以下、谷川健一『鍛冶屋の母』(河出書房新社、2005年)から引用です。

ーーーーーーーーーー

平将門

p.92〜93
丹後の大江山の話に関しては、唐代の作である『白猿伝』の影響を受けて作られたとする説がある。その説は古くからおこなわれていたと思われる。
 貝原益軒は『扶桑記勝[ふそうきしょう]』に、
「丹後大江山の酒顚童子はいにしへの盗賊なり。鬼の形をまねて人の財をかすめ、婦女をぬすみとる。もろこしの白猿の所作と相似たり。又近代近江にあたり、赤熊[しゃぐま]の毛を頭にかぶりて、夜叉[やしゃ]の形に似せて強盗し、人の婦女をかすめたりし賊数人ありしも、加賀井弥八郎と云ひし勇士、樵夫[きこり]の形に似せて、棒をもつて打ち殺したるも、酒顚童子が類なるべし」
 と述べている。この近江の例というのは、さきに紹介した「北越軍記」に出てくる伊吹山の盗賊のことである。

p.93〜94
『白猿伝』
  梁武帝[りょうのぶてい]の大同2年に欧陽紇[おうようこつ]という者が山中を通っていたとき、その妻を鬼にうばわれた。そのゆくえをたずね、嶺を越え、谷を伝って行くと、妻の穿[は]いていた履[くつ]が見つかった。そこで30名の兵士をしたがえて山をわけ入り、木や葛[かずら]をたよりにしてよじのぼると、そこに石門があった。そして数十人の女がたむろしていた。紇[こつ]がわけを話すと、彼の妻のいる所につれていった。妻は石の寝床に病臥していた。女たちは、今、鬼神は外出中であるが、いつか美酒と犬と麻とをもってきてくれたら、自分たちもあなたと一緒になって鬼神を討とうと言った。というのも鬼神は犬の肉が好きで、それで酒をのむ。酔うと自分の力をためそうとして、五色の絹糸で手足を床にしばりつけさせた。そうしてひとたび頭を動かすと、絹糸はかならず切れる。しかし絹糸の中に麻糸をまじえておくと、それを切ることはできにくい。ただ鬼神の肌は鉄のようにかたく、刃物も立たない。臍[へそ]の下だけが肉身で、いつもそこを蔽い隠している。そこを刺したら、死ぬだろう、と言った。
 紇はその話を聞いて、女に麻糸をわたし、酒を木の下に置き、犬を林中につないで、隠れて待っていると、6尺ばかりの髭のある男が多くの女をひきつれてやってき、犬をひきさいてくらい、酒をのみ、酔って女たちの手をひいいて洞穴[ほらあな]に入った。しばらくすると女が出てきて紇をまねいた。洞穴に飛びこんでみると、大きな白猿が4足を床につながれ、縄を解こうとしてもできないでいた。紇はその鬼の臍の下を刺して殺した。

p.94
 以上があら筋である。これをみれば『白猿伝』が酒呑童子物語に与えた影響を否定することはできないようにも思われるが、ここで問題としたいのは『白猿伝』に鉄人伝説が組みこまれているということである。[略]

p.94
 『御伽草子』の「酒呑童子」には、童子は首を切られても、その首が天に舞いあがって、頼光を目がけてただ一嚙みと狙ったが、星甲[ほしかぶと]の威光におそれをなしたため、頼光の身は無事であったという一条がある。この箇所に私は鉄人伝説の匂いをかぐ。


p.94〜95
 崇神[すじん]天皇の御代とも垂仁[すいにん]天皇のときともいうが、百済[くだら]かた温羅[うら]という鬼が飛んできて、吉備津[きびつ]神社の西北、3里ほどいった新山[にいやま](総社[そうじゃ]市阿曾黒尾)に居をかまえて、暴虐なふるまいが多かった。そこで五十狭芹彦命[いささせりひこのみこと]つまり、吉備津彦命[きびつひこのみこと]が討伐のために派遣された。鬼は新山の岩屋に石楯[いしだて]を築いて防戦したが、吉備津彦命の矢が鬼の左の眼にあたった。温羅はだらだら血を流して逃げた。総社市阿曾から足守[あしもり]川にそそいでいる血吸[ちすい]川はその遺跡であるとされている。なおも吉備津彦命は追っかけたので、温羅はまた鯉[こい]に姿を変えて血吸川に入って姿をくらました。命はたちまち鵜[う]となってこれを食いあげた。吉備津彦命は鬼の首をとってさらしたが、首が夜ごとに飛びまわって、土地の人は寝られない。そこで命は部下の犬飼健[いぬかいたける]に命じて犬に首を食わせた。そしてされこうべを吉備津宮の釜殿[かまどの]のカマドの下に穴を掘って埋め、温羅の妻の阿曾村の祝[はふり]の娘の阿曾姫に命じて釜殿に奉仕させたという伝説がある。
 これは上田秋成の『雨月物語』の中の有名な「吉備津の釜」とつながる話である。吉備津神社の釜をつくるのは阿曾村の鋳物師[いものし]であった。
 ここで興味があるのは、カマドの下に人間の死体やされこうべを埋めるという話が、みな、たたら炉で鉄を鋳造することに関連しているということである。炭焼小五郎伝説が漂泊の鋳物師や鍛冶屋の流布してあるいた伝説であることはまぎれもないが、その炭焼小五郎の話の中には、前夫が、うらぶれてきたカマドの傍で死ぬというくだりがある。


p.96
 また天明[てんめい](1781〜1789)のころに、伯耆[ほうき]国日野郡の下原重仲(1738〜1821)『鉄山秘書』にも、金屋子[かなやご]神が犬に吠えられ、麻に足をとられ、つまずいてたおれて死ぬが、その死体をたたら炉に入れると鉄がよく沸いたという話を伝えている。されこうべに祈ると、炉の中の鉄の出来具合がわかるともいう。温羅[うら]のされこうべをカマドの下に埋めたというのは、それと関係があるのではないかと思われる。
 また鍛冶の神の天目一箇[あめのまひとつ]神は片目の神であるが、温羅が片目を射られるというのは、片目を傷つけられた神と考えることができる。いずれにしても温羅という鬼の伝説は、阿曾村と密接な関係があり、鍛冶屋や鋳物師にまつわる伝説であることはまちがいない。
 さきの大江山伝説では、酒呑童子の首が天に舞いあがって、頼光を狙うのであるが、温羅伝説では、鬼の首が切られ、さらされてもなお夜ごと飛びまわったとある。ここに両者の共通点が見いだせる。では身体と首を切りはなしてもなお、首が飛ぶという例はほかにはないか。それは平将門[たいらのまさかど]伝説の中にある。


p.97
『太平記』巻十六「日本朝敵の事」
 朱雀院ノ御宇承平五年ニ、将門ト云ケル者東国ニ下テ、相馬郡ニ都ヲ立、百官ヲ召仕テ、自[ミツカラ][ヘイ]親王ト号ス。官軍挙テ是ヲ討ントセシカドモ、其身皆鉄身ニテ、矢石ニモ傷[ヤブ]ラレズ剣戟ニモ痛[イタマ]ザリシカバ、諸卿僉議[センギ]有テ、俄[ニハカ]ニ鉄ノ四天ヲ鋳奉テ、比叡山ニ安置シ、四天合行[ガフギヨウ]ノ法ヲ行セラル、故天ヨリ白羽ノ矢一筋降テ、将門ガ眉間ニ立ケレバ、遂ニ俵藤太秀郷[タハラトウダヒデサト]ニ首ヲ捕ラレテケリ。其首獄門ニ懸テ曝スニ、三月[ミツキ]迄色不‹ㇾ›変、眼ヲモ不‹ㇾ›[フサガ]、常ニ牙ヲ嚼[カミ]テ、『斬ラレシ我五体何レノ処ニカ有ラン、此ニ来レ。頭続[クビツイ]デ今一軍[ヒトイクサ]セン』ト夜ナ/\呼[ヨバハ]リケル間、聞人[キクヒト]是ヲ不‹ㇾ›恐云事ナシ。時ニ道過[スグ]ル人是ヲ聞テ、
  将門ハ米カミヨリぞ斬ラレケル俵藤太ガ謀[ハカリゴト]ニテ
ト読タリケレバ、此頭カラ/\ト笑ヒケルガ、眼忽[タチマチ]ニ塞[フサガツ]テ其尸[カバネ]遂ニ枯ニケリ。

p.98
『将門純友東西軍記』
  或ハ云[イハ]ク、秀郷矢ヲ放[ハナチ]テ将門ヲ射殺ストモ云リ、将門ハ其身金鉄ノコトクシテ、米嚙[コメカミ][バカ]リ人身ナリ、秀郷是ヲ知テ米カミヲイルトモ云ヘリ。

p.101
『将門説話』をみると、将門の首の呼びかけに応じて、将門の死骸が首を追って武蔵国までやってきて、豊島の郡でたおれてしまった。その霊が荒れて郷民をなやましたので1社を建てて、睽明神と称した。睽は一目ない顔のことであると説明し、「瞎[かつ]か」とも注している。
 瞎は隻眼[せきがん]または独眼、つまり片目のことである。将門は左の眼を射抜かれたという伝承がある。そこで土地の人たちが睽明神と称したという。それが神田明神の前身となるわけであるが、将門が一眼を失したという話は、鎌倉権五郎景政の伝承などと関連があるかもしれない。そして、それは目一つの神である鍛冶神とも縁由がないとはいわれぬのである。

p.101〜102
 ところが、ここにもう1つ俗伝があって、京都で獄門にさらされた将門の首が、東国に帰りたがって、空を飛び、東を指して関ヶ原のところまできた。将門の首が東国でその骸[むくろ]をいっしょになると一大事だというので、南宮神社の境内にまつられている隼人[はやと]の神が弓に矢をつがえて、将門の首を射落とした。そこは昔の青墓[あおはか]村で、今は大垣市に属するが、射落としたところに矢道[やみち]という地名が残っている。そして将門の首は旧荒崎村大字荒尾(現在大垣市)の御首[みくび]神社にまつられている。
 『不破[ふわ]郡史』によると、天慶[てんぎょう]3年(940)、正月24日に不破郡の南宮神社の中の神宮寺で、将門調伏[ちょうぶく]のための四天王の法を修していたところ、結願[けちがん]の日に、京都に送られる将門の首が到着したという。おそらくそうした話をふまえて、さきの御首神社の伝承はできたものと一般には思われている。『不破郡史』は「青墓村大字矢道、並に荒崎村大字荒崎の御首神社関係伝説あれど、正しからざれば略す」と述べて、この俗説をしりぞけている。
 しかし私は、この俗伝の中の首が飛行したという一条を重視する。それは、さきに述べた大江山の酒呑童子の首が天に舞いあがり、また温羅の首が夜ごとに飛びまわったという伝承と共通のものがあると考えるからである。そして、これらの説話の背景には、鉄人伝説が存在すると私は推測する。
 『将門記』に「新皇は暗に神鏑[しんてき]に中[あた]りて、終[つひ]に託鹿[たくろく]の野に戦ひて、独り蚩尤[しいう]の地に滅しぬ」とある。ここでは明らかに新皇、つまり平将門を蚩尤になぞらえている。蚩尤は涿鹿[たくろく](託鹿)の野に黄帝と戦って敗れた。

p.102〜103
 蚩尤についてはまえに触れたように、銅頭、鉄額の神で、日本の兵主[ひょうず]神の原形であることが注目される。その常食とするところは、砂、石、鉄塊などであったと伝えられる。つまり硬いもの、金属に縁由のあるものが食物であるとすれば、それは日本における鉄人の母が、妊娠中に銅や鉄の塊を食べたという故事を連想させずにはおかない。蚩尤はまた武器の製造がたくみで、鋭利な矛[ほこ]や戟[げき]、巨大な斧、堅牢な盾などを作ったというから、まさしく兵器神である。


p.104
一説には、蚩尤は敗北してのち、冀[き]州の中部まで戦いながら退却し、そこで黄帝に捕えられて首を斬られた彼は首と体が離ればなれになって、2つに分解されたから、その地方は「解[かい]」と呼ばれた。今の山西省解県だという。斬り離された彼の首と体は、さらに今の山東半島にはこばれ、寿長[じゅちょう]県と鉅野[きょや]県の2ヵ所に別々に埋葬して、それぞれ2つの墳墓を築き、死後のたたりのないようにした。
 寿長県に埋葬されたのは蚩尤の首のほうらしく、古代のこの地の住民たちは毎年10月になると、蚩尤のお祭りをするのがつねだった。祭のころには、時々ひとすじの赤い霧が蚩尤の墓から立ち昇って雲の彼方までかかった。それがまるで旌旗[のぼりばた]のようだったので、人びとはそれを「蚩尤旗[しゆうばた]」と呼んだという。人びとは、この失敗した英雄が自分の敗北にあきらめず、いまだに墓の中に憤懣やるかたなく、その怨念が天まで立ち昇るのだと考えた。一方、鉅野県の蚩尤の墓は、彼の体を埋葬したものといわれている。
 以上の蚩尤に関する話は、袁珂[えんか]の『中国古代神話』から採ったものであるが、これをみると、蚩尤が首と身体を所を異にしてばらばらに埋められ、しかも首を埋めた場所から赤い霧のようなものがあがって、蚩尤の怨念を示すという点が、将門の伝承と似ていることに気づく。そこで将門に関する説話は蚩尤伝説を下敷にしている気配が濃厚である。[略]


p.105
 将門[まさかど]を退治した藤原秀郷[ふじわらのひでさと]には「俵藤太[たわらとうだ]物語」があることはさきに述べた。この物語の前半部分は三井寺の釣鐘に関する百足[むかで]退治の物語であり、後半部分は将門を退治する話であるが、岡部周三氏によると、秀郷がこめかみから将門を射殺した話は、鏃[やじり]につばきを吐きかけて百足を退治した話によく似ているという。すなわち、一の矢を引きしぼって「眉間の真中と思しき所を射たりしに、その手応へ鉄の板などを射るやうに聞えて、筈をかへして立たざりける」という百足は、鉄身であって将門のように不死身であり、奇怪なそんざいであるというのである。
 百足が鉱山に関連することには、歴史的裏づけがある。たとえば、元明[げんめい]帝の御代に武蔵国秩父郡黒谷村から自然銅を発見したというので、自然銅で作った百足一対を朝廷から下賜[かし]された。それをまつってきた聖[ひじり]神社には、今も御神体として銅製百足一対が置かれている。これは百足が毘沙門[びしゃもん](多聞天[たもんてん])の使いとされていることに由来すると推察されるが、若尾五雄氏の「百足と金工」によると、佐渡相川に百足山がある。そこに小祠がまつってあったが今は近くの戸川大明神に合祀されている。現地には戸川藤五郎という人がいて、百足[むかで]山の百足を射たという伝承がある。彼はまた炭焼藤五郎とも呼ばれたらしい。相川では昔は金山祭のとき、藁[わら]でこしらえた大百足の飾りを持ち出したといわれる、と若尾氏は述べている。


p.110
 柳田国男は、俵藤太の子孫がいつも近江と下野との間を往来していたと言っている。そこから類推すれば、俵藤太秀郷は小野氏の一族である信仰的一家族を引きつれて、近江から下野に移住したのであろうというのが柳田の説である。
 こうして近江の物語は下野にはこばれることになった。これまでみたように、水脈鉱脈を探すことを専門にした穴太[あなほ](穂)の人たちにせよ、また鍛冶神を祖神とする小野氏が水霊信仰を日本各地に持ち歩いたということにせよ、さらには大和[やまと]の穴師[あなし]の神人[じにん]が各地にひろめた水神としての兵主部[ひょうすべ]の信仰にせよ、いずれも水の信仰と鉱山や金属にたいする関係を双方にそなえている。これら水神信仰と金属精錬技術者集団のむすびつきは、河童が腕を切られてとりもどす話と、鬼が腕を切られてとりもどす話との間の同一性を暗示しているように思われる。