以下、谷川健一『鍛冶屋の母』(河出書房新社、2005年)から引用です。

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弥三郎婆

p.14〜15
新潟県の地図を展[ひら]くと、弥彦山塊と海にはさまれたせまく細長い海沿いの道に、間瀬[まぜ]、野積[のづみ]、寺泊[てらどまり]などの集落が北から南に並んでいる。林羅山の『伊夜比古神廟記[いやひこしんびょうき]』によると、元明帝の和銅2年、越後国の米水浦[よなみずうら]というところに光が見えて七日七夜やまなかった。海人はこれをあやしんでいた。そこで坂上河内の遠祖が見に行くと、神船が海に浮かんでいたので、この光の飛んできたところに祠[ほこら]を建ててまつった。
 米水浦ははじめ逃浜と名づけた。ところが神がやってくると白いシトギや白い水がそこから流出したので米水浦と呼ぶようになった。その神のたずさえてきた宝物はみな石と化した。しかし形は宝器のままであったという。米水浦というのは野積(現在、寺泊町野積)にある。ということから現在の社地に鎮座する以前、弥彦神は野積にまず上陸したという伝承のあったことを知る。[略]

p.15
 神は米水浦(野積浜)から猿ケ馬場[さるがばば]峠を越え、桜井の里にしばらく休息したあと弥彦の里に入って宮居[みやい]を定めたとされている。野積の伝説によると、神がそこを立ち去ったのは野積浜のおヨネという女と結婚し、12人もの子どもを生んだのが嫌になったからという。[略]

p.16
 つまり、このおヨネは米水浦[よなみずうら]を人格化したものにほかならない。おヨネは、慶応4年に書かれた『妻戸記』によると、熟穂屋姫命[うましほやひめのみこと]となっている。弥彦神夫妻は、米水浦に塩たきいや手繰網[たぐりあみ]法を教えたという。弥彦神の妃[ひ]神の熟穂屋姫命をまつる神社を妻戸神社といい、その神社の祭日は妃神の命日の3月18日である。現在はひと月おくれの4月18日が祭日である。

p.17〜18
 まず結論から先に言うと、片目の神は、銅や鉄を精錬する古代の技術労働者が、炉の炎で眼を傷つけ、一眼を失したことに由来すると私は考えている。弥生時代に始まった金属精錬の技術は、中国大陸あるいは朝鮮半島から招来されたものであるが、当時は、そうした技術をもって石よりも硬く鋭い製品を作り出すことは、神にもひとしい仕業として驚歎の的となったことは想像するにむずかしくない。したがって眼をやられた労働者は神としてあがめられた。それが目一つの神の起源にほかならなかったと私は思う。

p.18〜19
 3月18日については、藤田治雄氏も注目していることであるが、柳田国男が『一目小僧その他』がその日の重要性に気づいて言及している。柳田によると、3月18日は、小野小町や和泉式部など漂白流離の美女の忌日であるだけでなく、盲目の平景清、一眼を失した鎌倉権五郎景政、あるいは黍畑[きびばたけ]で目をついたという伝承をもつ柿本人丸[ひとまろ]に縁由[えんゆう]ある日であった。すなわち人丸と景政の忌日は3月18日とされ、日向[ひゅうが]の生目[いきめ]八幡社に景清の祭日は3月と9月の17日であったとして、柳田は次のように述べている。
「もし景政景清以外の諸国の眼を傷つけた神々に、春と秋との終の月の欠け始めを、祭の日とする例がなほ幾つかあつたならば、歌聖忌日の三月十八日も、やはり眼の怪我といふ怪しい口碑に、胚胎してゐたことを推測してよからうと思ふ。丹後中郡五箇所村大字鱒[ます]留に藤神社がある。境内四社の内に天目一社があり、祭神は天目一箇命[あめのまひとつのみこと]といふ。さうして、この本社の祭日は三月十八日である」
 私もまた注意してみると、柳田のあげた例のほかに、奈良県桜井市の狭井に坐[いま]す大神荒魂[おおみわあらたま]神社の祭りは3月18日におこなわれることを知った。そこの祭神は大物主命[おおものぬしのみこと]、事代主命[ことしろぬしのみこと]、ヒメタタライスズヒメ、セヤタタラヒメで、タタラに関連した名前をもっている。9月18日のほうをしらべてみると鏡作連[かがみつくりのむらじ]の祖神をまつる鏡作坐天照御魂[かがみつくりにいますあまてるみたま]神社、また阿智氏に縁由のある倭恩智[やまとおんち]神社、河内大県郡青谷にある金山毘古[かなやまひこ]神社、天目一箇神をまつる近江[おうみ]蒲生[がもう]郡桐原郷の菅田[すがた]神社があげられる。これらがすべて金属に縁由のある神社であることは注目に値する。
 ここにおいて、弥彦神社の祭日が旧3月18日であったという事実が重要な意味を帯びて浮かび上がってくる。つまり、弥彦の神は、なにがしか金属精錬に縁由のある神社ではないかという推定が可能になってくる。


p.20
 『地名辞書』によると、江戸時代の元禄(1668〜1704)から元文[げんぶん]年間(1736〜1741)にかけて、石瀬[いわせ]、間瀬、野積の3ヵ所で銅を掘ったが、この3ヵ所は弥彦山中にあるので、弥彦山を多宝山とも言うとある。このうち間瀬銅山は比較的に後まで稼行[かこう]していた鉱山であった。[略]

p.21
 弥彦の神が野積浜に上陸したのは、そうした銅鉱が目あてだったと考えてみることができる。

p.22
『弥彦神社叢書』
  明応[めいおう]の御造営成就[じやうじゆ]して、大工[だいく]鍛冶[かぢ]棟上[むねあ]げ異論に及び、一二を争ふて高橋これを訴[うつた]へ、ついに壱[いち]番大工棟上ゲ、弐[に]番鍛冶棟上ゲ致すべしと裁断きまる。この時鍛冶弥三郎と云ふものの母、悉[ことごと]く野心を含み、当小滝ヶ沢の奥に入りて喰事[くふこと]をせずして死す。その死体髪[かみ]逆立[さかだ]ち、手を握りて爪肉[つめにく]の中へ延通す。顔色猶[なほ]怒りて眼を開きてこれあり。

p.23
 黒津家は弥彦大神の随神印南鹿の第二子の末裔といわれ、代々弥彦神社の鍛匠[たんしょう]として奉仕したと伝えられている。この黒津家が実在したことは、「弥彦文書」(新潟県文化財調査報告書第2)の中に、「黒洲金村、あるいは黒洲真保古とも云う」とあるのでたしかめられる。金村といい、真保古(真鉾か)といい、金属に因んだ名前であるが、黒洲の黒もまた黒金(鉄)を思わせる姓である。黒洲は黒津もと記されている。さて黒津弥三郎の話であるが……。
 承暦3年(1079)弥彦神社の造営工事が斎行[さいこう]されたとき、鍛匠と工匠(大工棟梁家)とが上棟式の第1日目奉仕をたがいに主張してゆずらず、とうとう、床の弥彦庄司吉川宗方の裁断によって、工匠は第1日、鍛匠は第2日目に奉仕すべしと決定された。これを知った弥三郎の母は、憤悶やるかたなく、怨[うらみ]の心が昂じて遂に悪鬼と化し、庄司吉川宗方をはじめ工匠方にたたりをなし、さらに諸所方々に飛行して悪業の限りをつくしたという。
 

p.23〜24
 また「高志路」219号によると、弥彦の周辺には次の話が残っている。鍛冶と大工が言い争いをした。その起こりは、この世で仕事の始まりは、鍛冶が先か大工が先かということで、鍛冶にいわせると「かんな、のみなど鍛冶が作った道具がなくては大工は仕事になるまい」。大工に言わせると「ふいごを大工がこしらえなければ鍛冶はなるまい」。
 こうして言い争っているときに、12月8日に天からふいごが降ってきたということで、鍛冶が勝った。その日を金山講として、1日昔のことを語り合ってお神酒[みき]をあげてお祭りをするようになった。
 

p.24
 この話をみると、鍛冶が大工に買ったことになっており、黒津弥三郎の説とは逆になっている。私にはこの説話のほうが古いように思われる。それは次の理由からである。
 喜界島[きかいじま]には、天から神が降臨して、粘土で男女を作った。男女が農耕を望むので、こんどは天からふいごを背負った神の使いが降りてきて、ふいごで鍬[くわ]や鎌を造、女に与えた。そこで農耕がはじまったという話が、『喜界島昔話集』(岩倉市郎著)に載っている。ふいごが天から降るという話とは酷似する伝承が、大和国高市[たけち]郡にも残っている。『大和志料』には「日本の鍛冶は大和国高市郡より起る。昔、神代の御時、石鎚[いわつち]、鉄錐[かなはし]の天より降るところ、なづけて鉄錐庄[かなはしのしょう]と言う」とある。そこの磐橋[いわはし]神社は鍛冶神である天目一箇神[あまのまひとつのかみ]をまつるという。空から鍛冶の道具が降ってくるという説は、アフリカのエヴェ族などにもあり、世界にひろく分布している。
 これらの例からみても、弥彦神が鍛冶神であり、しかもその民間説話は、きわめて古くまで遡及できること立証される。黒津弥三郎にまつわる伝説は、おそらく後世に変形されたものであろう。

p.25〜26
 弥三郎の母は各地で人をおそったが、ついには弥三郎が狩をしての帰り路を待ち受け、その獲物[えもの]をうばおうとして、逆に片腕を切り落とされると、孫にあたる5歳の弥治郎をさらって逃げようとした。これも失敗すると、悪鬼の形相ものすごく、飛鳥のように風を起こして黒雲を呼び、天上高く飛び去ってしまった。
 そのあと諸国を飛行しては悪業に専念したが、80年たった保元[ほうげん]元年(1156)に、弥彦で高僧の評判高かった典海大僧正が、ある日弥彦山のふもとの大杉の根元に横たわる1人の老婆を見つけた。その異様な姿にただならぬ怪しさを感じて声をかけたところ、年経て神通力[じんつうりき]を身につけた弥三郎の母であることが分かった。典海大僧正は老婆に説教して真人間になることをすすめた。老婆は前非を悔い、名も妙多羅天女[みょうたらてんにょ]とあらためて宝光院にまつられるようになったということである。宝光院は弥彦神社の近傍にあり、その御堂には今日でも妙多羅天女像が安置されている。
 宝光院の背後の森に婆々杉[ばばすぎ]と呼ばれる大杉がある。妙多羅とは奇妙な名前である。弥彦山中には、宮多羅という地名があって、俗に、オンバのネドコといわれて、そこが妙多羅天女の終焉地とされている由であるが、この名前から私が連想するのは、弥彦神社の祭神がタラで目をついて片目となったという伝承っである。そこでこの弥彦神の伝承にあるタラの木が多羅という固有名詞に反映しているのではないかと想像できる。『佐渡風土記』には妙虎天[みょうとらてん]となっている。トラと呼ばれる回国の巫女[ふじょ]によって伝えられたとも思えなくないが、弥彦あたりでは妙虎ではなく妙多羅となっていることには、それなりの意味があると考えられる。


p.26〜27
 弥三郎婆の話は各地に残っている。
 鍛冶屋との関係を伝えるものに次の話がある。越後三島郡来迎寺[らいこうじ]村、むかしの朝日村に炭焼の権[ごん]という正直者がいた。そこに弥彦の弥三郎婆がやってきた。そうして嫁を世話しようという。弥三郎婆は大阪鴻池[こうのいけ]家の娘をさらってきた。その娘は権の嫁になった。嫁は小判を出して買物を頼んだが、夫の権は小判を雁[がん]に投げつける。女房があきれていると、そんなものはたくさんあるという。果たして黄金がたくさんあった。権長者[ごんのちょうじゃ]のいた沢は今も権が沢といって残っている。
 いうまでもなく炭焼長者の伝説であるが、そこに弥三郎婆が登場するのは興味深い。というのも炭焼長者伝説は鋳物師や鍛冶屋が各地を歩きながら運んでいった説話であることが、ほぼたしかと見られるからである。弥三郎婆も鍛冶職の家に生まれていることから、このむすびつきは偶然ではあるまい。

p.27
弥三郎婆の話のもっとも古いものは『今昔物語』巻27の「猟師の母、鬼となりて子を食はむとせること」であろう。

p.28
高木敏雄の『日本伝説集』には弥三郎婆の話が載っている。越後国西蒲原郡中島村の話となっている。
 そこの妙太郎という猟師が山奥の小屋に泊まっていると不意に大きい手を出してつかもうとする者がある。妙太郎が山刀[やまがたな]で斬り落としたら怪物は逃げ出した。妙太郎がその手をもって帰ってみると、母は大病だと言って唸っている。そして妙太郎の切ってきた手を見ると、それはおれの手だと言って、たちまち窓から飛び出して去った。その婆のために堂を建てて祀った。それが今の弥彦神社の裏の妙多羅天[みょうたらてん]であるという。
 同じ話が柏崎にもあり、それによると、弥三郎婆は山犬や狼をつれて追いかけ、弥三郎が大木にのぼると、婆もつづいてのぼってきて弥三郎をつかみ落とそうとする。弥三郎がもっていた鉈[なた]で婆の額をなぐると、婆は悲鳴をあげて逃げ失せる。弥三郎が家に帰ってみると、母は柱で打ったとか言って、額に創を受けている。弥三郎の子供が見えないので母に聞くと、味噌だと思って嘗めたというので、さてはと思って、弥三郎が身支度をすると、母も鬼の正体を現わし、暴風雨にまぎれて破風[はふ]を抜けて八石山のほうへ逃げていく、という話になっている。

p.28
 弥三郎婆が他人の子供を食うというのは、鬼子母神[きしぼじん]の説話が混入していると思われる。

p.29
私がここで越後柏崎の話に注意するのは、弥三郎婆が山犬や狼をつれているということである。この点は柳田国男が『桃太郎の誕生』の中で述べている弥三郎の話では、いっそう明確になっている。
 それによると、弥彦付近の農夫であり「綱使い」すなわち田んぼに出て鳥を捕るのを業とする者であった。ある日、狼たちに追われて木の上にのぼると、狼たちはやぐらを組んで迫ってきたが、届かない。そこで弥三郎婆さんに頼もうと1匹の狼が走っていく。はて、弥三郎婆さんといえば、うちの母親のことだと思っていると、にわかに西の空が荒れ出して黒雲がひろがった。その雲のなかから大きな手が出てきて、弥三郎の首すじをつかんだ。腰に差した鉈を出して力まかせにぶった切ると、血が流れた。狼たちは四散した。その腕をかかえて家に戻ると、奥の間で母親が唸っている。針金のような毛の生えた腕を母親の寝ているところにもっていくと、老母はたちまち鬼婆[おにばば]の姿になり、その腕を引ったくり、自分の腕の切り口にくっつけて逃げた。鬼婆が弥三郎の母を食って化けていたのであった云々。
 この話は弥三郎婆の話のなかでも比較的原型を保っているのではないかと思われる。[略]

p.30〜31
 柳田国男は『桃太郎の誕生』の中で、高知県安芸[あき]郡佐喜浜村の野根[のね]山の国有林の中に産[さん]ノ杉[すぎ]と称する有名な古木のあったことを伝えている。その杉は、地上四メートルほどの高さの処で幹が横に屈曲し、そこが平らになって5、6人は楽に坐わることができたという。昔、旅の女がこの樹の上で産をしたという伝説があり、安産の護符にと後代までその杉の木片を削ってもっていく風があった。ところで、この杉にまつわる次の話がある。
 あるとき1人の飛脚がこの野根山の峠路[とうげみち]を越えた途中、数十匹の狼に吠えたてられている産婦を見出し、産婦を助けて近くにある大杉の枝にのぼらせた。すると狼たちはやぐらを組んで迫ってきた。飛脚が刀を抜いて切り伏せたので、狼たちは「では崎浜の鍛冶屋の母を呼んでこよう」と言った。するとまもなく大白毛の狼が肩梯子[はしご]の頂上にのぼってきた。飛脚が切りつけると、カンという音がした。よく見ると頭に鍋をかぶっていた。それで、なお切りつけると鍋がやぶれて、狼は地上に倒れてしまった。他の狼たちは逃げ失せた。飛脚は産婦を木からおろし、帰りがけに崎浜にまわって鍛冶屋の家をたずねた。すると人の呻き声が聞こえるのでたずねると、鍛冶屋の老母が夜中に便所に行き、石につまずいてころび、頭に怪我をしたという。飛脚は、奥の間にはいると老母を突き殺してしまった。鍛冶屋の家族がおどろくと、飛脚は先夜のことを話した。狼が老婆を食い殺して母に化けていたのであった。縁の下を見ると人骨がたくさん散らばっており、死んだ老母は大白毛の狼と化してしまった、というものである。そして崎浜には今も鍛冶屋の母の屋敷跡が残っているという。
 土佐の崎浜では「鍛冶屋の母を呼んでこよう」というのが、新潟では「弥三郎婆さんを頼もう」ということになっている。ここにおいても、弥三郎婆の伝説が鍛冶屋の母の伝説であることがはっきりする。

p.32
 こうした話からして、越後弥彦[やひこ]に伝わる弥三郎婆の伝承もまた鍛冶屋の母と縁由をもっていたことが推察される。それが弥彦神社の社家[しゃけ]で鍛冶職であったという黒津家の弥三郎から出発した伝承であるかは、はなはだうたがわしいとしても、黒津弥三郎なるものが実在していたとすれば、それと結びついたことはまちがいない。
 弥三郎婆が典海大僧正に発見された大杉(婆々杉)というのも、土佐野根山の産ノ杉を連想させる。たたらは子宮であり、鍛冶技術は産婦人科の技術と同じであるとエリアーデは言っている。たたら炉の穴から「湯」つまり溶けた金属が流れるのは、赤ん坊が産道を通って誕生するのと同じである。鍛冶屋の母が産婆の前進としての役割を果たしていたというのは、両者の親縁性をつよく意識していた未開人や古代人の発想によるものと思われる。


p.33〜34
 加賀の白山[はくさん]を開いたという伝承上の人物は越[こし]の大徳と仰がれた泰澄上人[たいちょうしょうにん]である。国上寺[こくじょうじ]もまた泰澄によって開かれたという縁起をもっている。現に国上寺の本堂には泰澄像が安置されている。ところで『日本高僧伝』の「泰澄伝」には次の挿話が記されている。
 国上寺で、ある信者が塔をつくったが、落雷のために3度もこわされてしまった。そこで4度目に塔が落成したとき、泰澄が塔のかたわらで法華経を読んだ。すると、一天にわかにかき曇り、雷鳴と稲妻がしきにしていたが、1人の童男が雲のなかから落ちてきた。童男をしばりあげると、涙を流して許しを乞い、「これまでこの国上[くがみ]山には地神がいたけれども、塔が立つと、そのいる場所がなくなってしまうので地神は自分に塔をこわさせた。しかし今、経文の力によって地神は去った。これから国上寺[こくじょうじ]の40里四方では、落雷がないようにする」と約束して、いましめを解いてもらった。この誓いは今にいたるまで守られている、とある。
 この話とそっくりな話が『今昔物語集』巻12に載っている。そこでいう神融[しんゆう]聖人とは泰澄上人のことである。
 ところで、多宝山や国上山をふくむ弥彦山塊のふもとの地方では、次のような話が残っていることを、藤田治雄氏は指摘している。
 弥彦の神はある日夕立に出合って、雨やどりをしようと走った。そのときウドの木につきあたって目を突いた。弥彦の神はとうとう一眼を失った。そのために弥彦の山中にはウドが生えず、また夕立が降らないという。このほか、弥彦の神が塩たきをしていると夕立が降ってきたので、神は怒って雷を叱った。それで弥彦山の付近には夕立がかからず、また雷も落ちない、という話もある。

p.36
 近藤喜博氏によると、奈良県北葛城[かつらぎ]郡河合村佐味田の宝塚古墳から出土した家屋文鏡[かおくもんきょう]には、鏡背[きょうはい]の図形に4個の家が鋳出[ちゅうしゅつ]されているが、その上空に雷光形の模様があり、その雷光形の内に小童[こわらわ]がうずくまっているのが認められるとし、近藤氏はこれを雷神の小童と解している(『日本の鬼』)。もしそうならば、雷神を小童であらわす考えは、きわめて古くからあったとみなければならない。

p.36〜37
 まず鍛冶屋と雷神とは深い関係をもっている。田村克己氏の『鍛冶屋と鉄の文化』によると、インドシナのレンガオ族は雷神を鍛冶屋のパトロンとみているという。また中国の青海省に住む土着民は、初夏に稲の苗が育ったころ、僧侶を招き、山で祈りをあげてもらうが、そのとき山羊を殺して皮をはぎ、その皮を柱に突き刺して神への供え物とする。そのいけにえの柱は、雷を呪縛し、収穫を守る目的のものであるという。
 このほか、ギリシア神話の一つ目の巨人キクロペスが、ゼウスの雷電をきたえる鍛冶屋であることは名高い話である。まえに、天から鍛冶屋の道具が降ってくるという話があることを述べたが、それも天上に鍛冶屋がいるという考えをもとにしているにちがいない。その鍛冶場ではすさまじい音と光を出すということから、雷鳴や稲妻とつなげて想像するのは当然のことである。

p.37
小人がきわめて腕のすぐれた鍛冶屋であるという伝承が世界各地にあることから、雷神小子は鍛冶屋としての小人であろうと私は考えている。
 ベヤリング・グウルドは『民俗学の話』の中で、小人は非常に器用な鋳金者[ちゅうきんしゃ]であり、ことに鋳刀師[ちゅうとうし]としてみごとな腕前をもつという伝承のあることに触れ、鍛冶屋を生業とする漂白集団が、こうした小人の伝承を各地にもたらしたのではないかと述べている。また、北欧やドイツでは鉱山の中でもっともすぐれた坑夫は小人であるという俗信も根強く残っている。
 北欧の神話のなかでは、小人はすぐれた鍛冶工とみなされていて神々のために盾・槍、斧などの武器を作ったといわれている。

p.37〜38
『日本書紀』の神武東征の条に、大和の葛城の高尾張というところに、「赤銅[あかがね]の八十梟帥[やそたける]」がいて、その土蜘蛛[つちぐも]がいて、その土蜘蛛[つちぐも]はまるで侏儒のようであったと記されている箇所が私の注意をひく。これはかつて銅鉱を掘り出して精錬する小人のように矮小[わいしょう]な集団があったという伝承を述べているのであって、鉱山に働く者や鍛冶を業とする者が小人であるという世界各地の伝承と共通である。

p.39
藤田治雄(「高志路」241号)
「国上の人びとが、国上寺のふもと部落へいく稚児道[ちごみち]というのがあって、今は草に埋れているけれども、国上寺の稚児僧が弥彦社へ通った道といわれている。この稚児道は、弥三郎婆や酒呑童子が出没して稚児をさらったと伝えられている」
 こうした話があるかと思えばまた、次の話も伝わっている。
「明治まで、この稚児の舞い(太太の舞)には稚児一人に一人ずつ裃[かみしも]姿の壮漢が太刀を持って守っていた。これは昔、鬼婆の襲撃に備えて、始められたことであるとかんがえられていた」
 以上の話に藤田氏は特別の注釈を加えてはいない。しかし私はここに本書の主題の鍵を発見する。私の興味をひくのは、
 第1、3月18日の弥彦の祭礼の日の前後に弥三郎婆が出没することである。
 第2、弥三郎婆と酒呑童子が並記してあつかわれていることである。
 第3、さらわれるのは国上寺の稚児であるということである。

p.39〜40
 毎年、3月18日に弥彦神社でおこなわれる祭りに、国上寺が行列を作って稚児を送り、神前で舞を奏させたという慣行は、延宝[えんぽう]9年(1681)という、江戸時代も早い時期に打ち切られてしまったというから、右の伝説が生まれたのも、そう新しい時期ではないと見ることができる。
 [略]
 ともあれ延宝9年を境として、国上寺と弥彦神社のきわめて古い関係は中断された。しかし、新しい神名と神格によって弥彦神社が支配される以前は、弥彦神はただ鍛冶神としての伝承をもちつづける無名の神にほかならず、国上寺とも密接なつながりをもっていたことが推定される。


p.40〜41
 さきの説話に見られる弥三郎婆と3月18日との関係は、弥三郎婆が鍛冶屋の母である以上、一向に不思議ではない。そして、弥三郎婆と酒呑童子とを混同するこの説話は、私に『御伽草子[おとぎぞうし]』に含まれている「酒呑童子」の中の次の一句を想起させずにはおかない。
  ……某[それが]しが古[いにし]へを語りて聞かせ申すべし。本国は越後の者、山寺[やまでら]育ちの児[ちご]なりしが……

 この一条の「山寺」が国上寺を指しているのは、ほぼたしかであろう。

p.41〜42
国上寺には酒呑童子にまつわる縁起とともに「酒顚童子[しゅてんどうじ]絵巻物」が寺宝として伝わっている[略]。縁起はあらまし次のような筋書のものである。 
 越後国砂子塚[いさごづか](現在の西蒲原郡分水町大字砂子塚)の城主である石瀬善次俊綱[としつな]は桓武帝の皇子桃園親王の家臣といわれ、桃園親王が越後に流罪に処せられたとき、その従者として寺泊[てらどまり]の港に上陸し、のち砂子塚に住んだ。さて俊綱にはなかなか子供ができないので、妻とともに信濃の戸隠[とがくし]山の権現に参拝祈願したところ、妻は懐妊した。子供は3年間も母の胎内にあってようやく生まれた。幼名を外道丸[げどうまる]と呼ばれたが、手のつけられない乱暴者である一方、ずばぬけた美貌の持ち主だった。
 両親は外道丸の乱暴ぶりを懸念して、国上山[くがみさん]国上寺に稚児として出し、仏道と学問の修行に励ませることにした。外道丸は国上寺ではおとなしくなったが、その美貌ゆえに多くの女たちに恋慕された。そうするうちに、外道丸に恋慕した娘たちは次々に死ぬという不吉な噂が立ちはじめた。そこで外道丸は、これまで貰っていた恋文を焼き捨てようと簞笥を開けたとたん、もうもうたる煙が立ちこめて、煙にまかれてたおれた。しばらく気を失っていた外道丸が起き上がると、そのすがたは、見るもむざんな悪鬼の様相になっていた。
 外道丸は呆然自失の体[てい]であったが、飛鳥のように身をおどらせて中天高く飛び上がり、信州戸隠山の方向を目指し姿を消した。そののちは丹波の大江山に移り住み、岩屋に立てこもって酒顚童子と名乗り、源頼光[みなもとのよりみつ]によって討伐されたという筋の話である。

p.42
 この話には注目すべき箇所がいくつかある。第1に、外道丸の父が桃園親王の従者として寺泊に上陸したということである。第2に外道丸の出生が戸隠山と関連して語られているということである。第3に外道丸が国上寺の稚児であったとされていることである。

p.42〜43
 国上[くがみ]山には酒呑童子の岩屋と称するものがあった。また国上寺[こくじょうじ]には、外道丸が自分の顔が悪鬼に変じたのを見ておどろいたという酒呑童子の姿見の井戸というのも残されていた。国上寺には酒呑童子の盃と称する木彫りの大杯も伝えられてきている。これらを見れば『御伽草子』にいう「山寺」が国上寺であることはまちがいない。

p.43
 ところで、地元では酒呑童子は分水町の砂子塚[いさごづか]で生まれたことになっている。現に砂子塚のある屋敷内にはひとむらの竹やぶがあって、そこを童子屋敷のあとと呼んでいる。「越後名寄[なよせ]」によると、童子の父母は何者か分からないといい、母の体内に16ヵ月もいて、生まれたとされている。生まれてすぐ物を言い歩くことができた。そのあと、国上山の稚児になるまえに、和納[わのう](現在の岩室[いわむら]村)に移ったといい、そこにも童子屋敷や童子田の名が残っている。

p.43〜44
 和納では楞厳寺[りょうごんじ]にあずけられていたという伝承がある。もと真言宗で今は曹洞宗に変わっている楞厳寺の縁起によると、村上天皇の第五皇子である桃井法親王は、従者とともに都を忍び出、北陸路を通って各地に転住し、さいごに越後の岩室村の和納に落ちついた。その御所のあとが今の楞厳寺であるとされ、応和3年(963)に桃井法親王が死去したあとは、寺の境内に紀州高野の土を運んで御陵を築いたといわれ、それは現在も残っている。
 私は外道丸の父が桃園親王の従者として寺泊に上陸したというのは、この楞厳寺の縁起に見られる桃井法親王の伝承と関連があるのではないかと疑っている。桃園という姓もよく似ている。つまり両者が混同して伝えられたのだと思われる。


p.46〜47
酒呑童子の配下である茨木童子[いばらきどうじ]の伝承が長岡市の北東の栃尾市に見られる[略]
 栃尾市に軽井沢というところがある。『栃尾市史』の中に紹介されている「温古の栞[しおり]」の文章によると、酒顚(呑)童子は、国上寺を追われてしばらくは、国上山の東稲葉の岩窟に隠れて里民をなやましていたが、そのあと古志郡軽井沢(現在栃尾市)に移った。
 そのころ古志郡茨木善次右衛門の家に生まれた茨木童子というものが、悪行[あくぎょう]を好んで村民に憎まれていた。酒呑童子はこの茨木童子と友人となり、大平山を棲み家として近辺を横行した。酒呑童子と茨木童子の双方の力に優劣はないが、酒呑童子は才智に長じていたので、茨木は酒呑童子と主従の約をなした。そののち、茨木は出生の土地をはばかって18人の家来をひきつれ、黒姫山(刈羽[かりわ]郡)に移ったが、さらに頸城[くびき]郡の賀風ケ嶽に居を転じ、三転して信濃国水内郡戸隠山にたてこもったが、最後に丹後の大江山を根拠地とし、酒呑童子の配下となって暴威を振るった、とある。


p.52〜53
 おそらく、海路をへて越後の寺泊の北に上陸した鍛冶技術の集団が、弥彦山塊の自然銅を採掘していた。彼らの奉斎する目一つの神は雷神を制圧する鍛冶の神にほかならなかった。古代においては鍛冶集団は、安産の呪術を持つと信じられた。狼もまた安産の守り神であるということから鍛冶屋の老母と狼とを同一視する伝説が生じた。それが千匹狼の話にほかならないが、弥三郎婆の伝説の原型もそこにあると私は推量する。そして弥三郎婆と酒呑童子の出生地のむすびつきが偶然でないとすれば、酒呑童子の物語にも鍛冶の伝承が反映しているとみなければならない。