以下、谷川健一『鍛冶屋の母』(河出書房新社、2005年)から引用です。

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伊吹の弥三郎


p.59
林道春の『本朝神社考』の「胆吹明神[いぶきみょうじん]」の条にも、ヤマトタケルが伊吹山の荒神を退治しに出かけたとき、その荒神が蛇となって山路によこたわっていた。その蛇をまたいで行ったところ、山が荒れてヤマトタケルはなやまされた。そこでこの胆吹の神は八岐大蛇[やまとのおろち]の変ずるところであると世に信じられていたという。

p.60
 「景行紀」によると、伊吹山の神が大蛇となって道に横たわりヤマトタケルを阻んだとあり、また『源平盛衰記』には、スサノオが剣[つるぎ]をアマテラスにたてまつったところ、アマテラスはたいへんよろこんで、この剣は自分がかつて天[あめ]の岩戸[いわと]に閉じこもったとき、近江国の伊吹山に落ちた剣である、と言ったちおう話がのっている。また同書は、その大蛇というのは伊吹大明神の法躰[ほうたい]であるとも述べている。さきの『本朝神社考』の話は『日本書紀』と『源平盛衰記』の話をつなぎあわせたものである。
 「伊吹童子」もまた、スサノオノミコトの八岐大蛇退治にふれて、その大蛇は伊吹大明神であり、それゆえに伊吹の弥三郎は酒を大そう好んだと述べている。注意すべきことは、剣と蛇との関連がここでつよく示唆されていることである。
 ところで、ここにいう伊吹大明神とは伊吹山の神のことにほかならぬが、その神をまつる神社が伊吹山のふもとに2ヵ所ある。1ヵ所は、不破[ふわ]の関[せき]のすぐ近く、岐阜県不破郡垂井町の伊吹にある伊富岐[いぶき]神社であり、もう1つは、美濃から不破の関を越えて近江に出たところ、滋賀県坂田郡山東町の伊吹にある伊吹神社である。
 美濃の垂井町の伊富岐神社は『文徳実録[もんとくじつろく]』に見える。一方、近江の山東町の伊吹神社(伊夫岐神社とも書く)は、『文徳実録』や『三代実録』にその名がみえる式内社[しきないしゃ]である。
p.61
 この伊吹という集落にはイフクという人名が多い。おそらくイブキの名を冠する2つの神社は、ともに伊福部[いふくべ]と呼ばれる古代氏族と関連があり、吉田東伍の説のように、伊福部氏が伊吹山の神を自分の氏神としてまつったのであろう。


p.62
 常陸の伊福部岳の説話では、「伊福部の神」は、明確に「雷神」として登場している。そして、さきに見たように伊吹山の神は「蛇神[へびがみ]」であった。この伊吹山の神をまつったのが2つのイブキ神社であり、それを伊福部氏は自分たちの氏神として守りついだ。ということから、蛇神は雷神の別の表現であるということができる。
 また伊吹山にはさきに見たように、剣にからまる説話も登場する。そこで、剣――蛇――雷という関連づけが可能になる。雷神こそは鍛冶神であるという論証はすでにおえたところである。近江と美濃の国境にまたがる伊吹山が、伊福部氏の奉斎する鍛冶神の住む山であるとみなすことは決して不自然ではない。
 古代の伊福部氏が金属精錬に密接な関連をもつ氏族であり、銅鐸もまた伊福部氏の製作になるものではないかという仮説は、拙著『青銅の神の足跡』で詳述したところであるから、ここで繰り返すことは避けるが、伊吹山の大蛇が雷神を意味し、その山に鍛冶神の伝承が伝わっていることは、伊福部氏の存在を考慮に入れるとき、さらに納得されるはずである。



p.63〜64
全身が鉄でできているが、ただ1ヵ所が肉身であるために、その箇所を刺されて殺されるという鉄人の説話が日本にいくつか残っている。これらの例証を大林太良氏は『本朝鉄人伝奇』と題する論文の中で7例あげている。そうして、鉄人伝説には共通して次のような特徴があることを指摘している。
 一、母親は妊娠中鉄を食べる
 二、その結果、生まれた子供は全身鉄張りであるが、ただ一ヵ所だけ鉄張りでないところがあった。
 三、この鉄人は成人後、武名を轟かせるが、ふつう悪玉と考えられている。
 四、ある英雄が、この鉄人とたたかうが、これを討つことができない。英雄は女(多くの場合、鉄人の母あるいは愛人)から、鉄人の泣き所がどこにあるかを知る。
 五、英雄は鉄人の泣き所を攻めて、これをたおす。
 大林氏はこのように5つの要素をあげているが、鉄人伝説の筋書がこの要素すべてをみたしているとはかぎらないとことわっている。


p.66〜67
 佐竹氏は、『吾妻鏡』に登場する実在の人物である柏原弥三郎を、弥三郎風の名称の起こりと考えている。私はそこに疑問を呈せざるをえない。まず最初に、伊吹山に鉄人伝説があり、その鉄人はきわめて乱暴者であったので、その泣き所を狙って殺されたのであるが、伊吹山の強風は、鉄人の荒々しさの象徴のようにも見えたのであったろう。その鉄人を、いつの頃からか伊吹の弥三郎と呼ぶようになった。
 ではなぜ、その鉄人に弥三郎の名前がつけられたかといえば、一つは佐竹氏の主張するように、史実の柏原弥三郎の名が影を落しているとみることができる。しかし、他の解釈もできないわけではない。弥三郎とか弥五郎という名前は、信仰に関連のある名前と解せられるからである。大人[おおひと]弥五郎の話は、鹿児島県や島根県、愛知県などに今日でも残っている。この弥五郎の五郎は御霊[ごりょう]だと説明する人たちもいる。弥三郎もまた弥五郎と同一系列の人物とみなすことができる。




p.68〜71
 それにしてもすこぶる奇異に思われるのは、伊吹の弥三郎と越後の弥三郎婆の話に少からぬ共通項の見いだされることである。それを左に箇条書にして並べてみよう。
 第1、伊吹の弥三郎、越後の弥三郎婆と、ともに弥三郎の名がつくこと。
 第2、伊吹の弥三郎には柏原弥三郎、越後の弥三郎婆には黒津弥三郎というふうに実在を推定される史実の弥三郎が登場すること。
 第3、この伝説はいずれも鍛冶神に関係のあること(鉄人と千匹狼[せんびきおおかみ])。
 第4、伊吹の弥三郎も越後の弥三郎婆も大風を起こすこと。
 第5、これらの伝説の背景となる近江の伊吹山麓も、越後の弥彦山付近も金属精錬のおこなわれた場所であること。
 第6、伊吹の弥三郎の子どもの伊吹童子と越後の弥三郎婆は、ともに大江山の酒呑童子伝説とかかわりがあること。
 こうした共通項が偶然のものとは、けっして思われない。

p.69
 伊吹の弥三郎伝説とちがった側面といえば、越後の弥三郎婆が千匹狼の伝説と重なりあう部分を多分に含んでいる点である。しかし全身が鉄でおおわれた鉄人の話は、さきに紹介した宮古島の神歌にみられる伝承をとおしてみると、鍛冶の技術を伝える鍛冶神の話にほかならぬ。千匹狼が鍛冶屋の母の話であるように。そうした面では伊吹の弥三郎と越後の弥三郎婆の話は本質的につながっている。
 また、大風を起こして空中を飛行する伊勢の多度[たど]神社の一目連[いちもくれん]が鍛冶の神としてまぎれもないところからみて、黒雲を起こして空を飛ぶ弥三郎婆も、伊吹山から猛風を吹きおろす弥三郎も鍛冶神の属性を示しているとみられる。青木重孝氏の『弥彦周辺民族誌』によると、小千谷[おぢや]の片貝で「弥右衛門荒れ」というのは、正月の荒天だが、この日には弥三郎婆が同家をおとずれるからだという。
 

p.69〜70
 とすれば、伊吹の弥三郎にまつわる鉄人の話も、千匹狼の変形とみられる越後の弥三郎婆の話も、大鍛冶[おおかじ]小鍛冶[こかじ]の連中が、漂泊の途次に残していった伝説とみることができる。ただ、越後には弥彦神社の社家に鍛冶職の家があって、それがたまたま黒津弥三郎であったところから、弥三郎婆の話が固有名詞と習合してしまった。これは伊吹の弥三郎の場合もあてはまるのではなかろうか。つまり、もともと固有名詞ぬきにそうした伝説(伊吹では鉄人、弥彦では千匹狼)があったところに、それにふさわしい弥三郎なる者が中世にあらわれたので、弥三郎という固有名詞が伝説に組み入れられたと私は見る。

p.70
柏原荘の弥三郎というのは、そもそも本名ではなく、鉄人伝説に登場する弥三郎を思わせるような乱暴者であったから、付けられた名であると考えることが、むしろ自然の筋道ではなかろうか。