夏に訪れた東京都府中市の記事です。

 

京王線府中駅で八王子行または高尾山行の特急に乗ると、次は分倍河原駅です。

 

分倍河原は、新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼした際に北条軍と激突した戦場として有名です。『太平記』にも、その戦いの模様が詳細に述べられています。鎌倉幕府が滅びたことで鎌倉時代が終わるわけですから、その意味で分倍河原の戦いは、次の南北朝時代の幕開けを告げる戦いともいえるかもしれません。もちろん厳密には、足利尊氏が光明天皇を擁立して後醍醐天皇と決裂することにより南北朝時代となるわけですが。

 

というわけで、史跡の分倍河原古戦場です。

 

分倍河原古戦場の石碑です。

 

東京都教育委員会の説明板。

 

東京都指定旧跡 分倍河原古戦場  

所在地 府中市分梅町2-59 新田川分梅公園  

指定 大正8年10月
. 文永(1274)、弘安(1281)の役を経験した頃、北條執権政治は根底からゆるぎ御家人救済の方法として徳政令を発布したが、これがかえって政権破滅の速度を早めた。元弘3年(1333)5月、新田義貞は執権北條高時を鎌倉に攻めるため、上野・武蔵・越後の兵を率いて上野国新田庄から一路南下し、所沢地方の小手指ヶ原で北條方の副将長崎高重・桜田貞国を破り(5月11日)、さらに久米川の戦で優勢に立った。北條方は分倍に陣を敷き、北條泰家を総帥として新田勢を迎撃した。新田勢は敗れて所沢方面に逃れたが、この時武蔵国分寺は新田勢のために焼失させられたという。その夜(5月25日)、新田勢に三浦義勝をはじめ相模の豪族が多く協力し、16日未明再び分倍の北條勢を急襲し、これを破って一路鎌倉を攻め22日に鎌倉幕府は滅亡した。

 平成10年3月建設  東京都教育委員会

 

裏に碑文があるのですが解読できず、とりあえず写真を撮っておいたのですが、御覧のとおり逆光でまったくわからず・・・。

 

このあたりは緑道になっています。ここは「新田川緑道」ですが、府中市には、それ以外にもたくさん緑道がありますね。

 

石碑は緑道沿いにある、ぐらいに思っていたのですが、上記の説明板では所在地が「新田川分倍公園」となっていますね。

 

緑道を挟んで地図の反対側にある標識もパシャッとな!

 

 

横断歩道の向こうも緑道が続いてます。渡った先の右が分倍橋公園となっていますが、花壇があるぐらいでした。

 

公園の写真も含めて、この周辺を撮影した写真がいろいろとあるのですが、サイズが大きくてアップロードできなんだ・・・。

 

なので、今回はこれで終了といたします。

 

府中市を訪れた際には、緑道を散歩するかたわら、ぜひ分倍河原古戦場の石碑も見に行ってください。