以下、江馬務「妖怪変化の沿革」(『日本妖怪変化史』中外出版、1923年、小松和彦責任編集『怪異の民俗学② 妖怪』〔河出書房新社〕所収)から引用です。
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 わが国妖怪変化沿革の大略を按ずるに、その性質からして、
 第1期 神代
 第2期 神武天皇より仏教伝来まで
 第3期 仏教伝来より室町時代の応仁の乱まで
 第4期 応仁の乱より江戸時代末期まで
 第5期 明治以後
の5期に分劃することができる。

 神代においては、後世から見て霊妙不可思議のこと多く、妖怪変化はほとんど普通のことにみなされ、森羅万象が意想外の魔力を有していた観があった。
 天窟戸[あまのいわと]の変のときには天地晦冥[かいめい]となり、群妖が起こった(古事記)。伊奘諾尊[いざなぎのみこと]の小便は自ら化して罔象女[みずはのめ]という神となり(日本書紀)、素戔嗚尊[すさのおのみこと]が八岐大蛇[やまたのおろち]を退治するときは、櫛稲田姫[くしなだひめ]を櫛に化して頭に挿したなど、とんだ魔力があったものである(日本書紀)。人の怪異では、高皇産霊神[たかみむすびのかみ]の子少彦名命[すくなひこなのみこと]は神の教養に順[したが]わず、神の指の股から堕[おちい]って行方不明となったが、鷦鷯[ささぎ](みそさざい)の羽の衣を着て、白[薟+殳][かかみの](やぶからし)皮をもって舟となし、湖水に浮んで、海のあなたから出雲に漂着した。大国主神[おおくにぬしのみこと]がこれを掌の上に載せて翫[もてあそ]ぶと、その頰を齧[かじ]ったという。人といえば人、妖怪といえば妖怪の神もあった(古事記、日本書紀)。子を生むときに竜の姿を現わした彦火々出見命[ひこほほでみのみこと]の妃、豊玉姫[とよたまひめ]もまた、動物の変化として見ることもできる(日本書紀)。
 高天原[たかまがはら]から外界へ使した雉子[きじ]も立派に人言を発して、大神の使命を伝えているし、因幡白兎[いなばのしろうさぎ]や鰐[わに]もたがいに人言をもって相争うている(古事記)。これらは動物の例であるが、植物でも天地開闢のおりには草木みな言を発していたと伝えられているから(日本書紀)、動物が人言を発するのも無理からぬ話である。伊奘諾尊が投げられた鬘[かずら]が葡萄[ぶどう]になったのも変ではあるが、桃の実を投げられて醜女[しこめ]が逃げ出したのも不思議といわで何といおう(古事記、日本書紀)。
 器物で化けたのは、やはり伊奘諾尊が投げられた櫛が一転して筍に化した例である(日本書紀)。
 当時は黄泉国[よみのくに](死んだ後にゆく国)との交通が自由で、現に伊奘諾尊は探検をしておられる。しかして再び本土へ帰朝して来られたのは、すなわち蘇生して地獄話をする後世の例と同じであろう。黄泉[よもつ]醜女はすなわち鬼で、国史における鬼の初見である(古事記、日本書紀)。
 以上のごとく、神代においてはその伝説はほとんどまったくこれ霊妙、奇蹟で充ち満ちている。しかしながら、後世のごとく人や動物などの幽霊というものは、ほとんどない。すべてみな、これ現世におけるあらゆる摩訶[まか]不思議を説いている。しかして人の能力というものには、後世の幽霊に見るごとく、ずいぶん恐ろしく偉大なものが多い。素戔嗚尊が泣くと荒山が枯山となり、歩くと天地が動揺するなども(日本書紀)、普通ではない証拠である。
 以上で、人間と物象の交渉の古いものであるを知られる。

 第2期の神武天皇から欽明朝の仏教伝来に至る間は、前代のごとき霊妙な事蹟はすべて跡を絶ったが、それでも、後世に見ゆる人や動物の死後において化けるものや、いわゆる妖怪はまだまったくなく、みな現世的変化にすぎない。
 その例を挙げると、伊吹山の山神が蛇になったのや(日本書紀「景行紀」)、播磨国の文石小麻呂が暴逆の行があったので、雄略天皇13年、これを春日小野臣大樹に討たしめられたとき、大樹は決死隊百人をもって小麻呂の家を焼いた。時に火炎中から馬のような白狗が飛び出し、大樹に喰ってかかった。大樹が刀でこれを斬ると、小麻呂になって死んだとある(日本書紀)。これは人が動物に化けた例であるが、動物が人に化けた例では、推古天皇35年に狢[むじな]が人になって歌ったことが伝えられているのを最初とする(日本書紀)。また植物が化けた例では、欽明天皇5年に佐渡島東禹武邑[うむのさと]の人が椎[しい]の実を拾って灰の中へ入れて炮[や]こうとすると、その皮が2人の人になって火の上へ1尺ばかり飛び上がって相闘ったことを、越の国から都へ通信している(日本書紀)。しかしながらまた器物が化けたことは記していない。しかし鬼というものが存在することは、すでに欽明天皇の頃の仏教伝来前に知られていたとみえ、粛慎[みしはせ]人を鬼に比べている文がある(日本書紀)。しかしこの鬼も、後世の鬼と同じ意味のものなるやいなやは不明である。日本人は、死後の世界・輪廻転生の理はこの頃には想像していなかったものと思われる。
 

 次に、欽明天皇13年に公式に仏教が伝来して、初めてわが国の思想界が一転し、来世・輪廻転生・因果応報の思想が明瞭になってきた。妖怪変化は奈良朝末葉までに充分に後世の基礎を形成されている。
 奈良朝少し以前には天狗や鬼が初めて出ている。欽明天皇9年2月に、大星が東から西へ流れ、音雷に似ていた。時人は流星とか地雷とかいったが、時の有識者僧旻は天狗[あまきつね]であるといっている(日本書紀)。また斉明天皇7年7月、天皇の御大葬を朝倉山の上から鬼が大笠を着て拝見したとある(日本書紀)。当時はまだ天狗も鬼もさまで社会的に活動していない。
 奈良朝になると、これらの輩[やから]は漸次人間と接触しきたり、生物界では来世思想が覿面[てきめん]に現れてきた。人が生前に悪事をなし、因果応報で死後に動物に転生すると信ぜらるることとなった。
 讃岐国美貴[みき]郡大領小屋県主宮手[こやあがたぬしみやて]の妻が道心がなかった報[むく]いで、宝亀7年、死んだが、棺の下でよみがえり、その棺の蓋を開いた。見れば、腰から上は牛で、額に角が生えていたという(日本霊異記)。同じく宝亀年中、修行人を妨げたがため天竺[てんじく]大王が白猴[はくこう]に転生し、近江国野洲御上嶺[みかみね]の堂の僧恵勝[えしょう]に法華経を誦するを乞うた(日本霊異記)。聖武天皇の天平年中に一僧が生前銭を貪[むさぼ]った報いで、死して大蛇となった(日本霊異記)。そのほか、骸骨となって自己の要求を人に請うている話も多い。宝亀9年に備後国葦田[あしだ]郡の人、品知牧人[ほむちのまきひと]が深津の市に買物に行った帰り途[みち]、日暮れて、とある竹藪に宿すると、夜半しきりに呻吟[うめき]の声が聞え、目が痛い、目が痛いといったので、一夜いも寝られず、翌朝見ると、1つの髑髏[ひとかしら]があって、目から笋[たかんな](筍)が生えていた。昨日の痛い痛いといったのはこれだと、それを抜いてやったが、その応報で、市で買物するのに意のごとくなった。髑髏は、後、現われて、その家に恩を謝したことを記している(日本霊異記)。また、かの物部守屋[もののべのもりや]は、死して数千万の啄木鳥[きつつき]となって寺を啄[こづ]いたが、聖徳太子は鷹となってこれを降伏せられたという(日本霊異記)。これも人の霊が動物となった例である。

 動物で化けたのに狐の例がある。欽明天皇の朝に、美濃国大野郡の人が嫁を探していると、曠野で1人の美人に会った。早速、意気投合して夫婦となり、子までなしたが、この妻にとかく犬が吠え、ついに嚙みつかんとした。妻は犬に追われて、たちまち狐の姿となった。夫は驚いて、なんじ、われを忘れたか、子までなせし仲でないか、来つ寝(来て寝よ)、と叫んだ。よって「きつね」という語が出来たのであると(日本霊異記)。

 植物に関した話はあまりまだ見えないが、妖怪では、鬼がそろそろ活動し出した。天平の昔、大和国十市[とうち]郡菴知[あむち]村の東に富豪があって、その娘、万之子というのはまだ良縁がなかったが、ある男が縁談を持ち込み、結納に色絹の車3台を持って来、ついに一夜の契[ちぎ]りを結んだが、その夜、哀れや、娘得は頭と指を残したのみで、余りはみな噉[く]われてしまっており、夫は姿も影も見えなかった(日本霊異記)。
 また斉明天皇の朝、「恙[つつが]」という虫が出て、人を刺し殺したこともあった。これも一種の妖怪であるとせられている。
 かくのごとく奈良朝において、従来あまりに聞こえなかった人間の幽霊が現われ、また前世の応報が動物と化して人に見えることが激増してきた。しかしまだ後世のごとく人の幽霊や動物の霊がめざましい活動はしておらぬ。また動物のなかにも狐などが、人んいなりすまして人間を訛[ば]かすようなことが、おいおい頻繁となってきた。が、植物や器物は、まだ化けるということはない。妖怪では、鬼などが漸次活動し出してきて、無辜[むこ]の人を殺害するようなことが起こってきたのである。
 平安朝・鎌倉時代においては、奈良朝の妖怪変化の活動がいっそう拡張された上に、生霊と器物や自然物の精霊が活動するようになってきた。
 まず、人物では「死霊」と「生霊」と「幽霊」の3種がある。「死霊」は、死して後、その精霊が仮りの姿を見せないで活動するもの、「生霊」は、その人の生存中にその精霊が遊離して活動するもの、「幽霊」は、死して後そのうつせみの姿を現わして活動するものである。
 死霊の例としては、藤原忠通の珍蔵していた箏[そう]が藤原基通の女[むすめ]に伝わっていたが、夜更けてその箏が自然に鳴った。これ、忠通の宿執[しゅくしゅう]のなせる業である(古今著聞集)。
 生霊の例としては、ある下臈[げろう]が東国へ下校する途、1人の女が現われて民部大夫某の家の案内を乞い、その家の門前へ立つやいなや姿が消えてしまった。中では死人が出来たように騒いでいる。下臈はあまりの不思議に、帰り途、その女の近江の住所に立ち寄って、そのことを報じると、その女は御簾[みす]越しに面会して、本望を達したのを喜び、その男を饗[もてな]し、絹など与えたという。これ、その女の怨[うら]みが生霊となって、姿を仮りそめに現わしたものであった(今昔物語)。『今昔物語』にも、この事実から、女の心は怖ろしいものだと付加している。
 また幽霊の例としては、宇多院が源融[みなもとのとおる]の別業たりし河原院へ行幸になったとき、夜半、西の台の塗籠[ぬりごめ]に衣冠に笏をもって畏っている人がいるので、誰かと尋ねられると、彼はこの家の主人だと御答をしたという(今昔物語)。
 これは人の姿をした幽霊であるが、この時代にも、人間の死後、動物に姿を易[か]えて現われることは、前代にも譲らない。京都上京出雲寺の別当が没して、その霊が3尺の大鯰[なまず]となり、寺の瓦の間に挿まっていたのを、寺が大風で吹き倒れたとき、童[わらべ]が殺した。別当の子、上覚がこれを煮て食したところ、骨が喉に立って、立ちどころに死した(宇治拾遺物語)。かの頼豪が鼠に化したのも、藤原実方の霊が雀になったのも、有名な話である。人が鬼や天狗に化することもまた前代と同じい[ママ]。日蔵上人が吉野の奥で丈7尺の鬼に出会い、この鬼が懺悔の涙に咽[むせ]びながら、自分は4、5百年昔の人間であるが、人のために恨みを残して成仏ができず、この姿になったと愚痴をこぼしたとあるなどは、これに属する。

 なお、この時代から怨霊[おんりょう]はついに大海を支配すると信ぜられ、義経が大物[だいもつ]浦で荒い風波に遭[あ]ったのもまた、これ平家の怨霊の然らしむる業であると称せられている。
 動物においてもまた人と同じである。が、感覚が鈍なだけに、生霊の死霊のといった例は少ない。播磨守佐伯公行の子、佐大夫の親族、河内禅師という者が、黄斑の良牛を1匹所有していたが、その牛が突然行方不明となった。一夜、禅師の夢に、死んだ佐大夫が現われて、罪深くて、死後乗物なく、苦痛に堪えられないから、君の牛を5日間借りると告げた。やがて5日を経て、件[くだん]の牛は喘[あえ]ぎながら禅師の宅へ戻って来た(今昔物語)。これくらいが関の山である。
 しかし動物のなかでも人を化かすものは前代よりもしだいに増加し、その手段もまた巧妙となっているのは、多年の父祖の経験とでも申そうか。その化かす動物といえば、何といっても狐、これに次いで狸、猪、稀れに猫、蜘蛛[くも]、むささびという順序となる。

 いま狐の例をとれば、仁和寺の東、高陽川という所に狐があって、そこを日暮れて馬に乗って通る人があれば、必ず美しい童に化け、尻馬に乗せてくれと請い、狐とは知らずに乗せてやれば、4、5町で馬から落ち、狐になって、こうこうと鳴きつつ姿を消す。さる剛気な滝口が、その街道を通ると、案の定、女童が来たので、尻馬に乗せ、指縄[さしなわ]で縛り、土御門の御殿へ連れて入り、多勢の滝口から土御門殿の建築までたちまち掻き消えて、鳥辺野の中に居ったという、だまされも甚しい恐ろしい話がある(今昔物語)。
 いまひとつ、猪の例を説いてみれば、ある男、播磨国印南野を通ると日が暮れてきたので、とある菴[いおり]に宿った。夜更けて、火を点じ念仏して来る多勢の人がこの菴の前に近づいてきた。見ると、葬式らしい。やがて棺を埋め、塚を作ると、塚が動き出し、土の中から裸の男が肘[ひじ]や身に火が燃えているのを吹き掃[はら]って菴へ来る。この男驚いて、これこそ鬼に相違なしと、太刀を抜いて矢庭に斬って逃げた。夜明けて、ここへ来ると、墓も菴もなく、大きな野猪が1匹斬られていたのであった(今昔物語)。

 かくのごとく、動物が人に化け、多数の人や家を現わすのであるから、したがって植物などに化けることなどはきわめて容易なもので、狐が春日野で家2軒ぶりの大杉と化したこともある(今昔物語)。動物の生霊も、往々にして何々憑[つき]ということを起こしている。狐憑[きつねつき]などということもこの時代には盛んにあったもので、狐が女に憑いて、女が、われは狐なり、祟[たた]りをなしに来れるにあらず、など口走ることもある(今昔物語)。こうした場合には修験者に命じてこれを祓[はら]わせることになっていた。
 植物が化けた話は、器具・自然物の怪異とともに、この時代にはその例証に乏しい。
 食物の例であるが、さる僧が肝心の仏事を営まず、傀儡[くぐつ](遊女)を集めて遊び暮らしていたが、麦縄(素麺)を折櫃[おりびつ]に入れて多く蓄えていた。翌年、この折櫃を開くと、ことごとく蛇になっていた。まったく仏罰の然らしむるところである(今昔物語)。

 器物が化けるのは、当時の迷信として、器物はすべて精があり、これが仮りに姿を現わすのであると信ぜられていたのである。東三条殿に式部卿宮[しきぶきょうのみや]が住んで居られた頃、南の山を3尺ばかりの丈の五位の者が往来するので、陰陽師に占わしめられると、ものの気[け]で、銅の精のなせる業である。宮の辰巳[たつみ]の角の土中に埋っているとのことに、発掘してみられると、はたして五斗納[ごといれ]の銅の提[ひさげ]があったとある(今昔物語)。

 自然物では水の精の話がある。陽成院のおわしました頃、御殿の西の対で人が寝ていると、3尺ばかりの翁が出て来て、にわかにその顔が冷やかになったので、いち早く苧縄[おなわ]で縛りつけた。その翁が一生の願いに盥[たらい]に水を入れてくれというので、試みに入れてやると、頸を延ばすやいなや水の中へ落ち入って、姿は解け、盥の水がにわかに多くなって、縁から洩れこぼれた。これすなわち水の精なるものである(今昔物語)。

 なお、当時、妖怪として最も盛んに活動したのは鬼と天狗で、何といっても両大関の姿である。光孝天皇の御代、武徳殿の宴[うたげ]の松原を若い女が3人歩いていた。8月17日の月明であった。松の木の本に1人の男が佇[たたず]んでいた。が、男は3人のうち1人の女を引張って、松の木陰で女の手をとらえて物語していたので、他の2人は待っていたが、いっこう戻って来ないので、近寄って見ると、哀れや、いまの女の手足ばかりが散乱しており、男はいなかった。これも鬼の業である(今昔物語)。また、かの大森彦七が伊予国金蓮寺で1佳人に会い、背負うてゆくと、鬼の姿を現わした話も、かなり有名である(太平記)。また仁治の頃、伊勢から法師が京へ来たが、さる山寺の法師に伴われて所々方々を見物し、清水寺の鐘楼へ上がったが、たちまち法師に檜皮[ひわだ]と裏板[うらいた]との間に縛りつけられ、件の法師は天狗の姿と化して姿を消した(古今著聞集)。これらは、鬼、天狗の物語である。鬼、天狗は、ときとしてはまったく意想外のものに化けて人を誑[たぶら]かす。鬼が油壺に化けた話もある。小野宮実資が大宮通を通過すると、油瓶[あぶらがめ]が車の前を踊りつつゆく。ついにその瓶は、ある家の戸の鎰[かぎ]の穴から内へ這入[はい]った。すると、この家の娘が死んだという(今昔物語)。そのほか、妖怪では、清盛が福原に居るときにその邸の中庭に多数の髑髏[されこうべ]が上になり下になり、後には大きな1つの髑髏となって清盛を白眼[にら]んだ、などという凄い話もある(平家物語)。

 これらは主として平安朝にとったが、鎌倉時代もこれらと大差がない。以上を要するに、平安朝・鎌倉時代は妖怪変化に多少の増加を見、その能力が拡張せられたにすぎないので、いまだ根本的に大なる発展は見なかったのである。
 室町時代の応仁の大乱に至るまでも、大略、右の状態が持続した。ただ多少異なってきた傾向の1つは、幽霊の性質が明らかに詩的・知的になってきたことであろう。永享年中、義教将軍の臣、蜷川新右衛門が、鳥辺野を、夜、長刀をかついで行った。風もひとしお身にしむ秋の夜で、虫の声も秋を喞[かこ]ちがおなので、心の中にそぞろあわれを感じ、歌を案じていると、火葬の火の燃えた薪に向かって一人の女が坐しているので、恐れもせず独り坐しておわする心はと尋ねると、
  夏虫のもぬけのからの身なればや何か残りて物におそれる
という。蜷川は、しからば何者ぞと反問すると、
  岩松無声風来吟
というかと思うと、かき消すように姿を消したという(狗張子)。こうした幽霊の傾向が、謡曲の精霊の詩的な情緒を編み出したものである。 

 次にこの期に至って、動物のなかでも鼠などが大袈裟に人を欺[あざむ]くこともあった。京都四条の徳田某が、賀茂辺の古御所を買い求めて移ったが、一夜、衣冠正しい人が来て、自分の息の婚儀を執行するから御屋敷を今晩だけ貸して下さいと依頼に来た。承知して貸すと、その夜半、挑灯[ちょうちん]大小百ばかり2行に連り、輿、乗物、数々舁入[かきい]れ、貴賤男女2、3百人、珍膳奇羞につき、歓楽に満ちた。やがて風が灯火を吹き消したので、徳田が点火したが、そのときはもはや誰一人もなく、道具も主人の茶道具などはみな破壊されていた。独り床に掛けてあった牡丹花下の猫の1幅だけは無難であった。主人の友に村井澄玄という老人が、それは老鼠の業であろうと評していた(狗張子)。道具が化けるという思想は、康保の頃からあるという伝説であるが、室町時代には大いに発達したのらしい。『付喪神[つくもがみ]草紙』に、
  陰陽雑記に器物百年を経て化して精霊を得てより人の心をかす。これを付喪神と号すといへり。
とあるのは、すなわちこれで、かの『百鬼夜行絵巻』や『付喪神草紙』の画はこの思想に基づいていることが多い。  
 また、この期には、妖怪の方面にもさまざまの奇異なのが生じた。足利直義の館には、身を笈、頭は山伏[やまぶし]で、口に刀の折れたのを喞[くわ]えているものが寝所へ出たこともある(本朝続述異記)。また仙洞では、1匹の犬が2、3歳の童[わらべ]の生首を喞えて御殿の棟木[むなぎ]へ上がり、西に向かって3声吠えて消えたこともあった(太平記)。

 これを要するに、仏教伝来から室町時代の応仁の乱頃までは、明らかに1つの特徴ある時期といってよい。すなわち、この時代に妖怪変化というものが、ほとんど各種物象から出揃うた時代であった。が、動物が死して霊となり、とくにある人に見えることはまだない。妖怪変化の理知が発達していないため、極端な能力を発揮することができなかったことと、妖怪変化のいわゆる代表者のみが活動していて、いまだその各員が活動するに至らなかったのである。しかるに次の第4期の戦国時代からは、妖怪変化に関する伝説は俄然として増加し、彼らどもの最も活躍の時期に入るのである。

 戦国時代から江戸時代末期に至る約4百年間は妖怪変化跳梁の時代である。まず人間から始めると、生霊は精神的、具象的の2種となり、死霊、幽霊のほかに1つの病的変化が加わった。

 生霊の例を引くならば、京都西の京に江崎源八という人があった。妻との間に子がなかったので、妻にも承諾させて妾の腹に出来た源太郎という子を自分の家へ引き取った。しかるに、あるとき、寝ていた妻の鼻の穴から1匹の蜘蛛[くも]が出てきて、源太郎の耳の中へ入った。源太郎はただちに悶死した。これ前妻の生霊のなせる業であるとて、妻に暇を出し、自らは遁世したという(怪醜夜光魂)。生霊がその姿を現わす例では、越後国蒲原[かんばら]の宇平次という百姓の娘、沼垂の進之丞という青年の美貌に心迷わし、夢寐[むび]、彼のことを思いつめていたが、一夜、進之丞が丑満[うしみつ]の頃、書見をしていると、雨がひとしきり降って、心寂しくなったとき、前栽の繁みに青い光が燃えると同時に、娘の姿が現われ、この夜から一つ衾[しとね]に二世かけて夫婦の契りを結んだ。そのうちに娘は1子を分娩した。宇平次方では、娘が外出の覚えがないのにこの始末で、不審にたえず、これを娘に質[ただ]すと、ただ毎夜、進之丞方へ通う夢を見ていたばかりであると答えたので、これ遊離魂のなせる業とて、ついに正式の夫婦としたという(拾遺お伽婢子)。

 死霊の例としては、但馬国城崎郡に、平家の侍、越中次郎兵衛盛継の塚がある。湯元の与八という者、この塚の前を通ったとき、友を顧みて、平家の臣のなかでも忠光、景清、みな源頼朝をねらったが、この盛継ばかりはねらったこともなく、暗々[やみやみ]とここで討たれ、志は劣っていたと悪口して通ったが、家に帰るとたちまち発熱し、えらい勇士を貶[そし]ったことが口惜しいと飛び上がって狂った。彼の伯父、祖泉という禅僧が、彼に向かって、なんじ何者ぞと尋ねると、彼、われこそは越中の盛継なり、平家の御内[みうち]にて忠光、景清、盛継は命を全うして源氏の大将一人なりとも討取り仇を報ぜんと落ちゆき、われはこの山中にあって時節を待ちしに、運尽きて見あらわされ、討たれしこそ口惜しけれ、わが塚を尊ぶこそ本意なれ、われを譏[そし]ること腹だたしやというので、祖泉は払子[ほっす]で、
  堕‹二›在無間‹一›、五逆聞雷、喝十瞎驢、死眼豁開。
と大喝したところ、与八は手を合せて、ありがたき御示しにより悟道しましたといって、正気に返り、同時に霊は去ったという(拾遺お伽婢子)。


 次に幽霊に関して例を引くと、慶長の頃、成田治左衛門という武士があった。京都に居た頃、さる美女と深く契ったが、3年を経て女は病で空しくなった。末期[まつご]のとき、その女が成田の手をとって涙を流し、形は煙となり土となっても、魂は永久に君の側を離れませぬといったが、はたして死後数十日を経てより、夜更けて亡妻が来たって、枕もとに寄りそい、打し萎[しお]れた姿を見せた。成田は気味がわるいので、大坂へ逃げたが、また大坂へも出た。成田はかくして、ついに霊に侵されて空しくなってしまった(怪談登志男)。これは恋愛の幽霊である。こうした幽霊話は無数あるが、割愛して、人が動物以下に化けた例を申そう。
 人間は生きているうちに動物になることも、ときとしてはある。永正年中に洛西鳴滝に彦太夫という百姓があり、性無動で、神仏を信ぜず、乞食に物を施さず、母に早く死ねなどと悪口していた。5日間の病気でついに狗[いぬ]になり、食物も食せず、ついに百日目に死んだという(狗張子)。
 これは生前の出来事であるが、また死後に転生することもある。慶長の頃に武蔵国千住の郷に住んでいた1人の百姓の娘はきわめて眉目秀麗であった。近所の弥一郎という男、この娘に恋いわたり、千束の文を遣ったが、娘は見向きもしないので、ついに恋死してしまった。さて娘の家では適当な婿を選び、婚礼をさせたが、その翌朝、夫婦が起きないので老女が部屋へ入って見ると、婿、哀れ、息絶えておって、蛇が眼、鼻に入っていた。これ、恋死した男の婬蛇であった(怪談登志男)。
 虫になった例もある。宝暦の頃、下野国に吉六という男が住んでいたが、六兵衛という村の衆に軽蔑せられたのを遺憾に思い、ついに彼を殺したが、自分も獄舎の中にほうり込まれ、中で死んだ。しかるに吉六の妄魂は虫となって、人を恐怖させた。これを「吉六虫」という(怪談登志男)。大谷広円という僧が蛸[たこ]に化したのも面白い例である(都草子)。
 人が骸骨になって動き出すというようなことも古くからあったことであるが、この時代にもあった。長間の佐太という人が、文亀年間、洛北蓮台野を通過したところ、古塚に光りがある。見れば、一具の白骨が起ち上がり、佐太に抱きついてきた。佐太少しも驚かず、力まかせに突き倒した。白骨は、頭、四肢、離ればなれとなって倒れたが、光りも消えたということである(拾遺お伽婢子)。
 なお、この期には、前述のように病で妖怪となる人がある。「寝太[ねぶと]り」は、寝てから後に身体がだんだん太く膨[ふく]れるもの(桃山人夜話)、「二口女」は、頭の後ろにも口が出来て食物を両方から摂取するもの(桃山人夜話)、ことに「轆轤首[ろくろくび]」というのは、人間の頸[くび]が漸次延びて飛行するものである。絶岸和尚という僧、肥後のしころ村という所に宿ったが、風凄じく、寝られず、夜更けて念仏していると、丑満の頃、その家の女房の首が抜けて出て、窓の破目から外へ出、その首の通うた跡には白い筋が見えていた。夜明け方に筋が動き出して、また首は元に戻った。昼になってその女房の頸を見れば、頸の周囲に筋があったという(百物語評判)。これすなわち過去の業因である。
 いまひとつ、病気として不思議なのは、離魂病というものである。これは一身で両身に見える病である(玉箒木、狂歌百物語)。
 次に動物の方面で観察すると、動物にもまた人間と同じく生霊、死霊、幽霊がある。生霊の例では、京堀川の仏具屋宗兵衛方は丁稚[でっち]を使いに出したが、因幡薬師の門前で肩に何か物があるように感じて帰り、その裏口で突然笑い出した。宗兵衛が尋ねると、自分は因幡薬師に年久しく住んでいる狐であるが、昨日、薬師の藪の中で寝ているのを驚かした者があったので、恨めしく思う矢先、この丁稚が通ったので、この者の所業と心得、
そのまま取り付いたら、人違いであった。それがおかしさに笑うぞ、といったとの話がある(太平百物語)。
 これは生霊、俗に狐憑[きつねつき]というやつであるが、死霊のほうの話では、備中国に松浦正大夫という侍があった。生来、殺生を好んでいたが、手飼いの猫を殺したので、その霊が妻に憑き、夫婦、奥の間に臥居[ねい]たとき、女房、にわかにものに襲われ、手足で這[は]いまわり、御身は情なき者かな、われ、なんじの仇となりしこともなきに、よくむざむざ殺せし、この恨み晴らさんと、いまなんじの妻の皮肉[ひにく]に入ったり、見よ、10日のうちに責め殺さんぞ、といったとある(太平百物語)。これすなわち動物の死霊の憑いた結果である。
 いまひとつ、動物の死霊が祟[たた]った例では、江戸の煙草屋の長兵衛という者、飼っていた大猫が雨に濡れたまま夜具へ入ったというので、その猫を殺したが、後に彼の右の腕が痛み出し、ついに腕首に猫の毛が生え、翌年、猫を殺した日に死んだという(行脚怪談袋)。
 また鼈[すっぽん]は昔から執念深いものとなっているが、丹波の、ある百姓が鼈を売って渡世していたところ、鼈の怨念はついに10丈の高入道となって出現した。この百姓の子が生まれると、その子は上唇[うわくちびる]が尖[とが]り、眼が丸く鋭く、あたかも鼈のごとくで、髪は身よりも長く、手足に水掻[みずかき]があり、母の乳を吸い出し、蚯蚓[みみず]を食するの常であった(旅の曙)。
 天文の頃、宇佐美の藩士、斎郷内蔵介家では、犬の霊がお吉という娘の侍女に化けた話もある(怪物輿論)。
 しかし動物の生前に化けるのは、その例いくらでもある。なかんずく狐、狸、鼠、猿、獺[かわお(ママ)そ]、鯰[なまず]、猫、女郎蜘蛛[じょろうぐも]、亀、狗、猪、蛇、蛙、蚖[いもり]をもって最も多しとし、ことに狐狸が最大多数を占めている。
 この狐狸は、あるときは人、あるときは他の動植物、あるときは建築物・器物、あるときは他の妖怪に化ける。いま人の例を述ぶれば、播州竜野で狸が、先年死んだと同様の人に扮して2階から下りて来たことや(小夜時雨)、俳人嵐香が、上州玉川を通ると、1人の僧が蔓[つる]を頭と手に巻き、念仏しているので、聞いてみると初めて正気がついた。かの僧いわく、昨夜、狐が団子を食おうとしたので、杖で打ったが、後、独り山道を歩行[ある]いていると、大名の行列が通った。供の者が私を捕えて高手小手に縛[いまし]め、首を刎[は]ねるというので、こちらも再三詫びたが、許されず、いまはこれまでと観念し、合掌して目を閉じ、一心に阿弥陀経を読誦していたところ、太刀取、われを呼ぶよと思ったが、それが御許しであった。そして縄と見えたのはこの蔓であったと答えたという(行脚怪談袋)。また狸が建造物になった話もある。ある人が京の建仁寺三門が東方に出来ているので、不審を起こして通っていると、そこへ飛脚が馬を連れて通ったが、馬の嘶[いなな]きが聞こえるとにわかにその三門が消滅した。これ、狸が三門に化けていたのが、日頃恐れている馬が来たので、逃げたのである(怪談見聞実記)。
 なお他の動物の化けた例を2、3述べると、猫のは、京都の本行院という寺に川口甚平という人が、和尚に会いに来て、ふと3疋の子猫が女に化けて居るのを見、驚いて、これを和尚に告げた。和尚も驚いて、早速3疋とも追放した。猫は甚平を恨み、甚平はこれから何となく苦しみ出し、猫の俤[おもか]げが身に添う病となって、ついにはかなくなったということである(太平百物語)。
 亀と蟇[ひき]とが化ける例は、京伏見街道朽木橋橋詰の嘉衛門という農夫が、9尺ばかりの2人の法師に遭い、それに連れられて霞谷の洞窟の中へ入れられた。件[くだん]の法師がその窟の口に番をしていたが、2人の睡眠を見計らい、嘉衛門は鋤で2人を斬り殺して帰宅した。いかにも不審でたまらず、翌日行って見ると、窟口に1尺ばかりの亀と蟇が打たれて死んでいた(狗張子)。
 蜘蛛の例では、美作国高田の弥六という郷士が、別荘で竹縁に端居して仮寝していると、女郎蜘蛛が女に化け、一夜の枕を交さんと勧め、ついに大廈[たいか]高楼へ伴いゆかれた話がある(太平百物語)。京都五条烏丸に大善院という寺がある。山伏覚円が泊すると、夜二更、風雨山を崩すような音がして堂内震動すると、天井から大きな毛の生えた手が出て、覚円の額を撫でたので、覚円はたちまち刀で切ると、たしかに手応えがあって、ついに長さ2尺8寸ばかりの大蜘蛛となった(狗張子)。
 鼠の例では、朝倉藩の平井某が独酌で酒をのんでいると、丈3寸ばかりの冠服の者、14、5人の手下を率いて通過したが、そのうちの2人が皿の中へ入って魚を取らんとしたので、某はこれを射殺した。後、長官7、8名が叩頭して謝罪に来た。これ鼠の化けものであった(夜窓鬼談)。
 蛇が化けた例は、佐田源内という武士が琵琶湖畔で、ある美人に誘われ、いうがままにその美人の住居たる金殿玉楼の中に入って一夜の契りを結んだが、朝起きて見ると、蛇の窟に居たので、初めて蛇に誑[たぶら]かされたことがわかったという話もある(拾遺お伽婢子)。
 猿の例では、信州駒ケ嶽の麓に老を養う夫婦が1人の娘をもっていたが、ある日、その国の国守の使いと称して、むくつけな男が長剣を帯し、供人大勢を伴い、しばしば来たって娘を貰いに来た。夫婦は夢のような話をいぶかり、ある僧にこれを相談したが、僧がこれを聞いて哀れを催し、呪[まじない]を教えて、万一の用心とした。その使者これを知らず、ある日また娘を所望に来たところ、僧に教えられた法を修したので、火がたちまち室内から燃え出し、使者を焼き殺した。その使いは6尺あまりの猿となって死んでいたと(お伽空穂猿)。
 獺の例としては、獺が甚太郎という少年に化け、孫八というものと相撲[すもう]をとった話もある(太平百物語)。蚖の例では、蚖が濠の中から出て来て、6人の大坊主となり、佐渡の金満家、儀右衛門の妾を夜間、石磐ででもおさえつけるように圧えつけた。その臭い呼吸が鼻に入ったときは酒に酔ったようになった。それで隅田小太郎という勇士がこれを退治た話もある(北陸奇談)。

動物が動物に化けた例もある。俳人向井去来が紀州を旅したとき、1人の男と道連れになったが、海岸へ出るとその男は、望みの所へ来たと大いに欣[よろこ]び、別れを告げた。去来、その由を尋ねると、男いわく、われは真は千年を経た白蛇で、今は行の終りである、天命により天上して竜となるのであると答えたが、たちまち颶風起こって砂塵を捲き、雨は車軸を流し、逆浪起こると、黒雲が上より蔽いかかった。男はたちまち白蛇となり、波の中に姿を見せ、海浪を蹴立て、長霓[ちょうげい](虹)のごとく天に上がったので、去来はじめ駕の者も、生きている気もしなかったという(行脚怪談袋)。 

 狐狸は化けるとまでいかなくても、復讐することがある。江戸の品川の巨作という人が、浅草の常心という人の所へ訪れる途、堤上に狐がいたので石を投げたが、さて常心の所で談笑していると、夜更けて大石を烈しく投げつける者があるので、その復讐とわかったという(太平百物語)。

 植物が化けるということもあった。植物には松、槐[えんじゅ]、榎[えのき]、柳、芭蕉などがその例をもつ。
 甲州身延山の槐が年古[ふ]って精が留[たま]り、通行の人が器物、衣類を供えて通らなければ祟[たた]りをした。茂次という百姓が母親の急病で、供物をせずに通ったが、精は甲冑の武士となり、追いかけて来たので、茂次はいろいろと謝し、宥[なだ]め賺[すか]して許されたという(太平百物語)。

 植物はさすがに、動物のごとく感情がないので、生霊、死霊もない。幽霊もない。ただ精が抜けて仮りに別の容姿を現わすのである。参州賀茂郡長興寺の門前に二竜松という松があった。これが童子となり、寺へ参って硯[すずり]を借り、詩を題した。
  客路三川風露秋
  袈裟一角事‹二›勝遊‹一›
  二竜松樹千年寺
  古殿苔深僧白頭
 そして2人は松の蔭へ入って姿を消してしまった(百物語評判)。
 また、榎の精や、三十三間堂棟木由来の柳の話もあるが、活山居士という隠士が美濃国大井の里に世を外に住んでいたが、ある中秋、1人の嬋娟[せんけん]たる美人が来て、一夜の宿を乞うた。居士はこれを許したが、寝室を別にして臥した。するとその女はしきりに同衾を迫った。居士は困って、手を取って突き出すと、軽きこと一葉のごとくであった。居士は、翌朝、その女の行方を見届けると、ある芭蕉の葉に詩が書いてあった。
  緑袖羅衣粧‹二›月明‹一›
  有情何事却無情
  通宵許同床夢
  頻控華鐘報暁更
 そこで芭蕉の精と知れたということである(お伽厚化粧)。豊太閤が堺妙国寺の蘇鉄[そてつ]を桃山城中に移植したとき、芭蕉の精が一老翁になって堺恋しいという詩を吟じたので、旧園に移したのも、有名な挿話になっている(夜窓鬼談)。

 次は器物の化けもので、これも箒、団[うちわ]、笛、碁石、木像羅漢、仁王、面、絵馬の例がある。摂津国花隈の城主荒木氏の臣、塩田平九郎、諸国流浪の末、故郷へ帰り、とある荒屋へ宿ると、3人武士の関東の合戦の談話を隣りの間でひそひそしているのが聞こえるので、灯火を点じて行って見ると、姿は消えて俤げもない。それで不審に思い、家内を捜すと、箒と団と笛があって、塵土に埋もれていた。それでこの3種のものを山際に埋めて、厚く葬ったという(狗張子)。
 碁石の例は、江戸牛込の清水昨庵という、いたって碁の好きな人が、柏木村円照寺で逍遥していると、寺の門前に色の白い人と黒い人が居って、馴染になった。その名前を聞くと、1人は山家のもので知玄、1人は海辺の者で知白というかと思うと姿が消滅したので、これが囲碁の精とわかったという(玉箒木)。
 面の例では、泉屋銀七という者が、あるとき老母の隠居へ行ったところ、遠寺の鐘9ツを打ち、北風烈しくなった。そのうちどこからともなく1人の女髪を乱し、空色の布子[ぬのこ]に紺の前垂して上り口に後ろを向いて顔を見せない。銀七その名を聞くに返事もない。不審に思って上り口へ行こうとすると、件[くだん]の女は味噌桶のほうへ向かったが、いつしか姿は朦朧[もうろう]として消えた。銀七はそこで、その妖を捜すと、春日の古面が出て来た。銀七はこれこそすなわちその女の主と、早速、村の社へ献上したので、妖魅もなくなった(お伽厚化粧)。古面の化けることは「面厲鬼[めんれき]」とて、古からあることという。
 仁王の例は、武蔵国足立郡箕田の勝願寺の仁王は、白昼、婦人、小児を脅し(お伽厚化粧)、羽後国の羽黒山麓の某寺の十六羅漢は肥後の優婆塞[うばそく]が宿ったときに動き出した(夜窓鬼談)。
 また浅草の駒形道安という人、絵馬の研究に熱心であった。あるとき雨に遭い、さる堂で通夜していると、絵馬の精が現われ、制作上の秘訣を教えた(夜窓鬼談)。大磯の化地蔵というのは、石の地蔵が化けたことで(怪談そうし)、これらは器物の化けた例である。

 次に自然物の化けたものには雲雷、花精、雪などがある。秀吉がまだ羽柴筑前守といって姫路に居た頃、城の脇に榎の樹があった。ある夏の日、雷がその樹に落ちて樹が2つに避けたが、雲霧深く閉じこめて樹は動揺し、なかなか晴れなかった。秀吉大いに不審がっていると、天に声あり、自分は雲雷であるが、榎に挿まれて天に上られぬ、君願くは仁愛を垂れて、われを再び天上に上らし給えと聞こえた。秀吉は早速、臣にこの樹の股を裂かさせ、雷は無事に天に帰った。秀吉の出世は雲雷の利生を施した結果であると伝えられている(拾遺お伽婢子)。

 花精の例では、京の平春香が小金井に桜見に行って、さる家で一佳人と一夜の契りを結んだが、夜明けて家も人も見えなかった。後、この佳人と同様の容貌を有した佳人と京の丸山で面会し、昵近[じっこん]となり、たがいに相慕うに至った。その佳人がかつて清水で顚倒して死んだとき、蘇生せしめた一僧からもらった信契が偶然と彼の信契と一致していたので、ついに夫婦になったという(夜窓鬼談)。これ花神である。

 以上はすべて変化に属するものであるが、次に妖怪について述べよう。妖怪の特徴は前述のごとくその所生・素性の不可解なるものであって、したがってその形式が人間らしくて人間にあらず、動物らしくて動物にあらず、植物にせよ、自然物にせよ、世上に存在する諸物象のなかに加えられないものばかりである。人らしいものでは、奈良元興寺に住する「元興寺[がごぜ]」、海中に住する「海座頭」、雪の夜に朧ろげに立つ「雪女[ゆきおんな]」、松の木の上に大きな姿を見せる「見越入道[みこしにゅうどう]、姫路城などの古城に住する「長壁[おさかべ]、近江国甲賀郡を夜更けて通る「片輪車[かたわぐるま]」、車の中に恐ろしい顔がある「輪入道[わにゅうどう]」、「三ツ目小僧」、「一ツ目小僧」、深山中の「山姥[やまんば]」、柳に出る「柳婆[やなぎばばあ]」、目鼻がなくて黒歯ばかりの「歯黒べったり」などがそれで、動物らしいものでは、川に住んでる「河太郎」、山中に住する「覚[さとり]」「山男」「山地々[やまじじ]」、毛の多い「毛羽毛現[けうけげん]」など、器物らしいものでは、鞠[まり]のような「千々古[ちちこ]」などがある。人間と動物を兼ねたものは「天狗」「人魚」、何のなかにも入らない「のっぺらぼう」、火の燃える姿の「提灯火[ちょうちんび]、形の見えないもので女の髪を切る「髪切[かみきり]」、寝ている最中に枕を返す「枕返し」などがある(狂歌百物語、桃山人夜話、百鬼夜行)。

これらの妖怪の大部分は勇士の剣戟にかかれば斬殺されてしまう。しかし怨恨によって幽霊となるほど執念のあるものも少ない。が、ときとしてはこの妖怪が化けて、人を瞞着するものがある。筑後国柳川辺りには河童多く、あるとき、藩士の妻、寺へ参詣した途、茶店に美童が居って、しきりに自分に挨拶した。おそらく僧の寵童かと思っていたが、やがて童は秋波をしきりに送りながら妻に近づいて手を握ろうとする。妻は怒って、早速その場を立ち去り、堂内で香を焚[た]いていると、また童が手をとって誘おうとする。妻はさすがに武士の妻らしく、その手を捻ったところ、童は号泣して去った。さて妻はそのことを僧に話すと、僧はそのような童はまったく知らぬといった。妻は不審に思って帰宅したが、雪隠[せっちん]に入ると、誰かが手を延ばして秘所を探った。妻は刃でその手を切ったところが、三指、長爪、蒼黒で皮滑らかなものであった。程経て以前の童が来て愛隣を乞い、手の返却を乞いに来た。妻がその素性を尋ねると、河童であると答えたという(夜窓鬼談)。

 江戸時代の妖怪変化界を通観すると、1は、妖怪が非常に増加してきたこと、2は、幽霊が従来は何か要求・告知するところがあって出現したものが多かったが、この期には愛着あるいは怨恨の復讐のため種々の容姿をかりて出現するものが多くなった。それゆえに凄惨の状態が前代に見るべからざるものが多くなった。動物のなかでも狐狸が多くなり、その瞞着の方法が大袈裟に、かつ巧妙になってきた。

 これを要するに、人間、動物、植物、器物、自然物はすべて仮象的のもので、森羅万象は相互にすべて密接なる関係を有しており、ただ1つその執念さえあれば、いずれの物象に適帰することができるのが妖怪変化であった。