以下、五来重『鬼むかし』(角川選書、1991)から引用です。

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「地獄白米」(「地蔵浄土」「鬼の浄土」)と地蔵縁起

一 「地蔵浄土」と「おむすびころりん」
 

p.132
 鬼といえば地獄の鬼がまずおもい出されるくらい、地獄の話や絵が多いのに、「鬼の浄土」という昔話がある。これは、鬼がいわゆる極楽浄土にいるということではなくて、地蔵菩薩と同居しているので、このように呼ばれたのだとおもう。それで、この型の昔話は多く、「地蔵浄土」とよび代えられたものが多い。ただ問題は、この種の話が、鬼を主人公にしたものか、地蔵を主人公にしたものかで、昔話の「型」(談)を分けたらよいが、私の見る限りでは、鬼を主人公にしたものとおもうので、むしろ鬼の地獄談とするのがよい。これに無尽蔵の白米がついていることから、「地獄白米」または「鬼の白米」という型で呼ぶことにしたい。
 この昔話の直接の原話は『矢田地蔵縁起』だとおもうし、これをさかのぼれば素戔嗚尊神話になる。[略]

p.134
 この昔話はお伽噺では一般に「おむすびころりん」といわれる[略]



二 「地獄白米」の団子、握り飯

p.137
 まず、この話の発端をなす団子は何か、といえば、地獄へ入る手段としての団子はシトギダンゴ(粢団子)であり、霊供[れいく]の餅や握り飯である。これらは死者の頭陀袋[ずだぶくろ](サンヤ袋、三角袋、五穀袋)に入れて葬るので、団子や握り飯とともにあの世へ行くというモチーフ(話因)ができたものとおもう。頭陀袋には握り飯、団子、六文銭、道切手[みちきって]ともいう念仏紙や血脈[けちみゃく]、それに味噌、煙草入れ、煙管、茶、五穀、山椒の葉などを入れて、死者の首にかけるものである(拙稿「葬と供養」〔34〕月刊『東方界』昭和56年5月号参照)。これはまた「凔泉之竈[よもつへぐい]」であって、あの世での食物ということになるが、実際の宗教的機能は、恐るべき死霊を鎮魂するための「饗[あへ]」である。したがって、これを食べたらこの世はは戻ってくるなという意味になる。伊弉冉尊[いざなみのみこと]黄泉神話では、
  伊奘諾[いざなぎ]尊、伊奘冉尊を追ひ、黄泉[よもつくに]に入りまして及[し]きて、共に語りたまふ時に、伊奘冉尊曰[のたま]はく、吾夫君[せなのきみ]尊、何ぞ晩[おそ]く来[いでま]しつる。吾は已に凔泉之竈[よもつへぐい]せり。然れども吾まさに寝息[ねやす]まむ。(下略)



三 「地蔵白米」の地下への穴

p.141〜142
ただ今の「地獄白米」すなわち「地蔵浄土」「鬼の浄土」(鬼の楽土)には、オリジナルに地蔵縁起があるが、当面の地下世界への穴も、『星光寺縁起』(東京国立博物館蔵)の下巻には、古井戸として描かれており、
  去正応の比(1288―1292)、件の浄空、夢の中にある野原を行[ゆく]程に、古井のありけるにおち入て、数刻をへて底に落付、四方をみるに人なし。(下略)
とあって、やがて地獄の鬼につかまえられ、地蔵に救われる。『矢田地蔵縁起』にはこの穴はないが、登場人物の小野篁[おののたかむら]がつねに地獄へ出入りしたという井戸は、京都東山の珍皇寺[ちんこうじ]の庭にある。京都の人々は、この井戸から盆の精霊を迎えるために井戸の上に吊られた「迎え鐘」を打つのである。[略]



四 他界往来の鼠穴と素戔嗚尊神話

p.142〜143
 古代神話には他界往来談がかなり多いが、その通路について語るものはあまりない。他界は「根の国」であり「妣[はは]の国」であり、海の彼方の場合は「常世[とこよ]」とよばれる海洋他界である。天上他界では「天の鳥船」などとあって、鳥の姿で、あるいは鳥に乗って天空を往来するとおもわれたらしい。山岳他界はふしぎに出てこないで、中世の唱導説話になって山中の地獄へ川を渡ったり、死出の山路を通ってゆく話が出る。

p.143
 日本神話で三貴子誕生または四貴子誕生という話は、日神と月神を天上の支配者とし、蛭児[ひるこ](のちの夷神[えびす])は天磐櫲樟[いわくす]船に載せて海上(常世)へ放ち棄て、素戔嗚尊は根の国の支配者にした、とある。
  此の神(素戔嗚尊)勇悍[たけく]、安忍[いかり]にまして、且[また]常に哭泣[なきいさつる]を以て行[わざ]と為したまふ。故れ、国内の人民[ひとくさ]を多[さは]に夭折[あからさまにしな]しめて、復た、青山を枯山になす。故れ、其の父母二神、素戔嗚尊に勅りたまはく、汝[いまし]は甚だ無道[あぢきなし]。以て宇宙[あめのした]に君臨[きみ]たるべからず。まさに遠く根の国に適[まか]るべしとのたまふ。遂に逐[や]らひたまひき。
といい、やがて諸神[もろかみ]たちによって「底根[そこつね]の国」に逐降[やら]われた。そのとき「青草を結束[つか]ねて以て笠蓑[かさみの]と為し」たのは、死者の姿なので、「世に笠蓑を著て以て人の屋の内に入ることを諱[い]む」ことになったという。

p.143〜144
 このような根の国の素戔嗚尊(須佐之男命)の許へ、大国主命(大穴牟遅[おおなむぢ]神)は鼠の穴から入ったというのが、『古事記』の大国主命神話であると、私は解している。大国(大黒)さま鼠といえば切っても切れない因縁があるのは、この神話に根源があるとおもう。[略]この話では鼠は大国主命の嫁、須勢理毘売[すせりひめ]の化身と解することもできるし、そうでなくとも大国主命は鼠に導かれて嫁の須勢理毘売[すせりひめ]に会うからである。しかし神話も文学的物語であるから、鼠の穴に入る必然性として、大萱原の真中で周囲に火をつけられ、その火に焼かれるのを免れるために鼠穴に落ち込んだとしたのである。
  かれその野に入ります時に、即ち火もてその野を焼き廻らしつ。ここに出でむ所を知らざる間に、鼠来ていひけるは、「内はほらほら、外はすぶすぶ」かく言ふ故に、其処を踏みしかば、落ち入りて隠りし間に、火は焼け過ぎぬ。(中略)ここにその妻[みめ]須世理比売は、喪具[はふりつもの]を持ちて哭きつつ来まし、その父の大神(素戔嗚尊)は、已に死[みう]せぬと思ほして、その野に出で立たせば、すなはちかの矢を持ちて奉る時に、家に率[ゐ]て入りて、(下略)
 この話の物語的部分を取り去って筋を見れば、大国主命は鼠の穴に落ちて、根の国である素戔嗚尊の世界へ入る。ここで素戔嗚尊の試練に会うが、これを助けてくれたのは愛と智恵の須勢理毘売である。これが中世の仏教唱導説話になれば素戔嗚尊は地獄の鬼であり須勢理毘売は地蔵菩薩になる。昔話の「地獄白米」のファクターの爺さん婆さんと鼠穴と地蔵と地獄の鬼は、ここにすべてふくまれている。



五 鼠穴から「鼠の浄土」へ

p.148
『福岡県童話』の同県企救[きく]郡(現北九州市)の「鼠の浄土」では、持ち帰った臼と杵で1粒の米を搗くと臼一杯になるとあって、地獄白米は無尽蔵というモチーフがのこっている。打出の小槌を持ち帰ると語るのは佐賀市(『昔話研究』二)で、これは大黒さま(大国主命)と鬼の小槌がのこったのであろう。



六 『矢田地蔵縁起』と白米

p.148〜149
いわゆる「鬼の浄土」や「地蔵浄土」「団子浄土」「鼠の浄土」などの本話と推定される、「地獄白米」型の昔話にもっとも近い地蔵縁起は『矢田地蔵縁起』である。これは京都矢田寺蔵の縁起2巻と、根津美術館蔵の『地蔵菩薩霊験記』の第一段に見える満米上人の地獄往来談で、大和郡山矢田山金剛山寺では、毎年4月24日に二十五菩薩練供養に、地蔵菩薩と満米上人と地獄の鬼の行道でこれを演出する。
 この縁起の詞書は漢文であるが、絵巻の図中に和文で会話文や説明文が書き入れられている。その縁起文によれば、延暦15年に住持僧満米はこの寺を再興するために地蔵悔過[けか]法を修していたが、小野篁[たかむら]と師檀の契約があった。小野篁は陰陽道の大家であって、「身は本朝に在ながら、魂は琰魔王宮に仕う」といわれた奇行の人であったとある。私は、これは陰陽道の冥道供[めいどうく]や泰山府君祭[たいざんふくんさい]をした人であろうとおもうが、彼は京都東山鳥辺野葬場の愛宕[おたぎ]寺の井戸から地獄へ往来したといい、その旧跡が珍皇寺[ちんこうじ]である。おそらくもとは珍篁[○]寺といい、奇行の篁の寺という意味であろう。

p.149〜150
 縁起では、そのころ地獄に熱病が流行していたので、これを除くために琰魔大王が、菩薩戒の授戒をうけることになり、その戒師に小野篁の推薦で満米上人がえらばれた。満米上人は地獄の冥官に負われて、目をつぶっていると地獄に着いた。そこで獅子座に登って授戒をすると、地獄の熱病が止んだ。そのお礼に琰魔が授戒の布施をしようというので、満米は地獄のありさまを見たいと願った。琰魔は満米を伴って地獄巡りをするが、その猛火の中に一僧の働くのを見て満米が誰かと問えば、あれこそ地蔵菩薩であると答えた。
  聖人(満米)問うて云く、炎中の僧は誰ぞや。大王答へて云く、近く来臨すべしと。時に炎に昇りて僧来る。王云く、是れ地蔵菩薩なりと。(中略)此の故に炎になりて大悲代苦するも、一毛の縁無くんば、済度に及ばず。汝、人間[じんかん]に帰りて、諸人に告ぐべし。苦果を恐るる人は、我に結縁すべしと云々。(原漢文)
とあり、このときの生身の地蔵菩薩を写して、仏師に造らしめたのが矢田地蔵であるという。すなわち、この地蔵を信仰すれば死後の苦を代ってもらえる、という唱導がおこなわれたのであろう。

p.150〜151
 しかし、庶民信仰の地蔵は、死後の救済とともに現世の苦を救うことが特色で、これを「現当二世の利益」といい、また六道済度という。そこで琰魔は、満米をこの世へ送り還すときに、白米の小箱を持たせてくれた。この白米はいくら取っても、すぐ箱いっぱいになり、尽きることがなかったという。
  琰王、宮に還り聖人を送り遣はす。相具する冥官、塗の小箱を授く。去り畢って開き見れば、白米を入る。取り用ゆと雖も、亦箱に満つ。仍て時の人、満米と云ふの称、然ら令むる名を言ふなりと云々。
とあるが、地獄の米は無尽蔵であるというテーマをあらわしている。



七 昔話の分類の問題

[略]


八 祖霊(鬼・地蔵)からの米の賜物

[略]


九 鬼と鶏の鳴声

[略]


付「地獄白米」補遺

p.162〜163
『本朝法華験記』(中巻第48光勝沙門法蓮法師)瓠中[こちゅう]白米談
これは法華経の功徳談で、金光明最勝王経を奉ずる光勝聖と、法華経を奉ずる法蓮聖の両人が、験競[げんくらべ]として1町の田から収穫できる白米の多寡を競った。すると光勝聖の田には種も播かず、苗も植えないのに、一面に稲が豊かに稔った。
 これに対して法蓮聖の田には1本の瓠[ひさご]が生え、1町の田一面に枝をひろげて、2、3日の中に壺のように大きな瓠が実った。その1個を割ってみると精白米が5斗入っていたので、まず法華経に供えまた諸僧に施し、1、2個は光勝聖の坊へ贈った。それで光勝も験競に負けたことを知り、最勝王経を捨棄[しゃき]して法華経に帰したとある。この瓠の中の白米は一切の僧俗や貧人や往還の諸人に施されたが、おどろいたことに冬の12月になっても枯れず、1年中瓠を取ればすぐに次が生えたというのである。
  然りと雖も田瓠、十二月に至るも更に枯竭せず。取るに随つて生ず。取り用ふるの輩、貧苦を失ふのみに非ず、道心を発するに及び、法蓮聖田を以て更に仏事を作[な]す。一切を利益し、乃至摂心し、慢過を起さず。精進修行して老衰遷化[せんげ]す。
とあり、法華経の功徳によって無尽蔵の白米を得たという話である。[略]これを地獄からもたらしたものでない点に、地獄白米型と根本的な相違がある。すなわち地獄白米型は他界の祖霊の恩寵によって、無量無限の白米が得られるという点が、日本固有の神話や庶民信仰につながりをもつからである。

p.163
『大山寺縁起』(巻上)
この縁起の絵巻は応永5年(1398)に描かれたものであるが、詞書は洞秋院本がのこっていて、鎌倉時代末期のものと推定されている。絵巻そのものは昭和3年4月22日の大山寺本堂火災とともに焼失して、一部の模写が東京国立博物館と東大史料編纂所にのこっている。[略]

p.163〜164
 この説話は備後の国神石[かめし]の賤しい出家が、伯耆大山の地蔵菩薩に「生身[しょうじん]の地蔵」を拝みたいと祈誓すると、夢の中で下野[しもつけ]の国岩船[いわふね]へ行けと教えられる。下野へ行ってみると、柴の庵に地蔵坊という僧がおって泊めてくれる。この地蔵坊のところへ、方々から田植の手伝いをたのみに来るが、翌日田圃へ出てみると、地蔵坊は田植したり、牛の鼻取りしたり、田楽の鼓を打ったり、早苗を運んだりという多くの手伝いを同時にしているのであった。
 そこで神石の僧はこの地蔵坊こそ生身の地蔵と知ったが、地蔵坊は伯耆大山の地蔵こそ生身の地蔵であると教えて、伯耆へ帰らせる。このとき地蔵坊は道中の食料にと白米一包を持たせてくれた。
 此の亭主(地蔵坊)則ち生身の地蔵なり。更に凡夫には非ず。大願成就と覚えけるにも、弥[いよい]よ大山権現の御事貴く忍ばしかりければ、急ぎ帰り参らんとしけるに、宿の僧白き米一つゝみ取出し、道の程の粮断[ろうだん](粮料[ろうれう]の誤りであろう)にし給へとてたびたりけり。うれしく、是れまで志し給ふ物をやと悦びながら、又此の国へぞ帰りける。修行者宿ごとに、彼の米を飯一つにあて[(宛)]がひて内へつかはせば、程経て宿にのゝしりけるは、こは不思議の事かなと驚きさわぐおと[(音)]なひあり、何事ぞと聞けば、今の米、此のかま[(釜)]に一はた[(杯)]に満ち侍りぬとぞ云ひけり。(中略)彼の修行者、件の米なほ尽きずして、南光院の湯屋釜に一すくひ入れたりければ、大釜に満ちたる粥にて、山上の老若、参詣の諸人まで、是れを施し与へたりと申し伝へたり。
とある。[略]