以下、佐竹昭広『酒呑童子異聞』(同時代ライブラリー102、岩波書店、1992年)から引用です。

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捨て童子譚 伊吹童子と酒呑童子(二)

p.19〜20
 伊吹弥三郎と柏原弥三郎は同一人である。お伽草子『伊吹童子』に伝えられる弥三郎の最期と、『三国伝記』のそれとでは、あらためて較べてみるまでもなく、信憑性は後者の方がはるかに高い。とはいえ、『三国伝記』と史実の間には、1カ所だけどうしても気にかかる食違いがある。『吾妻鏡』に伝える柏原弥三郎誅伐の功労者は佐佐木信綱である。この勲功により、弥三郎の館地は信綱に賞与せられた(『近江蒲生郡志』巻2、第2編第4章佐佐木信綱)。しかるに『三国伝記』は、弥三郎誅伐の主人公を「当国守護佐々木備中守源頼綱」と伝える。『湖路名跡志』も「中古佐々木備中守源頼綱、伊吹弥三郎を誅」したと伝えている(『近江伊香郡志』下巻、第9章社寺篇)。『続群書類従』系図部「佐々木系図」を手もとに、信綱と頼綱の続きがらを要約すると、
 
  定綱――【四男】信綱――【三男】泰綱――【二男】頼綱

のごとくで、その間2代の隔りがあり、頼綱の生存期間(1244―1310)は、とうてい柏原弥三郎誅伐の建仁元(1201)年に結びつかない。『三国伝記』の頼綱説は史実に徴して容認しがたいのだ。しかし史実に照して正しくないということは、それがいかなる真実をも含んでいないということではない。史実の信綱が、あえて頼綱と伝えられるにいたった背後には、きっとそれ相応の必然性があったのだと思う。簡単に誤伝とか改竄としてしりぞけられてはならないであろう。

p.20
 お伽草子『伊吹童子』によれば、弥三郎の胤を宿した大野木殿の姫君は、33カ月目に見るも恐しい怪童を生んだ。胎内にあること33カ月といえば、承平・天慶の乱を起した平将門と同記録(『法華経直談鈔』一末)であるが、この怪童こそ伊吹童子こと後の大江山酒呑童子であった。


p.23
  小角生時。握‹›一枚之花‹›出胎。生而能言。其母愕然曰。此児鬼神也。棄‹›之於山林‹›。雖‹ㇾ›経‹›数十日‹›無‹›衰色‹›、無‹›飢色‹›。狼狐不食之。却守護。于時大和之商人行路之次観之。則抱取之帰家字[ヤシナフ]‹ㇾ›之。
(『役行者顚末秘蔵記』)

p.23〜24
とりわけ皮肉な例は、頼光と共に酒呑童子の誅伐に従った平井保昌についてのそれであろう。延喜帝の世。元方民部卿の家は、ながらく嫡子に恵まれなかった。しかし、仏神に祈願をこめた効験あって、程なく若君を授かった。若君4歳の秋、元方卿はその子を呼び寄せ、膝の上に置いてじっと顔を注視していたが、「これは家を継ぐべき者ではない。心根はきわめて不敵、山野に交わるべき不吉な相がある。家を譲れば、さだめて世のそしりを受けるようになる」と、ただちに家臣に命じて荒血山の奥、深い谷底へ捨てに行かせた。捨て去られた若君は、仏神三宝の加護によって、猛獣さえもかれを害しようとはしない。ある朝、比叡山に住む狩人が、谷底からこだましてくる叫び声を聞きつけて若君を発見し、連れ帰って養育につとめた。若君は成人するにつれ武名天下にとどろき、帝に召されて勲功をあらわした。これが丹波守保昌であるという(妙本寺本『曾我物語』巻2)。


p.25
 山中の虎狼野干とは、すなわち山の神の使令であり、さらには山の神そのものを意味するなかでも、特に狼は山の神としてもっとも崇敬された動物であった。お伽草子『をこぜ』の奈良絵本には、山の神の姿を狼の絵で描いたものがある。全国の各地には、今も「狼の子育て」「狼の産養い」「狼の産見舞」などを信じ伝えているが、狼はなぜか産育に深い関係のある動物と考えられてきた。一方、山の神は古くから女身であるとも信じられていた。山の神に対する人びとのイメージには、しばしばこの2つが混在している。したがって、山中の虎狼にかしずかれて育った子どもの話は、さながら後世の金太郎によって代表される「山姥の子育て」と重なり合う。そうしてこの「山姥の子育て」こそ、霊山にまつわる貴い神子誕生の神話へまでもさかのぼりうる伝承であった。
 霊山には、遠い古代から山の神の産育に関する信仰が伝わっていた。霊山のあるところ、厚く山の女神が尊崇され、神子誕生の伝承が信じられていた。中世にはこうした山中誕生のモチーフがいろいろな形をとって現われている。
p.25〜26
 いまわしい鬼子を山奥に捨てたところが、山の動物に守られて、いよいよ強く育ったというモチーフは、山中異常誕生譚の一類型としてとらえるべきである。捨てられた鬼子がただひとり山中で生育するという筋立ては、並はずれた威力を発揮する英雄の生い立ちを説明するのに、たいへん似つかわしい。

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p.26
 不思議な誕生をした子どもが深山に捨てられ、山の動物に守護されつつたくましく成人し、威力を世に振るうというモチーフは、中世口承文芸の典型的な一類型であった。この類型を、山中異常誕生譚「捨て童子」型と命名することができよう。伊吹童子、役行者、武蔵坊弁慶、平井保昌、かれらはおしなべて山中の「捨て童子」だったと言える。

p.26〜27
 伊吹山中の「捨て童子」は、後の酒呑[しゅてん]童子である。シュテン童子の前身を「捨て童子」だったとするお伽草子『伊吹童子』は、シュテン童子なる者の原像をはからずも露呈しているかのようだ。たとえ室町時代にシュテン童子が一般には、

  さて御名を酒呑童子と申し候は、何と申したるいはれにて候ぞ。わが名を酒呑童子といふ事は、明暮酒を好きたるにより、眷属どもに酒呑童子と呼ばれ候。
(謡曲『大江山』)
  かの鬼、常に酒を好む。その名をよそへてしゆてんどうじと名付けたり。
(渋川板『しゆてん童子』)
  このちご(伊吹童子)酒を愛して飲み給ふよし聞えしかば、世の人しゆ天どうじとぞ名づけける。
(『伊吹童子』)

のごとく、「酒呑童子」の意で解されていたことは事実であっても、しかしこれらはむしろ原義を忘れた2次的3次的な意味づけだったのではなかろうか。シュテン童子の原義を「捨て童子」として把握しなおすならば、鬼子が山中に捨てられ、大きく育って鬼となり、暴威を降るうに至る筋道は、きわめて無理なくたどられる。


p.27〜28
大江山酒呑童子系の諸本、謡曲『大江山』などに、怪童が山に捨てられたという一件は見いだされないけれども、くだって『前太平記』、

  サレバ彼本姓ハ越後国、何某ノ妻胎メル事十六箇月ニシテ産ニ臨ム。苦ム事甚クシテ、終ニ不産得、悶エ死[ジニ]ケリ。母死テ後、胎内ヨリ自這出テ、誕生ノ日ヨリ能歩ミ言事、四五歳計ノ児ノ如シ。諸人怪ミ不恐ト云者ナカリシカ共、父子ノ恩愛難捨テ、五六歳ニ成マデハ育置シガ、其為人不尋常、戯遊ブ正ナ事マデモ更ニ人間ノ所為トモ不見ケレバ、父モ流石恐シク覚エテ、遂ニ幽谷ノ底ニ棄テゲリ。サレドモ狐狼ノ害モ無ク、木実ヲ喰ヒ、谷水ヲ飲テ生長シ、其長八尺有余ニシテ、力飽マデ逞シク、然モ外法成就シ、或ハ陸地ニ人ヲ溺シ、或ハ空中ニ身ヲ置、様々ノ術ヲ成ス。
(巻20、酒顚童子退治事)

のような話から、「捨て童子」説話の存在は察知しうると思う。

p.28
「捨て童子」という原義は、時の経過とともに忘れられ、語形もくずれてシュテン童子と転訛し、「酒呑童子」の意味に付会された。シュテン童子の由来を、大酒によって説明した前引の諸例は、この主人公に対する新しい意味づけが、おおむね完了していたことをあらわしている。


p.29
 伊吹弥三郎は八岐大蛇を祀る伊吹大明神直系の子孫だったのだから、かれの大酒は当然であった。
 弥三郎の大酒と大江山酒呑童子の大酒、2人は大酒飲みという点で一致する。大酒飲みという意味でなら、弥三郎もまた立派な酒呑童子である。この一致を不用意に見のがしてはならない。両人の間には、他にも重要な一致点が指摘されるからである。酒呑童子は大江山の凶賊であった。弥三郎は伊吹山の凶賊である。山中の凶賊である点、両者は一致している。酒呑童子は源頼光の討伐に逢って退治された。弥三郎は、史書によれば佐佐木信綱に誅伐された。勇士の誅に服したといいう点、両者は一致している。3項にわたる両者の共通性が示すもの、それは弥三郎における歴然たる酒呑童子的性格である。
 大江山酒呑童子伝説が、一方では伊吹山における事件としても伝えられた積極的条件は、弥三郎の酒呑童子的性格に求められる。本来ならば、この弥三郎こそ伊吹山の酒呑童子というにふさわしい人物であった。お伽草子『伊吹童子』が、弥三郎と伊吹童子を親子に分けて物語っているところは、大江山の酒呑童子と結合させる必要から生じた、物語作者の作意と解すべきであろう。

p.30
 大江山の酒呑童子に相当する凶賊が、伊吹山において、正しくは伊吹の弥三郎であるなら、頼光に相当する武将はさしずめ佐佐木信綱でなければならない。ところが史実に背いて、『三国伝記』は年代的に相容れない佐佐木頼綱を弥三郎誅伐の武将としていた。いつの間にか信綱が頼綱にすり替っているのだ。この疑問は、酒呑童子に酷似する凶賊を退治した武将が、おのずから源頼光に擬せられているという可能性を参照すれば氷解すると思う。『三国伝記』の伝える近江国守護佐佐木備中守「源頼綱」という人名に注目しよう。頼綱の字音ライカウは、頼光の字音ライクヮウにきわめて近い。頼光に擬せられうべき凶賊退治の武将の名として、頼綱[らいかう]の方が、信綱よりはるかに直接的に頼光[らいくわう]を連想させる。柏原弥三郎討伐の武将は源信綱であったが、伝説化した伊吹弥三郎退治の英雄は、「源頼光」への連想を伴う「源頼綱」でなければ、一般に受けいれられなくなってしまったのであろう。後に岩瀬文庫本、大東急文庫本、龍谷大学叢書本などの系統の物語があらわれて顕在化した伊吹山酒呑童子退治の伝説は、こうして『三国伝記』以前、すでに形成されつつあったのである。


p.30〜31
 大江山から伊吹山へ、舞台の移動を可能にしたもう1つの要素として、地名の共通性という問題も考慮されていい。酒呑童子の住みかについて、大江山系の本文には、大江山の「せんちやうかいはや」(慶応義塾大学蔵『しゆてん童子』)と伝え、伊吹山系の本文には、伊吹山の「せんちやうかたけ」(大東急文庫本)、「千町か嶽」(岩瀬文庫本)と伝え、期せずして一致している。「せんちやう」は、おそらくは「禅定[ぜんじょう]」の意であろう。「禅定」とは高山の頂上を意味する修験道関係の語彙である。修験道の修法が、「白山禅定」「富士禅定」「立山禅定」などと称して、霊山の頂上で行われたところから、「山頂での修行」「山頂への登攀」「霊山の頂上」の意を、この語はになうようになった。[略]

p.31〜32
 伊吹山に修験の「禅定」のあったことは、前引『三国伝記』の「伊吹ノ禅定」という一句がはっきり示しているが、『近江名所図会』4(文化11年刊行)伊吹山の部に、

  伊吹禅定六月の中[うち]土用に登る。山中に先達あり。山頂には石を畳み小洞を築く。霊場其中にありといふ。

と「伊吹禅定」のことが見え、その存在は疑いを残さない。大江山の「禅定」についても、『役行者本記』(小角経歴分第4)に、役行者の踏破した山の1つに丹波大江山があげられていること、あるいは鷺流狂言『蟹山伏』(朝日古典全書『狂言集』所収)の冒頭、

  これは丹波の国大江山より出でたる駆け出の山伏です。

と号する山伏のせりふなどを通して、修験道の霊山であったことは明白であるから、これも疑う余地はない。

p.32
 大江山、伊吹山は、修験道の霊山として「禅定」の名を有する山頂をもち、その共通性によって、大江山の伝説はいっそう無理なく伊吹山のそれと結合しえたのかもしれない。少くとも右の共通地名が、大江山と伊吹山を架橋する1つの要素として参与したであろうことは想像できる。