以下、『エッセイで楽しむ日本の歴史(上)』(文春文庫)より引用&作成

 

 

 

p.351~355

早良親王の憤死

林 陸朗


“歴史は繰り返す”というのは嘘であるが、同じような条件や事情によっては、似たような結果になるというパターンはある

これまでは不分明であった践祚と即位とが日をおいて別儀として行われ、立太子が桓武の践祚の翌日、即位の義の前であったことは、早良の立太子は光仁の意図であったことを推定させる。

山田英雄、高田淳
早良親王は立太子の直前まで出家法体の身だった
 
早良親王は11歳で出家し東大寺の等定を師とし、羂索院(三月院)に住んだ。
その後21歳で受戒して修練・修学をつみ、大安寺の東院に移った。
宝亀元年(770)父光仁天皇の即位によって親王号が授けられたが、そのまま大安寺に住し、後また東大寺に戻った。
東大寺においては親王禅師という異例な称をもって重んぜられた(『正倉院文書』)

良弁僧正の後継者として、東大寺の全般とともに造東大寺司の指揮権を持つ地位にあった=良弁没後の東大寺に君臨する存在であった

皇太子となった早良親王の周囲は、東大寺派あるいは平城京派ともいうべき人達にいっ固められた。
 
延暦3年(784)2月、大伴家持は中納言春宮大夫のまま持節征東大使に任ぜられた。ときに家持は67歳
↑家持を長岡遷都の議から外すため