鬼と金属・鉱山などとの関わりについての論稿です。

以下、小松和彦責任監修『怪異の民俗学④ 鬼』(河出書房新社、2000年)から引用です。

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若尾五雄「鬼と金工」(『日本民俗学』第69号、1970年)

はじめに
 

p.384
 紀記に残る八岐大蛇の話に出て来る鳥ヶ峯(船通山)に近く、鳥取県日野郡日南町宮内に楽楽福[ササフク]神社というめずらしい名の社がある。
 ここの主祭神は孝霊天皇の后といわれる細[ササ]姫、あるいはその王子歯黒王子だといわれている。その縁起の概要を述べると、この皇后および王子は孝霊天皇が、この辺りに住む鬼を退治に来た時に一緒に来られて、ここでお住まいになっている間に、おかくれになったので宮を建てて、お祀りしてあるのだと書かれている。伝える所によると神様は片目の神様といわれているのであるが、この辺り一帯は同名の楽々福神社のある印賀、印賀鋼で有名である様に、良質の一大砂鉄地帯であり、かつ鬼を退治した所は同郡同町下岩見の大倉山であるといわれており、その大倉山は古い銀山である。


吉備津神社の鬼

p.385
鬼ケ城縁起
 昔、阿曾郷の鬼ケ城に温羅[ウラ]という鬼が棲んでいて、附近を荒し廻ったので、吉備津彦尊は、その随臣楽々森彦尊と共に、この鬼を退治した。温羅はなかなか強く、尊に、左の眼を射られたのにもかかわらず、岩にかくれたり、川にひそんだりして反抗をつづけたが、ついに捕えられ、かの有名な吉備津神社の釜鳴神事の行われる竈の下に、その首は埋められた。釜鳴神事の釜の鳴るのは、この温羅のさけび声だといい、またこの釜鳴神事は、鬼ケ城の麓の阿曾村の女が、巫女となって代々つづけて来たという。阿曾の女が巫女になる理由については、温羅の妻、あるいは妾が、この阿曾村の生れであったからだという。なお、鬼ケ城からは血吸川という川が流れ出て、阿曾村の中を通っているが、血吸川というのは、温羅の左の眼を射抜かれた時に出た血が、川になって真赤に川砂を染めたからだと伝えている。現在温羅は楽々森彦尊とともに吉備津神社の本殿に剣先さんとして祀られている。

p.386
 訪れた吉備津神社の宮司の話によると、吉備国は昔から、金工には深い関係があり、この吉備津神社も金工にも深い関係があったらしい。[略]宮城県留郡狼河原村で、そこに千葉弥太右衛門勤功書上というのがあり、永禄年中(1558―70)千葉土佐が、備中国吉備中山在木から千松大八郎、小八郎の両人をまねき、その弟子となって砂鉄精錬をはじめたのが、この地方に金屋の定着しだした最初で、日常器具や、軍事用の材料を生産した、ということが、『風土記日本東北・北陸篇』(平凡社)に出ている。
 もともと、吉備の中山については
  真金吹くきびの中山帯にせる
    細谷川の音のさやけさ
      よみ人知らず(古今集大歌所)
などの歌があって、吉備の枕言葉は真金吹く、という製鉄に関することを暗示している。また前述の和歌は、たたら師が、たたらの吹きはじめに、君が代の様に唄う歌で、かくたたら師と吉備津神社は因縁が深い。


p.389〜390
一寸法師
 

 京都の清水寺は、一寸法師が鬼を退治した所で有名である。ところで、この清水寺の開いた縁起は次の様である。
   昔沙弥延鎮、宝亀九年四月、夢見るにより、淀川に出てみらるれば、水に金色の一すじあり、延鎮ふしぎの思ひをなし、みなかみを尋ねもとむれば滝のもとにきたる、一つの草の庵あり、うちに白衣の老翁あり、名を問へばぎょうえいといへり、すでに二百歳もてる千手の像あり、これをえんちんに与へ、ぎやうえいは東州におもむけり。その時、ぎやうえい、えんちんにのたまへるは、我れやがて帰らん、そのほどは此の草庵にすみ、又遅く帰らねばたれを待たずして、千手の御寺を立つべしとのたまひ、東州に去り給ふ、その後延鎮・ぎやうえいを待ちかね、山科のほとりに出らるるに、ぎょうえいの御沓あり、疑ふ所もなく、かのぎょうえいは観音菩薩の化現なるべしと、沓をとりてかへり、その跡を示し給へる也、延暦十七年に将軍坂上の田村丸鹿狩りして、此の草庵にわけ入り、えんちんにあひ給ひ、しかじかのことを聞き給ひて、有がたくおぼし、大同二年に御草創ありし御寺也、又地主権現はすなはち清水寺の鎮守なり。
 

 『大日本地名辞書』で、吉田東伍博士は、清水寺旧地は京都府宇治郡音羽山厳法寺ではないかとしている。現清水寺附近には清水焼が行われているから、土質に鉱物質のものがあるかも知れないが、宇治郡の音羽山は、滋賀県と京都府の境の山脈中にあり、この山脈は石山寺、醍醐三宝院などをはじめとして、滋賀、京都境に沿って、金・銀・銅などの鉱脈のつづいている所である。鉱山師によると、醍醐三宝院は銅坑の上に建立されているといわれ、石山寺も金を含有し、その後方には銅鉱の跡が見られ、附近の芋ケ谷や平野部落附近にはカラミが一面に撒布している。つまり清水焼の旧地が、宇治郡の音羽山であったとすれば、金の流れ出ずることも当然であり、一寸法師の鬼は、そうした金工地帯に住んでいたことになる。


p.390
片目片足の鬼
 

 和歌山県牟婁郡色川村字樫原には、狩場刑部左衛門を祀る王子権現というのがある。伝えるところによると、この辺りにヒトタタラという片目片足の鬼が住んでいて、熊野三山へ参詣する旅人を悩ました。そこで刑部左衛門がこの片目片足の鬼を討ち取って、山林数千町歩を郷民のために与えたことから、かく祀られているのだという。ヒトタタラは、那智三山の一峯妙法寺の阿弥陀寺の釣鐘をかぶっていたので、長い間この鬼を討つことが出来なかったとか。
 ところで、この話のある色川村のはじまる辺りが、今述べた妙法山であり、有名な妙法鉱山のある所で、昔は紀州家のドル箱といわれていた銅山。現在でも、妙法山の下は至る所、坑道になっており、その先は那智の滝の近くまで達しているといわれている。これにつづく、口色川、大野、籠、阪足、樫原の各部落一帯は、至る所に古い銅鉱の跡があり、色川村の地名は、鉱石により色がついたから色川とつけたという伝えもある。殊に鬼退治をした樫原部落辺りになると床[トコ]という名のついた小規模の野ダタラ跡が無数に見られる。
 この様に、片目片足の鬼といわれた鬼の住んでいた所も、かく鉱山地帯である。
 同様に奈良県吉野郡伯母ケ峯にも片目片足の話があるが、伯母ケ峯の麓にも赤倉銅山という鉱山がある。



鬼取山
 

p.391
 奈良県生駒郡生駒山頂には、鶴林寺という寺のある鬼取山という所がある。ここは役行者が、いつも、つれて歩いたといわれている前鬼、後鬼を捉えたとことか鬼取山と名づけられたと伝え、役行者の守護神金満[カネフキ]大神を祀り、また前鬼、後鬼の頭髪をけずり取って坊主にまさにしようとしている木像を祀ってある堂もある。ここの伝説としては前鬼、後鬼は鬼子母神の話として語られてあるが、堂守によると、昔、金を取ったところだといい、それで金満大神が祀ってあるのだといっている。



p.398

 鬼の子孫
 

 和歌山県粉河町中津川、栃木県都賀郡古峯ケ原、奈良県吉野郡前鬼や洞川、坪之内には鬼の子孫といわれる人々が住んでいるが、これらの所もまた金工地帯であることは、粉河町中津川の場合は、粉河寺の鎮守丹生神社が、丹生都姫を祀っていて、丹生都姫の告文にも出ている所の奥の院としていて、水銀の神社で、中津川の鬼の子孫は、この丹生神社の鍵をあずかっている家筋、また古峯ケ原の妙童鬼、吉野の前鬼、洞川などの鬼の子孫も同様に金工地帯にあって、共々に修験の鬼であることは修験が金工に関係あることを示している。


p.399
打出小槌


 打出小槌は一名延命小槌ともいい、昔話では宝を打出すといわれている。前述の一寸法師の話でも、その鬼が打出小槌を忘れて行ったとあって、鬼と打出小槌は深い関係が感ぜられる。ところで、昔鉱夫が鉱山で金銀銅、珠玉を掘り出す山槌といわれるものを見ると、全く同一の槌であって、鬼を金工と結びつけて考えれば、鬼が打出小槌を持っているのは当然のことである。


鬼というもの

p.399〜400
 鬼には禍をもたらす鬼と福をもたらす鬼とに民俗学者は分けているが、禍をもたらす鬼については前述の追儺の鬼をはじめとして種々の鬼もきらわれるものとして説明がつけられている。
 ところが、福をもたらす鬼は今までその意味がはっきりと解明されていない。金工は、所詮は、地下より鉱石を取出すことである。従って埋蔵物を取り出すことで、その埋蔵物の存在する所は、地下という暗く、晦、籠るなどの言葉で示されている隠[オニ]の場所であることから金工伝説には鬼が出て来るものであって、民俗学者の福をもたらす鬼として分類されるものは、この金工の鬼なのではあるまいか。