以下、谷川健一『鍛冶屋の母』(河出書房新社、2005年)から引用です。

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終章

p.143
 『多田五代記』という元禄時代に刊行された書物がある。多田に住む満仲のほか、頼光、頼信、頼義、義家の5代にわたる源家のことを述べている。そこにはさまざまな武勇譚が語られているが、これまで触れてきた鬼賊退治のことは、この満仲の一族一統にほとんどが関係している。

p.143〜144
 たとえば、源満仲の父の経基は、平将門が叛乱を起こしたときにはその討伐使を要請した。経基の子どもが満仲である。さきに述べた戸隠の鬼女伝説では、鬼女紅葉[もみじ]は経基の側室となり、平維茂に討伐されたことになっているが、『多田五代記』では、満仲が信州戸隠山に住む鬼神を退治したことになっている。満仲は摂津多田庄を与えられるが、そのうち満仲が昇殿を許されたことを妬んで闇討[やみうち]しようとする事件があった。
 満仲の郎等[ろうとう]に渡辺源五綱という者があって、満仲の身辺を護衛した。渡辺は字[あざな]を源五、諱[いみな]を綱と云った。渡辺綱は武蔵国の箕[み]田に生まれたが、源敦[みなもとのあつし]の養子となった。源敦は多田満仲の聟[むこ]にあたる。綱が生まれた直後に母は死んで、孤児となったが、伯母につれられて都に上り、満仲を頼った。満仲はこの綱のために摂津国渡辺というところに所領を与え、13歳のとき召し出して家来としていたのである。
 満仲の子の頼光は鎌倉に下向[げこう]したとき、三島の宿で卜部[うらべ]六郎と出会った。卜部六郎の父は満仲の郎等であった。頼光は足柄山まで追ってくる卜部六郎に末竹[すえたけ]の名を与えた。頼光たちは足柄山で老女が16、7の童子の手を引いてくるのに会う。そしてこの童子に坂田金時[さかたのきんとき]の名を名乗らせる。一方、渡辺綱は頼光をさがすために都から下向したが、おなじく足柄山中で碓日[うすひ]の貞光[さだみつ]という荒童子[あらどうじ]と出会う。
 このようにして頼光の家来の四天王が足柄山で出揃うという趣向である。このあと、大江山や伊吹山の鬼退治の話が記されている。筋書そのものはきわめて潤色をほどこされているが、『多田五代記』を通読してみるとき、平将門、戸隠の鬼女、渡辺綱の鬼の腕を切った話、坂田金時の出現、それに大江山や伊吹山の鬼退治などの話がすべて絡んでいるということがひとつの特色となっている。

p.145〜146
 多田は現在、兵庫県川西市に属し、猪名[いな]川をさかのぼったところにある。多田満仲は年老いてからここに居を定め、軍事的な拠点としたが、満仲の第二子の頼親の代になる11世紀の初頭には、そこに多田一族がしっかりと腰をおろし、根づいた場所となった。満仲の長子、頼光の子孫も多田に住みついて多田源氏の一族となっていく。
 この小盆地には、現在は猪名川町に属する多田鉱山がさかえた。奈良時代には東大寺の大仏鋳造のために銅を献じたといわれる鉱山で、銅のほか銀をも産出した。
 『地名辞書』には「およそこの地の採鉱は多田源氏勃興の初めに起りて、水中の沙金[さきん]を採る。天正[てんしょう](1573〜1592)の末、豊臣氏の時にいたりて隆盛をきわめ、徳川氏におよんでなお盛んなりしという」と述べてある。
 この記述の中で、多田地方の鉱業が多田源氏勃興の初めに起こった、とあることは注目される。多田一族が多田地方の豊富な銅や銀、さては水中の沙金まで目をつけないはずはないからである。多田鉱山が多田一族の軍事力の有力な資金源となったことは疑いない。とすれば、満仲や頼光の武勇伝にも、そうした多田地方の金属採掘をぬきにして語ることはできないと私は考える。

p.146
 川西市の多田院に鎮座する多田神社は源満仲をまつるが、それとは別に多太[ただ]神社がある。『地名辞書』によると、そこはオオタタネコの分流が住んだところであるという。オオタタネコは金属精錬に関連があるとみなされる古代史の中の登場人物である。したがって、摂津の多田は、多田源氏のはるかまえから、採鉱がおこなわれていたことが推定される。


p.146
田中千穂「毘沙門天と福」(『御影史学論集』第5号、昭和54年10月1日発行)
摂津多田院の九頭神祠は俵藤太[たわらとうだ]にほろぼされた三上山の百足[むかで]の霊魂が、9頭の大蛇となって村民をなやましたので、多田満仲がほろぼし、9頭の首を切って祀った神祠であるという。三上山の百足の霊魂が、とおく多田の地でなぜ語られなければならなかったか。殺されたものをまた退治した理由はなにか、と田中氏は問い、そしてそれは「百足を退治する」ということに、ある一定の意味、すなわち「鉱山を採掘する」などの隠語[いんご]があったような気がしてならないと述べて、田中氏は次の例をあげている。
 すなわち『摂津名所図会』の「多聞寺」(現神戸市)の項をみると、そこの水晶山に百足窟があり「窟中百足に似たり、ともに銀取坑[かねとりあな]なり」という説明が付されている。これからして、百足という名が鉱山の坑[あな]を意味していることが推量される。『摂津名所図会』には多田にも銀取坑が所々にあると記されている。
 百足を使いとする毘沙門天も多田の満願寺にまつられている。また六甲山の多聞寺に毘沙門天がまつられているという。さらに野州[やしゅう]の三上山のふもとにも多聞寺がある。現在は浄土宗で、阿弥陀如来が本尊であるが、寺号からして以前は毘沙門天が本尊であったことはまちがいないという。
 さらに、信貴山[しぎさん]朝護孫子寺[ちょうごそんしじ]では毘沙門天をまつるが、本堂の大扉[おおとびら]には、大百足と竜が刻まれ、鰐口[わにぐち]にも百足が描かれているという。そして中興開山明蓮[みょうれん]上人が毘沙門天に堂塔[どうとう]営構[えいこう]を祈願したところが、宝亀[ほうき]5年(774)に、「南無大悲福田多聞天王宇賀宮天目一箇尊[なむだいひふくでんたもんてんのううがみやあめのまひとつのみこと]」という銘をきざんだ石櫃[せきひつ]があらわれたという。天目一箇尊はいうまでもなく、鍛冶の祖神である。ここにおいて、百足と鍛冶との関連が把握される。



p.150〜151
 これまで見たように、越後の弥三郎婆、近江の伊吹の弥三郎、平将門、弁慶などには鉄人伝説がからまっている。そしてこれらの人物のうちや三郎婆と伊吹の弥三郎は酒呑童子と有縁の人物である。また弥三郎婆の舞台である越後弥彦、伊吹の弥三郎の舞台である伊吹山、酒呑童子の舞台である丹波の大江山は金属と関連が深い。鉄人伝説は金属精錬に従事した人たちの伝承だったと考えてみることができる。[略]こうした鉄人伝説のうえに無法者、あばれ者の話が加わった。それは実在の人物とむすびつくことによっていっそうの発展をみた。それをひろめたのはおそらく修験の徒であった。

p.151
 しかし、その一方では水上交通の要衝にまつられる水神信仰があった。古代には橋が流失しないために河神の人柱に立つことがあった。水神は鉄を忌むという性格もあった。水神の眷属としての河童の跳梁があった。河童をヒョウスベ(兵主部)というのは、どのようないきさつによるものか確言できないが、兵主神の眷属という意味がふくまれていることは疑い得ない。ここに銅鉄の神としての兵主神と、その眷属である水の精霊との接点がみとめられる。このようにして今さまざまな橋の物語が成立する。しかしその背後には依然として鍛冶神の影がうごいている。そしてそれらの物語は鍛冶屋や鉱山師などの漂泊者、さては山伏などの修験者によって日本の遠方の地域にまではこばれることになる。後世になると物語はさらに個別化の一途をたどるのであるが、しかしこれを類型によって捉えるというよりは、原型によって把握しようとするとき、影のようにおぼろげな「鍛冶屋の母」のすがたが立ち現われるのを否定することはできないのである。