以下、佐竹昭広『酒呑童子異聞』(同時代ライブラリー102、岩波書店、1992年)から引用です。

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弥三郎風 伊吹童子と酒呑童子(一)

p.2
 元和7(1621)年11月21日のことである。近江国一帯に大風が吹いて、山間部は少からぬ被害を生じた。近江源氏佐々木氏日記『江源武鑑』(全18巻、明暦2年刊)は、この大風について次のような記録をとどめる。

  廿一日。大風近国ノ山木半吹倒ス。弥三郎風ト云。
(巻18、64オ)

 当日の大風を、世人が「弥三郎風」という名で呼んでいる事実に注目したい。[略]


p.3
 弥三郎という人物は、近江国伊吹山を中心とする口碑の主人公であった。伊吹山中のあちこちには「弥三郎の蹴鞠場」「弥三郎の庭」(『近江国輿地志略』巻之八十一)、「弥三郎の泉水」「弥三郎の百間廊下」(『改訂近江坂田郡志』第二巻)などと称する場所があり、また山麓の原野には6、7尺の凹地のあるところを「弥三郎の足跡」(同上)と言い伝えている。
 お伽草子 『伊吹童子』(絵巻物三巻、東洋大学蔵、岩波文庫『続お伽草子』所収)によれば、弥三郎とは、「伊吹の弥三郎」と呼ばれた大変化の者であった。

  この弥三郎殿は野山のけだものを狩りとりて朝夕の食物とし給へり。もしけものを得ざる日は田夫野人の宝とする六畜のたぐひ、たき木を負へる馬、田をたがへす牛などを奪ひ取り、うちころしなどして食しける有様、鬼神といふは是なるべし。のちには人をも食ひ給ふべしとて、見聞きし程の者、皆々所をすてゝ四方へにげ散りし程に、伊吹の里の近きあたりは人住まぬ野原とぞ成りにける。

p.3〜4
 物語は、右のようにまず伊吹の弥三郎という世にも猛く恐るべき人物を紹介し、次いで1つの求婚譚へと展開する。
  そのころ、同じ近江の国に大野木殿という有徳人が住んでいた。かれには当年16歳になる美しいひとり娘がある。この姫君のもとへ夜な夜な通ってくる男のあることを、たれも気づかないうちに、いつか姫は身ごもってしまう。驚いた乳母が問いただすと、何人ともあさだかには知りがたいけれども、「そのありさまけだかき人」が夜ごとに訪れてくるという答えである。乳母から事情を聞いて、母親は、おそらく変化のものに違いない男の正体をあらわすために、針のついた苧環[おだまき]を娘に渡し、男の衣のすそに縫いつけさせる。朝になって、帰って行った男のあとを、糸をたよりにたどってみると、垣の穴から外へ通じ、伊吹山のほとり、弥三郎の家に至っていることがわかる。かねて常人ではないと聞いていた弥三郎のしわざである以上、父大野木殿もおろそかに扱うことはできない。その晩は姫君のもとへ山海の珍物を贈って、夜もすがら好物の酒をもてなさせる。弥三郎は、胎内の子どもが尋常ならざる能力を備え、国の主ともなりうる男子であることを娘に予言する。酒を過して伊吹へ帰った弥三郎は、この大酒がもとで死ぬ。33ヵ月ほど経て、姫君には異様な男子が生れた。名前を伊吹童子と呼ぶ。

p.5
 右は上巻から中巻の初めにかけての荒筋であるが、伊吹童子の誕生に関する求婚譚が、一見してほとんど完全な蛇聟入苧環型を示していることは、あらためて説くまでもないであろう。

p.8〜9
 お伽草子『伊吹童子』以前、弥三郎についての記録は『三国伝記』 (1407年成、全12巻)に見いだされる。

  和伝。近江美濃両国ノ境ニ伊福貴ト云太山アリ。……近曾彼ノ伊福貴山ニ弥三郎ト云フ変化ノ者栖ケリ。昼ハ崔嵬畳嶂洞壑ニ住シテ、夜ハ関東鎮西ノ辺境ニ往還シ、人家ノ財宝ヲ盗奪ヒ、国土ノ凶害ヲ成ス事不‹ㇾ›斜ナラ、天下ノ大ナル愁ヘナル故ニ、当国ノ守護佐々木ノ備中ノ守頼綱ノ卿ニ、勅命ヲ下レテ分国之狼藉可‹ㇾ›令‹›対治‹›云々。頼綱任‹›宣旨ニ‹›、嶮難ノ嶺ニ分入テ伺‹›彼者ヲ‹›。是ニ存カトスレバ忽焉トシテ移リ‹二›他郷ニ‹一›、適此ノ山ニ有ル時モ、本ノ栖家ヲ捨去テ、人倫都テ不‹ㇾ›通龍池ノ辺ニ隠レケリ。サル程ニ治罰已ニ延引シテ両年ヲ過シタリ。爰頼綱思ケルハ、彼ノ盗跖ガ巨悪、柳下恵ガ大賢ナリシモ不‹ㇾ›罰セ。丹朱ガ不肖ヲバ唐ノ尭帝大聖モ難‹ㇾ›治。彼等ハ父子兄弟ノ間ナリシスラ尚如‹ㇾ›此。何況ヤ雲泥交ヲ隔タル野心違勅ノ悪党ヲ打捕[トラン]事、豈輙[タヤスカラン]哉。雖‹ㇾ›然若シ彼ヲ遁シタラバ、一身ノ不覚万世ノ口遊ミタルベシト思ヒ入テ、摩利支天秘法ヲ伝ヘ、隠形ノ術ヲ修シテ、彼ノ盗賊ヲ伺フニ、高時河ノ河中ニシテ近付会ヒ、忽ニ彼ヲ誅戮シ、四海ノ白浪ヲ静メ一家ノ名誉ヲ播[ホドコ]セリ。其ノ後彼ガ怨霊毒蛇ト変ジテ、高時川ノ井ノ口ヲ碧潭ト成シテ、用水ヲ大河ニ落シタリ。是ニ依テ多ノ田代枯潑シテ、青苗黄枯レ、飲水忽ニ尽、民間悉ク窮渇セリ。人無‹二›九年畜‹一›、飢饉死亡ノ者其ノ数ヲ不‹ㇾ›知。依テ‹ㇾ›之ニ其ノ所ニ祠ヲ建テ、悪霊ヲ神ト崇メ、井明神ト号ス。礼典ヲ儲テ致ス‹二›如在儀‹一›。故ニ生テノ怨モ死シテノ歎ト毒心ヲ改メテ井ノ口ノの守護神ト成リタマフ。所以[コノユヘニ]風雨随‹›天ノ時ニ‹›、水津潤セリ‹›地利ヲ‹›。然ニ九夏三伏ノ比、猶一年ニ一度、夏の頃、伊吹ノ禅定ニ上リテ、昔ノ跡彷徨。其ノ時ニ晴天俄ニ曇テ、霹靂空ニ動ヒテ凍霰地ニ降ル。見ル者アハヤ例ノ弥三郎殿ノ禅定ニ通ヒ給フハトテ、惶怖セズト云フ事ナシ。
(巻六ノ六、飛行上人ノ事、伊吹弥三郎殿事)

p.9
 弥三郎の本性の蛇体であったことは、殺されてから身を毒蛇に変じたというくだりが証明している。その本貫が伊吹山であったことも、かれが死後なお年に1度伊吹の禅定へ通ったという内容をもって裏づけうる。お伽草子『伊吹童子』の所伝と、なかんずく大きく相違するところは、もっぱらかれの死に関する部分である。


p.10
『北条九代記』巻2「柏原弥三郎逐電」(全12巻、延宝3年刊行)

  近江国ノ住人柏原弥三郎ハ、故右大将家ノ御時ニ西海ニオモムキ抜群ノ働アルヲモツテ、平氏滅亡後勲功ノ賞トシテ、江州柏原ノ荘ヲ賜ハリ、京都警衛ノ人数ニ加ヘラレ、仙洞ニ候シテ、奉公ヲ勤メケル所ニ、恣マヽニフルマフテ法令ヲ破リ、神社ノ木ヲ伐リ、仏寺ノ料ヲウバヒ、公卿殿上人ニ無礼緩怠ヲイタシ、シバ/\帝命ヲソムクコト重々ノ罪科アリ。加之オノガ領地ニ引コミテ鹿狩川狩ヲコトトシ、百姓ヲ凌礫スルヨシ、院宮ハナハダ悪くミ給ヒ、頭弁公定朝臣奉行トシテ弥三郎追罸ノ宣下アリ。佐々木左衛門尉定綱飛脚ヲモツテ鎌倉ニ告申ス。同十一月四日、将軍家ヨリ畏マリ申サレ、渋谷次郎高重、土肥先次郎惟光ヲ使節トシテ手ノ郎等ヲ引率シテ上洛ス。カヽル所ニ、関東ノ左右ヲモマタズ、京都伺公ノ官軍四百余騎江州ニ押ヨセ、柏原ノ荘ニ至リ、彼ノ館ニ向ヒシニ、三尾谷十郎夜ニマギレテ先登シ、館ノ後ノ山間ヨリ閧ノ声ヲ発セシカバ、弥三郎オソレマドヒ、妻子郎従モロトモニ館ヲ逃テ逐電ス。ソノ其行ガタヲ尋ヌレドモ更ニ聞エズ、関東ノ両使ハソノ詮ナク、押返シテ下向アリ。官軍モマタ寄カケタル甲斐ナシ。三尾谷ガ所行更ニ軍事ノ法ニ非ズ。柏原ヲ取ニガシタリ。サダメテ関東ノ御気色、仙院ノ叡慮ヨロシカルべカラズト思ハヌ人ハナカリケリ。サレドモ別ニ仰セ出サルヽムネモナケレバ、何トナク静マリヌ。

p.11
 柏原弥三郎討伐は史実である。『北条九代記』は、その主な史料を『吾妻鏡』に仰いでいる[略]






p.16〜18
(3)柏原弥三郎の誅伐以後数百年、史実の凶賊から伝説の鬼神へと変貌し、事あるごとに里人を震撼させた数多の弥三郎伝説のなかには、つぎに引くような異聞もあった。仮名草子『日本二十四孝』(寛文5年刊)第14、山口秋道事の項に挿入された弥三郎伝説である。
  さて又、近江の国伊吹山に弥三郎と云ふ者あり。其身は鉄のごとくにて、力は千人が力にも超えつべし。国中の者ども是を怖ぢて鬼伊吹とぞ申しける。然るに此伊吹、東国北国より大内へ奉る御調物を中にて奪ひ取りしかば、御門はかの伊吹を退治せんとし給ふに、この伊吹、切るをも突くをも痛まず。まして射る矢もその身に立たず。その上、山野を走る事、飛ぶ鳥の如し。さていかにしてかこの伊吹を平げんと公卿僉議ましまして、近国の兵を召され、この伊吹討ち取て奉るものならば、勲功勧賞[けじよう]あるべしと宣旨を下し給ひけり。こゝに同国に三上[みかみ]とは聞えし兵法達せし大剛の者あり。この人優なりし娘を一人持てり。しかれば彼伊吹たび/\来りて娘を所望せしかば、三上はこの伊吹を討たんため、娘を伊吹に取らせけり。その後、娘を呼び寄せ、伊吹が身のありさまを尋ぬるに、娘語りていはく、人の膚[はだへ]とおぼしき所は右左脇の下より外になしと云ふ。三上はこれを聞き、はかり事をめぐらし、よろづの大石を集め、庭を作らせ、中にもすぐれたる石二つ三つ、庭のまん中に直しかねたる体にて引きすてて置きつつ、伊吹を請[しやう]じ入れつつ、山海の珍物をとゝのへ、伊吹をもてなし、酒をすゝめける。酒も半ばの事なるに、伊吹庭のけしきをきつと見て、面白と作れる庭かな、さてこれなる石をば何とてかくては置き給ふらんと云ひしかば、三上申すやう、あなたへ直したくは候へども、あまりに石が重き故、さてかくて候ふと答ふ。伊吹聞きて、あらことごとしや、あれほどの石をば飛礫にも打つべくは候へ。さらば直して参らせむと云ふままに、座敷を立つて鎧を脱ぎすて、広庭に飛んで下りたりけり。頃は水無月半ば、暑さは暑し、酒には酔ひぬ、日頃の用心もうち忘れ、左右の肩をひん脱いで、小山のやうなる大石を宙にずんと差し上げたり。三上この由見るよりも、あはやここぞと心得て、伊吹が左の小脇を右へ通れとかつぱっと突く。伊吹きつと見て、すはやたばかれたる口惜しさよと云ふまゝに、持ちたる石を投げ捨て、三上を取らんと飛んでかゝる。叶はじとや思ひけん、後[うしろ]さまに八尺築地を躍り越え、行方しらず逃げ失せたり。伊吹大きに怒って、我が女房をば八つ裂きにして投げ捨て、雷の激する如くに屋形のうちを鳴りまはり、女わらんべともいはず、当る物を最後に踏み殺し、ねぢ殺し、多くの人を亡ぼして、その身は門に立ちすくみ、居なり死[じに]にぞ死したりける。三上、伊吹が首をとり、大内へ捧げたりしかば、御門御感に思し召して、官も禄も望みのまゝに成し下し給へば、三上は栄花をきはめけり。
一篇のお伽草子に仕立てれば、結構まとまりのよい『あきみち』型の作品が出来そうな説話だが、お伽草子としての存在を聞かない。

p.18
(補注)弥三郎に対する大野木殿の殺意は大英博物館蔵『伊吹童子』(絵巻3巻)に明記されていた。
  さるほどに大野木どのはこのよしをきこしめし、大きに驚き給ひ、……いかにもしてこれを害せばやとおぼして、ひそかにはかりことをめぐらし、……色々の珍物をとゝのへ、さま/゛\にもてなし侍けり。
  〔弥三郎ハ〕さしも大上戸なりしが、ともかくおびたゝしき事なれば、正躰もなく飲み酔ひ、跡も枕もわきまへず、そのまゝ座敷に倒れふしたり。運のきはめこそ無慚なれ。大野木殿は、たばかりおほせりと勇み喜びつゝ、脇の下に刀を突き立て、あなたへ通れとさしこみて、わが舘にぞ帰られける。
 [略]1989年7月刊、新日本古典文学大系『室町物語集 上』に全文収録(沢井耐三校注)成る。