立秋を太陽の動きで読むことである。もちろん、これらは、中国の暦法による用語だが、倭人にとっても、日照が一番短い時と長い時、その中間にある時を知ることは、「春耕秋収」のために必要であった。
 3世紀に陳寿が編集した『魏志』の「倭人伝」に、倭人は「正歳四節を知らず、ただ春耕秋収を記して年紀とす」という注があるが、この注は、陳寿よりすこし前に没した魚豢の著『魏略』からの引用だから、2世紀から3世紀の頃の日本の風俗を記したものとみてよい。
 倭人は、観念的な「正歳四節」など必要ではなかった。そのような暦は、権力者の統治のために必要なのであって、一般民衆は、種をまく日と収穫する日をきめるための「日読み」を行えばよかったのである。

p.11
「聖[ひじり]」が「日知り」の意であることは、多くの古語辞典に書かれている。「日知り」は「日領り」とも書かれるが、中国の暦法が入ってくる前の統治者にとって、日を知ることは、即「マツリゴト」であった。だから、「マツリゴト」には祭事と政事(治)の二面性がある。


「日読み」と石塚
p.11
「天照」の「御魂」の神が、伊勢で天皇家によって「天照大神」として祀られた頃から、統一国家としてのイメージが成立する。この時期は、もっとも古くみても5世紀後半であろう(伊勢神宮の項参照)。太田の地は、その母胎となった初期ヤマト王権の「マツリゴト」としての「日読み」の地であった。
 そのことを示すのは、太田の他田坐天照御魂神社のすぐ近くにある石塚古墳である。

p.12〜13
円丘の中心部からくびれ部の南端の柱の位置を通して見た冬至の朝日が三輪山の326メートルの標高点から出ることは、冬至の日、現地に立ってみれば観測できる。この標高点は、三輪山の秀麗な稜線がふくらみをもつ地点で、山頂とともに1つの目標点である。
 一方、石塚から見た立春の朝日は三輪山の山頂から昇るが、石塚の中軸線は、図のように山頂に向いている。これらの事実からみて、石塚は「日読み」の構築物であることが推測できる。ちなみに、石塚の中軸線を延長すれば、八尾の鏡作坐天照御魂神社に至る。
 石塚が箸墓[はしはか]古墳と関連した構築物であることは、多くの考古学者によって指摘されている。箸墓も含めて、当社の位置は広義の纏向遺跡の地といえるが、発生期の巨大前方後円墳を築造した権力者たちが、中国文明に無縁であったとは考えられない。そのことは、古墳の出土品からも証される。
 権力が巨大化することは、統治地域が拡大することである。権力者にとって、統一した「マツリゴト」のためには、その支配地区の「コヨミ」を統一する必要があった。大和盆地において、いち早く中国の暦法をとり入れたのは、石塚や箸塚を築いた初期ヤマト王権の権力者であろう。
 中国の暦法では、冬至は暦元といって暦法上の重要な基点であり、秦の時代までは冬至正月であったが、前漢の武帝の元封七年(紀元前104)に太初元年と改め、立春正月にした。立春を正月とする思想が、いまわれわれの使っている二十四節気である。その後、中国では、前漢を倒した王莽の治世16年間、曹魏の明帝の2年間、唐の則天武后の10年間を除いて、清朝まで2000年間が立春正月であった。この立春正月の暦法にもとづいて、石塚の中軸線は三輪山々頂に向けられたと推測されるが、くびれ部にわざわざ柱を立てたのは、やはり冬至が日祀りの原点として強く意識されていたからであろう。
 「日読み」での1年は、観測点から見て、朝日が向かって右端から昇り、毎日左へ移動し、左端まで動いたのを1年とみたか([略])、右端から左端まで動き、再び右端まで戻るのを1年とみたかの、どちらかであろう。
 「冬至」「夏至」は、右端と左端の位置から朝日が昇る日をいう。「半年暦」では冬至と夏至が新年となる。中国でも古くは冬至が暦元であったのは、観念的な暦法以前の自然暦が冬至を基点としていたからである。もっとも短い日照時間から毎日日照時間がふえていくのだから、この日を新しい年の基点とみるのは当然である。冬至の日は、朝日が右の極限から昇る日であった。とすれば、その日に三輪山々頂から昇る朝日を拝する地は、重要な観測点、つまり「マツリゴト」の場であった。それが、次の項で述べる石見の鏡作坐天照御魂神社の位置である。
 この天照御魂神社の位置に対して、他田の天照御魂神社は、立春とその前後に三輪山々頂から昇る朝日を拝する位置にある。当社はおそらく、日祀部の設置に伴って、立春の「マツリゴト」の場として創建されたのであろう。