以下、五来重『鬼むかし』(角川選書、1991)から引用です。

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牛方山姥と鯖大師


一 牛方山姥型の構成

p.62
 山姥の怖ろしさと、その危害から人間がいかに逃れたかをテーマとする昔話に「牛方山姥[うしかたやまんば]という一群の説話がある。この説話は「牛方と魚」とか「魚売りと鬼婆」とか「鯖[さば]売りの話」「鯖才二郎[さいじろう]」「馬方と鬼」などの名所でもよばれて、日本全国どこでも採訪することのできる、分布の広い昔話である。
 これは鬼一口型の発展した昔話で、山姥の恐怖と、その厄難からの逃走と、これに対する仇討という三段形式である。[略]



二 牛馬と鯖大師

p.67〜69
 鯖大師については文久元年刊の木村蒹葭堂(暁晴翁)の『雲錦随筆』に、次のようにある。
  南海四国遍礼[れい]の中、阿波国海部[かいふ]郡比和佐[ひわさ]村薬王寺(遍路二十三番札所)より土佐国安芸[あき]郡の国境に至る、行程十里、此間に八坂[やさか]、坂中[さかなか]、八浜[やはま]等の名あり。山谷岩窟古跡多し、此八坂に行基庵[ぎょうぎあん]といふあり。此本尊に行基僧正の像を安置す。此本尊に行基僧正の像を安置す。此影[このみえい]行基旅装にて左の手に数珠を持、右の手に鯖一匹を携へて立給ふ。異容[ことやう]なる像也。是は往昔[いにしへ]行基此地を遍歴[へんれき]の折から、塩鯖多く馬に附て市[いち]に出す者に行合[ゆきあは]れけるに、行基の云く、其鯖一尾[いちび]われに得させよと乞[こひ]給ひしに、鯖の主さらに聞入[ききいれ]ず。却[かへっ]て大に嘲[あざけ]り罵りて行過けるゆへ、行基是非なく別れ給ふ折から
  大坂や 八坂坂中 鯖ひとつ 行基にくれで[○] 馬のはら病[やむ]
[かく]よみて紙のはしに認[したた]め渡し給ひて行過給ふ。然るに忽ち馬煩[わづら]ひて苦しみ一足も行[ゆか]ず。(下略)
とあって、行基または大師が「鯖」をほしがるという必然性は、すこしも語られていない。しかしこれが山姥ならば鯖をほしがっても不思議はないであろう。そうすると、この鯖大師の行基または大師は、原話では山姥だったとすると、これは昔話の「牛方山姥」になってしまう。山姥(山の神)は怒りっぽくて祟[たた]り易い荒魂的霊格だから、鯖をくれなかった懲罰に馬や牛を食べてしまうという話が、もとあったのであろう。しかし山姥が行基や大師に変化すると、懲罰に馬の腹を病ませることになるが、牛方や馬方が悪かったとあやまると、前の歌の濁点を取って、馬の腹病を止[や]ませえのである。
  大坂や 八坂坂中 鯖ひとつ 行基にくれて[○] 馬のはら止[やむ]
 この由来から、鯖大師の絵姿お札は、馬の腹病の咒禁[まじない]として配られるようになった。そしてこの信仰が古いことは、天文年間の馬疾医書『勝薬集』にもあるということでわかる。これは桃井若州氏の「民俗覚え帳」(『旅と伝説』10巻9号 昭和12年)に引かれていて、
     病む腹まじないの事
  一、馬の耳に口あて、歌にいはく
     大坂屋八坂さか中鰺[あじ]ひとつ
        きやうき[(行基)]にくれて駒そ腹やむ
  と七返よみて、我手にてはなきそ[(ぞ)]おうたせん(蒼前か)の御手なりとし、背をなでべし。
とあるといい、阿波の鯖大師のほかに磐城の鯖大師もあるという。また八木三二氏の「肥後国阿蘇郡俗信誌」(『旅と伝説』9巻5号 昭和11年)には、馬の腹に寄生虫が涌いて苦しむときは、
  大阪の八阪の阪の阪中で、虚無僧に逢うて、鯖三匹貰うて、此の虫早やせき止ませ、と唱へて、笹の葉でその腹をば撫で、その笹の葉を食はすれば、せき止むと云ふ。(古城村北坂梨)
という例もある。しかし、柳田翁が鯖大師で気になったのは、これが九州の海岸地帯に多いことであった。それは、福岡県の遠賀郡の漁村には鯖大師の石仏が多く、腹病のときは鯖をこれに上げると治るとか、豊漁を祈るとかの信仰があることで、これがどうして「鯖」でなければならないかということが、柳田翁にも解せなかったのである。



三 鯖と散飯

p.70
 昔話「牛方山姥」の牛方の積荷にはいろいろのものがあるが、圧倒的に多いのが鯖である。柳田翁の説では、これは漁村から山村へ運ぶ峠で、峠の神に雲上(通行税)代りに鯖を上げたことになるのだが、私は鯖はサバ(散飯または生飯)であったと思う。したがって塩でも米でも大根でもよいことになり、散飯は峠(手向け)の神への手向け(供養)ということであろう。
 散飯[さば]は仏教寺院では、食事[じきじ]作法[さほう]には、1箸だけお膳の隅に取っておいて、夕方の施餓鬼[せがき]に施餓鬼台または庭に撒いて餓鬼にほどこす。餓鬼は祀られざる幽鬼のようにいうが、私は新魂[あたみたま]または荒魂[あたみたま]的性格の一般霊であると主張して、日本民俗学会で柳田翁と意見が対立したことがある。花折峠とか花立峠、柴折峠、犬卒塔婆[いぬそとば]峠などで、花枝や柴枝の手向けを受ける霊はこのような霊であり、行路死者のあった崖道などで柴枝を手向ける柴神様というのもこれである。その手向けは常磐木の枝(花枝)のこともあるし、散飯や洗米や大根のこともある。牛馬の死んだ場所に建てた馬頭観音、馬力神には、よく二股大根や普通の大根、人蔘を上げる。塩はそのような霊の清めに撒くことがあったであろうから、塩と散飯は塩鯖と訛伝[かでん]されやすい。よく、峠道でヒダル神に遭って急にダルくなれば一口のこした弁当の飯を上げよ、というのは、この散飯を指したものと私はかんがえている。

p.71
 山姥(山の神)や鬼婆が死者の霊をあらわす「鬼」の形象化であり、霊物化であり、人格化であることはすでに述べた。それは荒魂的霊格が鎮魂咒術や儀礼によって恩寵的霊格に転化するが、その咒術や儀礼が「手向け」の散飯や花立、柴立、卒塔婆立である。ところが、山や峠や山口に浮遊する霊はこの手向けがないと散飯を請求する、という信仰が昔話化して、山姥が鯖を要求するという話になる。そしてこれに鬼一口のモチーフが加わって、鯖1駄もも2駄も食べ、牛や馬も2頭も3頭も食べ、人も喰おうと追いかける。これを逃れる方法は、はじめ神仏の力や咒物・咒文の力であったものが、のちに人間の力や智恵になる。しかもいっそう人間化されて、霊物に復讐して残忍な殺し方をしたうえ、その宝物を奪う、という筋に展開するのである。このように、原始宗教的もしくは庶民信仰的起源から昔話の展開を追求するのが、宗教民俗学の方法である。


p.72
鯖大師の信仰はもう1つ転じて「牛馬大日如来」の信仰になったものと、私はかんがえている。これは出雲から山陰地方の但馬にまで、あるいは紀州熊野にも拡がった信仰であるが、鯖大師の牛馬守護を大日如来に代えたものとおもう。[略]