以下、五来重『鬼むかし』(角川選書、1991)から引用です。

ーーーーーーーーーー
 

「食わず女房」と女の家

 一 「食わず女房」の構成

[略]


二 「食わず女房」の「鬼一口」

p.82
 要するに、鬼一口のモチーフの背景には、しばしば突如姿を消してしまう失踪者の出る社会的背景があった。それが山に多かったために、山の神ならば神隠しといい、鬼や山姥ならば鬼一口としたもので、これを古屋敷や古御殿ならば、物怪[もののけ]を鬼として鬼一口といったものとおもわれる。「食わず女房」は、この鬼一口が鬼や山姥の固定概念となって、昔話のメインテーマになった一群の説話である。


三 山姥のかつぐ桶

p.83〜84
 また桶の代りに甕や瓶、袋、籠、臼などというのもある。甕や瓶が九州に多いのも、九州ではつい最近まで甕棺葬[かめかんそう]がのこっていたことと対応している。1つは壱岐の勝本町で、嫁は山姥に変化[へんげ]して男を甕に入れ、それを担いでゆく(『壱岐昔話集』山口麻太郎)。また熊本県球磨[くま]郡湯前町では、山姥は、俺のした事をお前は見たろうといって、男を瓶に入れて山へ運んでいった。しかし男は途中で逃げ出してユズリハとウラジロの中に隠れる。すると山姥は「大歳の晩に蜘蛛になってきて、取って食うちゃる」といって、あきらめて帰るが、大晦日に蜘蛛になって自在鈎を下りてきた山姥は、男につかまえられて炉にくべられてしまう。(『昔話研究』)。九州でもこの球磨郡や上益城[かみましき]郡、福岡県八女[やめ]郡あたりは、とくに甕棺葬が残留した地方で、人吉[ひとよし]市の墓地の改装には多数の甕棺の出た話をきいた。上益城郡の五家荘[ごかのしょう]でも、甕が残っている限りは甕棺を使うという家があることを、私は昭和32年に聞いている。このようなところで男が甕に入れられて山へ運ばれるという発想は、甕棺が原型であったと推定してよいであろう。

p.84〜85
 桶の代りに、山姥が男を袋に入れて担いでゆくというのは、九州の天草や摂津の川辺郡などにある(『北斗』120)。これも不可解な要素であるが、風葬では布で死者を掩ったらしく、この布を「野草衣[やそうえ]」とよんだことが、平安末期の葬送故実書『吉事略儀』に見え、おなじことは『兵範記』(仁安元年9月24日)や『玉葉』(文治4年2月22日)にも出ている。これがのちに曳覆曼荼羅[ひきおおいまんだら]や野袈裟[のげさ]から経帷子[きょうかたびら]、頭陀袋[ずだぶくろ]になったものと、私は推定しているが(拙稿「葬と供養」第34回『東方界』91号 昭和56年5月号参照)、昔話ではこれを袋として語るようになったのではないかとおもう。私は備中新見[にいみ]の山村で風葬の伝承のある「野葬場[やそば]」という谷へ案内されたことがあり、風葬の「野葬衣」が「野草衣」になったものと考えている。わが国の風葬は、すくなくとも平安時代末の作品である『餓鬼草紙』に描かれているので、そのころの残像から、「あだしが原」(安達ヶ原)の鬼婆も「食わず女房」の山姥も生まれたといってよい。したがって、この霊鬼は棺桶にあたる桶や、甕棺の甕や、野草衣の袋などの薄気味の悪い道具立を持たされたのである。


四 「食わず女房」とフキゴモリ

p.85〜86
 中国の年中行事諸の1つである『荊楚[けいそ]歳時記』には、
  五月五日、之を浴蘭節[よくらんせつ]と謂ふ。四民並びに百草を踏む。又百草を闘はすの戯あり。 艾[よもぎ]を採りて以て人形に為[つく]り、門戸の上に懸け、以て毒気を禳[はら]ひ、菖蒲を以て或いは鏤[ちりば]め、或いは屑とし、以て酒に泛[うか]ぶ。
とあるのがその故事である。しかし、艾(蓬)の人形を作ってこれに菖蒲を挿すことはあっても、この2つの草を屋根に挿すことはない。むしろ5月は悪月なので、屋根を蓋[おお]ったり、屋根に上るのは禁忌されたとある。
  五月は俗に悪月と称し、多く牀薦席[とこのこもむしろ]を曝[さら]すを禁忌し、及び屋を蓋ふを忌む。(中略)俗に五月、屋に上らずと云ふ。五月、人或ひは屋に上り、影を見れば、魂便[すなは]ち去ると。(下略)
というので、菖蒲・蓬で屋根を葺くなどは思いもよらないことであった。しかし、私は、この昔話の背景には、祭の籠屋[こもりや]を菖蒲・蓬で葺いた時代があったものと考えている。なおいえば、藁(麦稈)真菰[まこも]で籠屋をつくったが、中国の端午にならって、屋根だけを菖蒲・蓬で葺いた時代があり、のちに形式化して、屋根に数本の菖蒲・蓬を挿すだけになったものとおもう。

p.86〜87
 5月5日、またはその前夜を「女の家」や「女の屋根」といって、村の女子が宿へあつまり、仕事から解放されて遊ぶことができる民俗は、日本各地からの報告がある。
 たとえば豊後臼杵[うすき]市諏訪(旧海辺[あまべ]村)や井村(旧北都留[つる]村)では、5月5日に蓬と萱を屋根に挿して、その日1日を「女の家」と称して休む(『沿海手帖』)。四国では、私が調査を指導した大谷大学総合民俗調査のとき、土佐長岡郡本山町の「女の家」では、5月5日に女の人が蓬と萱と菖蒲で屋根棟を葺いたという聞書がえられた。ただ妊娠者は「ふきこもる」ので、これに加わらなかったという(『土佐本山町の民俗』昭和49年)。また阿波の名西郡地方では「女の夜」といったというので、その前夜から「夜ごもり」をしたことがわかる。すなわち蓬・萱・菖蒲で葺いた家に、1日1夜またはそれ以上お籠りをしたことの名残りである。また讃岐五郷村では「女の屋根」といい、「今夜はなご衆の家ぢゃけに威張る」とか「こいさら肩ひろげて足伸ばして寝られる」とかいったという(柳田国男翁『家閑談』)。

p.87
 「女の家」が山陰地方にもあることは、大谷大学の総合民俗調査でわかった(『但馬美方郡の民俗』昭和46年)。すなわち但馬美方郡の浜坂町や温泉町では、5月5日を「女の家」とよんで、去年の節供から今年の節供までのあいだに嫁に来た家へ、4日の晩に青年たちが幟[のぼり]を立てにゆくという聞書がえられた。ここでは菖蒲と蓬で屋根を葺くことは脱落したが、5月5日の幟が「女の家」のために立てられたことを類推させる貴重な聞書であった。私が鯉幟と菖蒲(尚武)の節供の起源を「女の家」に置いたのは、この聞書があったからである(拙著『続・仏教と民俗』昭和54年・角川書店刊)。しかも但馬の津居山[ついやま](旧港村、現豊岡市)では、5月5日には「女の家」という名称は忘れられたけれども、女衆が宿にあつまって1日遊ぶ風習があり、このことは因幡の方でも行われた伝承が聞かれる。

p.88
 近畿地方の例については、例の近松の『女殺油地獄』(下)に、三界に家なしという女について、
  葺き馴れし年も庇の、蓬菖蒲は家毎に、幟の音のざわめくは、男子持の印かや。(中略)嫁入先は夫の家、里の棲み処[か]も親の家、鏡の家の家ならで、家といふ物なけれども、誰が世に許し定めけん。五月五日の一夜さを女の家といふぞかし。

と、この夜ばかりは大威張りできる日だというのがある。名古屋付近でも、5月5日を「女天下の日」という言葉がのこっているという。[略]

p.88〜89
 「女の家」の関東地方の例では、相模津久井[つくい]郡地方で5月5日に菖蒲・蓬を屋根に挿して「女の屋根」ということは有名で、神功皇后の故事をつたえる。伊豆大島でも同様で、武蔵入間[いるま]郡では5月4日を「夜節供」、上州多野郡万場[まんば]町では「女衆の家」(『万場の方言』)といい、同甘楽[かんら]郡甘楽町秋畑では「フキゴモリ」といい、女が上座にすわるという(『文部省緊急民俗資料調査』)。おなじ資料には、信州下伊那郡清内路[せいないじ]村でも5月4日を「女の天下」というとある。
 
p.88〜89
 このように、「食わず女房」型の昔話で、山姥に食われる危害からまぬがれる菖蒲・蓬が、女性の忌み籠る「女の家」に関係があるという伝承は、実に日本全国にわたって採訪される。ことに「女の家」の由来を「食わず女房」の昔話で説明するのは土佐に多く報告されているので(『日本の民俗』高知県)、この両者の関係は今はうたがう余地はない。そうすると、「食わず女房」の4段目の成立する背景に「女の家」があったことはたしかだ、ということができる。


五 五月乙女の忌籠りと菖蒲御殿
p.89〜90
 「女の家」を菖蒲・蓬で葺いたことに対応して、宮廷の儀礼には「菖蒲御殿」や「菖蒲輿」を5月4日に葺くことがあった。『讃岐典侍日記』(嘉承3年5月4日)に、
  さうぶ[(菖蒲)]のこし[(輿)]、朝がれゐ[(餉)]のつぼ[(坪庭)]にか[(舁)]きたてゝ、殿ごとに人々のぼりて、ひまなくふ[(葺)]きしこそ、みづ野のあやめ[(菖蒲)]も今日はつ[(尽)]きぬらんと見えしか。
とあり、『後水尾院当時年中行事』(5月5日)には、
  清涼殿の東庭、おにのま[(鬼の間)]のとほりに、高らん[(欄)]に添て、さうぶ[(菖蒲)]の御殿とかやいふものをたつ。あやめのこしなるべし。あやめ[(菖蒲)]のこし[(輿)]は六府のさたとめたれど、(下略)

ともあり、もとはこの中に女性が「葺き籠った」はずであるが、それではなぜ女だけがこれに籠ったのであろうか。これは五月が「さつき」で「さ」(田の神)を祀る月であり、女は「さおとめ」(五月乙女)として田の神に仕え、田を植える清浄な神女の資格を得るための忌籠りと推定される。