以下、五来重『鬼むかし』(角川選書、1991)から引用です。

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瘤取り鬼と山伏の延年

一 「瘤取り鬼」と山伏

p.166
 まずこの昔話の題名に問題がある。この話の主人公は鬼であるから「瘤取り鬼」といわなければ理に合わない。『宇治拾遺物語』も「鬼にこぶとらるゝ事」という題をつけている。したがって爺さんを主人公とすれば「瘤取られ爺さん」なのである。



二 「瘤取り鬼」のモチーフ

[略]


三 木の洞と鬼の出現

p.174
方言のウトを見ると、古木の空洞を指すところは、岩手県、岐阜県、三重県、奈良県、和歌山県、岡山県、徳島県等に分布し、すべて中空なるものをウトというところもすくなくない。洞穴をウトという方言は青森県、秋田県、福島県、徳島県、高知県、大分県、宮崎県などで、狭い谷をよぶところは、長野県、岐阜県ぐらいである。したがってウトはなにか霊が出現しそうな洞穴や狭い谷をいうもので、単に地形だけの名称ではないようである。そうすると、ウトウ坂は大声で歌いながら通らないと魔物が出る、という伝承も、ウトから来ていることがわかる。もっとも鬼気迫る謡曲に「善知鳥[うとう]」があるが、これも「うとうやすかた」と鳴くという呼子鳥[よぶこどり]から来た曲名ではなくて、立山地獄で亡霊の出現する洞穴、また狭い谷から来た名ではないかとおもう。



四 鬼の酒盛りと踊と咒師
p.176
 「瘤取り鬼」のモチーフの(三)は鬼が酒盛りをすることで、(四)は鬼が踊ることである。この2つのモチーフは(二)の木の洞よろみ必須のモチーフで、これを欠く話はない。これは鬼は酒が好きだからとか、踊が好きだからでは片付けられない重要性をもっている。その理由は原話にあたる『宇治拾遺物語』にさかのぼることによって解明されるのであって、その酒盛りと踊には厳粛な作法があったことがわかる。


p.177〜178
 私はこの(三)のモチーフがこの昔話の成立にはとくに大事だとおもうので、『宇治拾遺物語』を引いておくことにする。ここで「むね[(宗)]とあるとみゆる鬼」とあるのは座の主、すなわち座主[ざす]であり、「よこ座」というのは主人公の坐る座で、正面の最上席である。
  むねとあるとみゆる鬼、横座にゐたり。うらうへ[(左右)]に二ならび[(列)]に居なみ[(並)]たる鬼、数をしらず。そのすがたおの/\いひ[(言)]つくしがたし。酒まゐらせあそぶ有様、この世の人のする定[ぢやう]なり。たび/\かはらけはじまりて、むねと[(宗徒)]の鬼ことの外にゑひたるさまなり。すゑ[(末)]よりわかき鬼一人立[たつ]て、折敷[をしき]をかざして、なにといふにか、くどき[(口説)]くぜ[(口舌)]ゝることをいひて、よこ座の鬼のまへにねりいでゝ、くどく[(口説)]めり。横座の鬼、盃を左の手にもちて、ゑみ[(笑)]こだれ[(弛緩)]たるさま、たゞこの世の人のごとし。舞て入ぬ。次第に下よりま[(舞)]ふ。
 この酒宴と舞踊の作法は、延年芸能をのこした各地の郷土芸能(神楽・田楽・猿楽・舞楽・延年等)によく見られる作法である。その一班については、拙稿『長瀧六日祭延年と修験道』(講座『日本の民俗宗教』6・昭54年、弘文堂)にのべたが、とくに「次第に下より舞ふ」とあるのは、延年特有の「順の舞」である。これを「ズンの舞」と読むのも全国一般なので、延年の作法はどこかに中心があって、全国の諸大寺や修験道の社寺にひろまり、ひいては村落の社寺の「おこない」(共同祈願)にもおこなわれる
ようになったものと、私は想定している。

p.180
「鬼にこぶとらるゝ事」のさきの引用文に、「すゑ[(末)]よりわかき鬼一人立[たつ]て、折敷[をしき]をかざして」とあるのも、おそらく現在の各地の山伏神楽のレパートリーに多い「折敷の舞」だったにちがいにない。これは左右の両掌[てのひら]に水平に折敷(小さな神膳)をのせ、これに一つかみずつの白米を積み、両手をひろげたまま頭からでんぐり返しを打って向うへ立つ。しかも米一粒もこぼさないのを誇りとする。



五 鬼と霊物と眷属

p.182
 自然神観で鬼を霊物としたのは空海の『性霊集』(巻二)で、「沙門勝道、山水を歴[ゆ]きて玄珠を瑩[みが]く碑」に、
  蘇巓鷲嶽[そてんじゅがく]は異人の都[を]る所、達水龍坎[たっすいりゅうかん]は霊物斯[これ]に在り。異人の卜宅[ぼくたく]する所以[ゆゑん]、霊物の化産[けさん]する所以[ゆゑん]なり。豈[あに]徒然[いたづら]ならんや。
とある。異人を仏菩薩とし、霊物を「尊く不可思議な物」などと註釈した本もあるが、異人は超人的な鬼や天狗のことであり、霊物(魑魅[ちみ])も鬼、天狗、河童、龍などのことであろう。すなわち蘇迷路[そめいろ]山(須弥山[しゅみせん])や霊鷲山[りょうじゅせん]のような高山、あるいは阿耨達池[あのくだつち]や龍穴のような深壑[しんがく]には、異人が好んで住み、霊物が出現する、という文意である。これらを霊物と名づけたのは、中国古典の出典があるかもしれないが、昔話の霊物怪異談にはぴったりの用語である。


p.183
宗教民俗学では、深山の奥や地獄谷とよばれるような深い谷には、「山中他界」と名付けられる死者の霊魂の卜宅する世界があって、その霊魂が目に見えない隠[おに](鬼)として化産するとかんがえる。したがってこうした鬼は荒れてたたりをすることもあるし、恩寵を与えることもある。このような人格的霊物が「瘤取り鬼」の鬼であるが、普通鬼、天狗は山神の化身として礼拝される。修験道(山岳宗教)の山ならば、例外なしにかならず鬼もしくは天狗をまつるのは、それが山神の化身だからである。大峯修験道では役行者の従者としての前鬼、後鬼を崇拝するが、九州の求菩提[くぼて]山中宮には鬼神社があって、他の堂舎が廃滅したのに、その建物と鬼面、天狗面などは健在である。厳島の弥山[みせん]頂上の三鬼[さんき]大権現もいまだに絶大な庶民信仰をあつめており、京都の鞍馬山は『扶桑略記』(延暦15年条)に鬼神がおったと書かれ、前後の文脈から山神であったことがわかる。いま天狗、魔王尊として庶民信仰の対象となっているのはこの鬼神である。




六 蓮華会と延年

p.185〜186
山伏が出峰してして験競をおこなう儀式を蓮華会[れんげえ]というが、このとき入峰中の慰労のための酒盛りと、これにともなう芸能歌舞がおこなわれる。この酒盛りと歌舞を合わせて「延年遐齢[かれい]の興」とよぶのである。延年は舞だけだとおもっている専門家もいるが、仏教の延年は神道の直会[なおらい]とおなじで、かならず御馳走が出て無礼講の酒盛りになり、その余興に歌い踊り、即興舞にも種々の趣向をこらした。これが日本の民間芸能を発達させたもので、現在、郷土芸能といわれる神楽、田楽、猿楽、舞楽等は、神社でおこなわれるものでも、ほとんどすべてが神仏習合時代の延年の一部がのこったものと、私は主張している。

p.186
 蓮華会とよばれる延年は、隠岐の国分寺や鞍馬の竹伐[たけきり](験競)、吉野の蛙跳[かえるとび]、羽黒の花祭[はなまつり]、などにのこっているが、いずれも夏の峰入修行の出峰[しゅつぶ]蓮華会である。しかし神社や寺院で修正会[しゅしょうえ](正月の初祈禱)の結願にも、慰労の酒盛り延年がひろくおこなわれていたから、現在のこる郷土芸能の延年の神楽や田楽は修正会延年が多い。「瘤取り鬼」の鬼の酒盛りと踊りは季節はわからないけれども、この修正会の延年だったようにおもわれる。



七 順の舞

p.188
 愛宕寺の天狗の酒盛りをもっと具体的に「鬼にこぶとらるゝ事」と比較して、延年の作法を知るために正徳3年(1713)の『滑稽雑談』(巻之一、正月)の「天狗酒盛」を引いてみよう。
  古老語云て、天狗酒盛と云事、いにしへ此犬神神人に両座有。毎年愛宕[おたぎ]寺の修正会の夜、大坊に来り酒宴をなして後、万歳楽[まんざいらく]を唱ふ。たとへば(「西座より」脱落か)、東座お総僧と、たからかによばへば、其座の方より一人立て、万歳楽々々々と唱へて入。又東座呼べば西座、是に同じく、一献々々に如‹ㇾ›斯、次第に上座に至り、又若人より老人に及ぶ。此度の万歳楽は、東の方背高し、又西の方背高しなど、もて興じけるに、今年は東の方背くらべに勝たるとて、一年の吉凶をいひいどみあへるに、(下略)
 これを見ると『宇治拾遺物語』に「すゑ(末座)よりわかき鬼一人立て、折敷をかざして……次第に下よりまふ」とあるように、下座から一人ずつ順に長老(座主)の前へ出て、「順[ずん]の舞」をしたことがあらわされている。そしてその舞の上手下手は東西の吉凶(豊作凶作)の占にもなったのであるから、舞による験競[げんくらべ]だったこともわかるのである。



八 「瘤取り鬼」の囃子と延年

[略]


九 古蓑、古笠、古円座

[略]


十 「瘤取り鬼」の焚火と斎燈

[略]


十一 延年の舞と郷土芸能

[略]


十二 延年の酒盛りと折敷の舞

p.206
 延年は従来は芸能だけとおもわれてきたが、これは神事の直会[なおらい]と同じで、仏教法会や儀礼のあとで、酒をのみ御馳走を食べることが中心である。その余興として歌舞がおこなわれたのであって、ここに「芸尽し」があった。すなわちこの総合芸能が延年舞であるから、酒盛りをふくむ延年は「延年舞式」といった方がよいであろう。興福寺所伝延年が「興福寺延年舞式」(『日本歌謡集成』巻五)とよばれるのはこの意味だったかもしれないが、しかし美濃長滝寺[ちょうりゅうじ]白山神社(岐阜県白鳥町)の6日祭は江戸初期の記録で「修正[しゅしょう]延年祭礼」とよばれている。そして6日祭は現在も酒盛り(酌取)の作法がきびしい。私の見るところでは、この酒盛りの作法のととのっているのは長滝の6日祭(白山修験の修正会の延年)が一番、これに次ぐのは静岡県大井川町藤守[ふじもり]の田遊[たあそび]である。



十三 「瘤取り」の験力と神話

p.212
鞍馬竹伐[たけきり]という行事も鞍馬修験の夏峰入出峰延年(蓮華会)にともなう験競で、『日次紀事』(6月)には、
  又入{リ}‹ㇾ›夜{ニ}、寺僧各聚{リ}‹›毘沙門堂{ニ}‹›其{ノ}内{ニ}置‹›僧達中間[(下級山伏)]一人{ヲ}‹›、各凝{ラシ}‹›肝胆{ヲ}‹›而祈{ル}‹ㇾ›之{ヲ}。一人忽{チ}倒{レ}仆{シ}少焉[シバラクシテ]蘇生{ス}
とあるような祈り殺し祈り生かしであった。
 そうすると、験競の験力というものは、究極するところ活殺自在ということになるが、こうした力があれば病気を治すことも瘤を取ることも自在である、と信じられたはずである。したがって延年にともなう験競の場には、入峰で得たばかりのあらたかな験力で病気を治してもらおうとする人々が集まったものとおもわれる。その中には大きな瘤や肉腫をもった老人もいて、山伏が印を結び咒文をとなえて気合をかければ跡方もなく取れた、というような話があって、『宇治拾遺物語』の説話となったのであろう。すなわち、延年にともなう験競には、そのような奇蹟が期待され、また奇蹟があった話が流布していたことはたしかである。

p.212〜213
私はしばしば昔話の元には寺社縁起や唱導説話があり、その根元には神話があるとのべてきた。そうすると、瘤が山伏の験力で取れた話には、神話の「うけひ殺しうけひ生かし」の活殺自在の「うけひ」の咒力が元になっていると言うことができる。これは記紀にしばしば出てくるが、例えば『古事記』(垂仁天皇)には、
  かれ曙立[あけたつ]王に科[おほ]せて、うけひ白[まを]さしめしく、この大神を拝むによりて、誠[まこと]験[しるし]あらば、この鷺巣[さぎす]池の樹[き]に住む鷺や、うけひ落ちよ。かく詔りたまふ時に、うけひしその鷺地に堕ちて死にき。又うけひ活きよと詔りたまへば更に活きぬ。甜白檮[あまかし]の前[さき]なる葉広熊白檮[はびろくまかし]をうけひ枯らし、またうけひ生かしき。
とあって、曙立王の「うけひ」の験力が試みられた。このような神話が山伏の験力に反映し、これが延年にともなう験競の場で、瘤を取ったり付けたりするという説話になったのである。[略]