以下、谷川健一『鍛冶屋の母』(河出書房新社、2005年)から引用です。

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酒呑童子

p.78
河童が手を切られて、それを取り返すというのは、渡辺綱が鬼の手を切ったものの、やがて奪い返されたという話とよく似ている。両者の話には関係があると思われるが、それをどう解すればよいのであろうか。
            
 その手がかりとして、河童をヒョウスベと呼ぶ九州の方言に私は注目する。


p.79
私は、折口信夫が『河童の話』の中で、「奈良の都よりも古く、穴師[あなし]神人[じにん]が、幾群ともなく流離宣教[りゅうりせんきょう]した。その大和穴師兵主[あなしひょうず]神の末である。播州・江州に大きな足だまりを持っていた」と述べているように、ヒョウスベは兵主神に仕える部民という意味での兵主部のことと解する。折口はこれ以上何も記していない。ただ私は、この兵主[ひょうず]神を中国の渡来神と考えるのである。


p.80〜81
河童が馬を水中に引きこむ話は、水神が白馬を欲するということに由来すると思われる。百済[くだら]国の故郷であった扶余[ふよ]の白馬江の名は、唐の将軍が白馬を餌として竜を釣ったという故事に始まるといわれている。竜は水神の化身である。柳田も『山島民譚集』で指摘しているように、南九州では河童といえば水神のことである。


p.81〜82
 兵主[ひょうず]神は、古代中国の斉[せい]の国の8神の1つとみなされている。この兵主は蚩尤[しゆう]といわれる。兵主神は斉国の最有力神であったが、それが日本にも伝えられたのであるというのが、内藤湖南の説である。
 蚩尤は銅鉄の神であり、また兵器の神でもある。[略]

p.84
穴師の神人[じにん]が持ち歩いたという水の神の信仰とは別に、兵主神には金属の神の性格がまつわりついている。兵主神には金属の神の性格がまつわりついている。兵主神の性格の一面は水神として河童に表現されたが、もう一面は弥三郎婆や伊吹の弥三郎や酒呑童子に受け継がれていった。


p.84
 おそらく大江山伝説は、摂津の渡辺党の居住地である大江から出発したのであったろう。『地名辞書』を見ると、「渡辺の大江の岸」という言い方をしている。そうして、そこが水神をまつることを必要とする水上交通の要衝であったがゆえに、水神としての河童の手を切るという話とおなじような、橋姫が鬼となって出没し腕を切られる話にまで発展したのではなかろうか。


p.86〜87
丹後の大江山は鉱物資源にめぐまれている。頼光の一行が休憩したという鬼茶屋から千丈ケ原をへて河守鉱山に達する。この河守鉱山は大正6年に発見され、昭和3年に日本鉱業の営業となり、昭和45年ころまで銅鉱石を掘り出していた。


p.88
鬼が渡辺綱に腕を切られてそれを奪い返すという話は、おそらく水辺に起こったと私は思う。水上交通の要衝にまつられている水神の信仰と関連があるにちがいない。摂津の大江は『古事記』の応神帝の条に、むかし新羅王の予[ママ。子?]の天日矛[あめのひぼこ]が、逃げた妻のあとを追って難波に入ろうとしたが、「渡の神」がさえぎって入れなかったと記されているところである。そこは古代の日本にとってもっとも重要な港であった。
 これとおなじ摂津三島郡の茨木[いばらき]についてもいいうる。そこは新羅[しらぎ]や百済[くだら]と往来する船の発着するところであった。茨木童子の名が摂津三島の茨木に由来するか確かではないが、そうだとするならば、そこが交通の要衝で水神をまつった重要な場所であったということと関連があるにちがいない。 
 
p.88〜89
 兵主[ひょうず]神が水に縁由のあることはすでに述べたことである。兵主神の前身は中国の銅鉄の神であり、また兵器の神である蚩尤にほかならぬ。この蚩尤が不死身の鉄人であったことは当然であるが、その蚩尤神の性格が兵主神にも反映していたはずである。それは兵主神の眷属としてのヒョウスベ、すなわち河童にも影響を与えずにはすまず、河童の手を切られる話が鍛冶神の話ともつながっていったのだろうというふうに類推できる。


p.89
『鉄山秘書』には、多々良[たたら]入道の話が載っている。鉄を千夜吹くと、蹈鞴[たたら]入道という妖物[ばけもの]が出て、鉄山の人を殺害するということは古くからいい伝えられえてきている話だとして、鉄を千夜吹きつづけたきた高殿[たたら]は、また吹きかえることにしていたという。鉄山では、子供を恐ろしがらせるには、必ずこの化物のことを言い出した。伝承によると、その化物は高殿の上にまたがって、火牢内[ほうち]から大きな手を指下[さしおろ]して内をかきさがし、人がいれば、つかみさき食う、という話が記されている。
 ここにも、空から大きな手が出てつかもうとする。それは弥三郎婆にそっくりである。[略]

p.90〜91
注(6) 丹後風土記残欠[ざんけつ]には「川守郷」の地名の由来が載せてある。それによると、むかし日子坐王[ひこいますおう]が陸耳[くがみみ]匹女[ひきじょ]らを追って、蟻道郷[ありみちごう]血原にいたった。そこで匹女を殺してから、その地を血原(千原)といった。陸耳は川を越えて逃げた。官軍は楯をつらねて川を守り、矢を放つこと、いなごの飛ぶようであった。陸耳の党は矢に当たって多く死んだ。ゆえにその地を川守といった。日子坐王は舟にのって、陸耳を追って由良港までいったが、賊を見失った。王は陸にあがり、石を拾って占ったところ、陸耳は与謝の大山に登ったことが分かった。この地は石占(石浦)と名づけ、舟は楯原に祀って舟戸の神という、とある。ここにいう与謝の大山は古くは大江山付近を指した呼名である。日子坐王は開化天皇の皇子といわれる。大江山が賊のかくれ家であるという伝承は、古くからあったにちがいない。
 

p.91
注(7) 麻呂子[まろこ]親王は聖徳太子の異母弟といわれ、丹後半島に数多くの伝説がのこされている。親王はこの国に鬼賊[きぞく]がかくれ住んでいるので退治せよとの勅命を用明天皇から受けた。親王は七薬師の法を修し、丹後国与謝[よさ]郡河守荘の鬼賊のすみ家にたずね入ったところ、岩屋に英胡[えこ]・軽足[かるあし]・土熊[つちくま](或説土軍)の3鬼がいた。これらの鬼を退治し、七薬師をまつった。第1が加悦[かや]荘施薬寺、第2河守清国[ママ]寺、第3竹野元興寺、第4竹野神宮寺、第5構谷等楽寺、第6宿野成願寺、第7加佐郡白久多禰[たね]寺である。