以下、佐竹昭広『酒呑童子異聞』(同時代ライブラリー102、岩波書店、1992年)から引用です。

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鬼隠しの里 酒呑童子没後

p.146
  とかくしてほろぼしにける鬼が城 
(『時勢粧』第六)

 酒呑童子が死ぬと、今までは金銀珠玉に光り輝いていた壮大な楼閣も、美しい四季の景も、瞬時にして消え失せ、巌石峨々、荒涼たる原風景にかえった。

  抑童子は、鬼神の威徳自在にして、大磐石も所々の岩窟も皆心にまかせて、重々の楼閣となり、四季の美景も見えたりしが、童子滅て後は、宮殿楼閣、四季の会所、みな失て、本の岩屋となる。
(松平文庫本)


p.146〜147
 四季の景を配した金殿玉楼から荒涼たる原風景へという急転直下の変貌は、現在、より小さな規模においてではあるが、しかし、より本来的な意味を留めつつ、昔話「見るなの蔵」の結末部に伝わっている。

  ある秋の夕暮のこと、1人の旅人が野原のかなたに灯を見つけて宿を求めると、若い女が出てきて快くとめてくれた。広い家で、蔵が4つもあったが、他に家族も無いらしかった。座敷に通して御馳走をしてくれた後で、女は、これからちょっと使に行ってくるが、前に建っている蔵の左から3つまでは見てもいいが、右端のだけは見ていけないと念を押して出て行った。旅人は退屈になって、1番左端の蔵の戸をあけて見れば、中は海の見える夏の景色であった。次の蔵は秋景色、3番目のは寒い田舎の冬の景色であった。最後の蔵も見たくなり、約束を破ってついにあけて見れば、1本の梅の木があり、1羽の鶯がそこで鳴いていた。鶯は驚いて鳴くのをやめたが、旅人も外へ出ようとすると、声をかけて、傍に先の女が立っていた。女は悲しげに、あなたはなぜ約束を破ったのか、正体を見られた上はいたし方がない。自分は今まで楽しく蔵の中で鳴いていた鶯であると言ったかと思うと、女は鶯の姿となり、どこともなく飛び去った。同時に屋敷も蔵も皆消えて、旅人1人もとの野原の草の上に居った。
(『磐城昔話集』)

p.148
 新潟県栃尾市の「見るなの座敷」話(『雪国の夜語り』所収)では、右の主人公について、「男はウグイスのじょうどというとこへいったがんだてや」と説明を加えている。

  しんと静まる/\
  かくれ里米つく歌に猫の声
(元禄15年刊行『俳諧替狂言』)

という句にも示されているように、昔話「鼠の浄土」の古名が「〔鼠の〕かくれ里」であったことを想起すれば、「見るなの座敷」の「ウグイスのじょうど」は、「鶯のかくれ里」と呼び直してもさしつかえない。「人間のわざで住まれぬ大江山」(寛永頃俳諧連歌断簡)に、四季の景観を廃止、七珍万宝の贅をつくした酒呑童子の御殿も、異郷という目で見れば、まがうべくもない「鬼の浄土」であり、すなわち「鬼のかくれ里」であった。香取本の本文によると、谷川のほとりで血染めの衣を洗っていた白髪2百余歳の老女が、頼光の質問に対して、「此所は遥に人間の里を離れたり。……是へおはしつる道には岩穴のありつるぞかし。其穴より此方は鬼かくしの里と申所なり」と答えているが、「鬼かくしの里」という呼称こそ童子の住み処が「かくれ里」であったことを裏づけるものであろう。
p.148〜149
 いうまでもなく「かくれ里」は人界から隔絶した仙境である。鬼にもそんな仙境があったといえばいささか奇異に聞えるけれども、たとえば『貴船の縁起』に描かれた、鞍馬山の奥、「鬼国[きこく]の都」のごとき、同じく非の打ち所のない仙境であった。

  暗き所を十日ばかり行くとおぼしくて、明き所へぞ出でたりける。……これこそ父の大王の住み給ふ鬼国なれ、これより鬼国の都へはいまだ程ありとて、やう/\行くほどに、鬼国の都へ着き給ふ。くろがねの築地を高さ五丈ばかりに築かせ、遠さを見れば霞みつゝ、そのなかをはる/゛\行きて見れば、しろかねの築地を高さおなじく築かせせられければ、大王近く入らせ給ひける。しづかに宮のうちにしのびて入らせ給ふ。禁中の四方を、連れてしのびて見せられけり。まづ東は春遠くして、花のひらくもあり、散るもあり。さながら雪の空のごとくなり。南を見れば、夏にて、へい/\としげりて、ゆるぐ梢のすゞしきふぜひなり。西を見れば、秋の景と見えて、柳の一葉うち散り、風の音ひやゝかに吹きて、まことにすさましき[(ママ)]見えたり。さて北を見れば、冬の景気にて、木の葉うち散りて、山かげはうちしぐれ、また奥山よりも雪の降りくるてい、谷水の音も氷りて、申[(ママ)]ことに冬の心地す。
(荏野文庫蔵写本『神道物語集』所収)



p.151
 美女、富、不老不死、この3項目は、大江山の「鬼が城」にあっても完全に充足されていた。

p.153〜154
 かれの若々しさは、かれが童形の身であることと深く結びついていた。童形のしるしはその「かぶろ」頭にある。

  又遂に髪をも櫛らず、童形のありさまをあらたむることなし。さるによりて童子とは申すなり。
(『頼光一代記』巻五)

p.154〜155
 そのかぶろ頭が、特に鬼子の指標であったことは、いくつかの鬼子の出生譚に認められた通りである。左の話は仮名草子『仁勢物語』の第六段([略])。『伊勢物語』第六段を鬼子の出生譚にもじってある。

  おかし男[おとこ]ありけり。女の子にて生[う]ましかりけるを、腰をとらへて抱きわたりけるを、からうして生ませて、いと暗きに芥紙[あくたがみ]のやぶれなど敷きて草の上に置きたりける子を、かれは男か女子かと、男に問ひける。後のもの遅く、夜もふけにければ、鬼子とも知らで、髪さへいといみじう黒く、あたまも痛う振りまはりければ、あばらなるくらがりに、女をば奥に押し入れて、男湯をわかひてあびせをり。はや夜もあけぬに、この子大きになりて、鬼子、母を一口に食ひてけり。あ痛やと云ひけれど、鐘鳴るさはぎに得聞かざりけり。やう/\夜も明けゆくに見れば、生みし女も子も無し。あしずりをして泣けどかひなし。
  おのこ子かなにぞと人の問ひしとき鬼とこたへて斬りなましものを

 鬼子の恐ろしさを取り揃えて出したような話である。放って置けば鬼になるは必定、殺さずに寺へ送ってもただではすまないに決っている。

p.155
  そのもとは比叡山にあつて大師坊といへる人の稚児にて在しとなり。おのれと天狗道の術を学び得たりとて強力の稚児なり。されば山上の稚児法師など、己[おのれ]が心に随はざるものあれば、力に任せてこれを殺害す。或は経綸書籍等をぬすみ出して焼はらひ、或は僧坊をそこなひやぶり、あらぬ悪行超過し侍る故、一山の沙汰として終[つゐ]に是を離山せしむ。其後いづくに足をとゞむべき方もなく、かの洞[ほら]を尋出し、此中に住む事年久し。
(『頼光一代記』巻六)

p.155〜156
 どこかで聞いたような話ではあるが、弁慶とも酒呑童子とも実は別人、これまた頼光の手で退治された市原野の鬼童丸という狡童の生い立ちである。鬼童丸という名から推しても、異常な誕生ぶりがうかがえよう。[略]