以下、新谷尚紀『神社の起源と歴史』(吉川弘文館、2021年、p.225〜230)より。

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神社の多様性が意味すること エピローグ

神社の起源と稲の祭り
 本書では、数多くの指摘を行なった。その中のいくつかの要点を記しておくならば、以下のとおりである。
 神社は漢語である、和語ではない。その神社の語が使われるようになる早い例は、律令制下の神亀[じんき]2年(725)の詔や、宝亀[ほうき]8年(777)の太政官符である。古くからの和語としては、宮[みや]と社[やしろ]が使われていた。宮は、一つには大和[やまと]王権にとって重要と位置づけられた神の宮、もう一つには天皇や皇后をはじめ皇族の住む建物の宮という意味であった。それに対して、社は、人間の住まいではなく、自然の神、神霊をまつる場所、もしくは建物という意味で用いられていた語であった。折口信夫[おりくちしのぶ]は、御屋[みや]と屋代[やしろ]という字をあてて解説している。
 日本の神社の起源は、「稲の王」である天皇の祈年祭と新嘗祭など豊作祈願の神祭りの対象の定置にあった。そのもとは、古墳時代の日本各地の「稲の王」たちが、磐座[いわくら]・禁足地・聖樹などを目印として、神籬[ひもろぎ]、注連縄[しめなわ]、仮設の宮や社、を設けてまつるかたちであったと考えられる。しかし、日本の神社の起源といえば、あくまでも統一的な王権である天皇の稲の祭りがその原点であり、起源である。時代的にいえば、天皇の出現の時期である4世紀中期頃と考えられる。日本の神社の歴史は、天皇という王権と密着しながらその延長線上にあるのである。
 なお、長野県の諏訪[すわ]社の御頭祭[おんとうさい]や御射山祭[みさやままつり]、宮崎県山間部の椎葉神楽[しいばかぐら]や銀鏡神楽[しろみかぐら]における鹿肉や猪肉の神饌の例などの伝承からは、日本の神事祭礼が稲作だけでなく狩猟にも関係する収穫感謝の祭りでもあった歴史が重層している点にも注意する必要がある。しかし、それらは神社祭祀の中に狩猟の祭りの要素が混在しているかたちであり、日本の神社の祭りが、天皇の稲の祭りを基本として、その歴史を刻んでいることに変わりはない。

律令神祇祭祀の形成と展開
 律令神祇祭祀の形成は、600年の遣隋使派遣による文化衝撃を起点としていた。それは沖ノ島遺跡の212号遺跡出土の金銅製紡織具や金銅製人形などが神宮祭祀や大祓の神事に通じる器具であることから指摘できる。
 律令神祇祭祀の整備は、天皇のシャーマン shaman 的な性格からの脱却と、忌人 imibito 忌火的な性格からの脱却と洗練の実現であった。シャーマン的な天皇の役割の、代役としての職掌として整備されたのが、神祇伯[じんぎはく]が管掌する御巫[みかんなぎ]や卜兆[ぼくちょう]の職掌であった。伝統的な天皇の属性としての聖なる「忌人 imibito 」としての機能の、代替的な職能と儀礼として整備されたのが、散斎[あらいみ]・致斎[まいみ]と大祓という儀礼とその奉仕であった。

伊勢神宮と出雲大社の創祀
 伊勢神宮創祀の歴史は古いが、その最終的で画期的な時点とは、天武の皇女[こうじょ]、大伯皇女[おおくのひめみこ]が、天武2年(673)4月に泊瀬[はつせ]の斎宮[さいぐう]に籠もり、翌年10月9日に伊勢へと出発した時点である。伊勢神宮の内宮[ないくう]はおよそ北緯34度27分、外宮[げくう]はおよそ北緯34度29分に立地しているのに対して、持統天皇が造営した新益京[しんやくのみやこ]の大極殿の土壇はおよそ北緯34度30分である。神宮の天照大神が宮都の持統天皇のまつりごとを守る、という体制を創出したのであった。
 20年ごとの遷宮[せんぐう]は、天照大神の御正体の神鏡の、20年ごとの東西軸の往復運動であり、動き続ける神としての性格を伝えている。それは同時に、中国的な王権の南北軸で造営された新益京と対応して伊勢神宮も南北軸で創建されているが、伝統的な稲の王としての天照大神と皇孫の天皇にとっての太陽の運行に沿う東西軸の往復運動の継続の表象である。
 出雲大社の祭祀の原初を表象する祭具は、弥生時代の翡翠の勾玉と青銅器の祭具(銅鐸・銅戈・銅矛・銅剣)であり、その淵源は古い。しかし、出雲大社の巨大な社殿の造営は6世紀半ばの欽明期であった可能性が高い。

古代の神社祭祀の段階差を示すその多様性
 古代の沖ノ島遺跡や三輪山遺跡のほか、現在でもたとえば三重県熊野市の花窟神社[はなのいわやじんじゃ]や大阪府交野市[かたのし]の磐船神社[いわふねじんじゃ]など日本各地に存在するのが磐座祭祀という形式である。また、近世以前までみられた石の上神宮のような禁足地祭祀という形式もあり、伊勢神宮の遷宮や信州の諏訪神社[すわじんじゃ]の御柱祭[おんばしらまつり]のように殿や柱が祭祀の中で更新されるいわば動態祭祀という形式もある。出雲大社のように岩根柱を中心に不動の姿勢で継続される社殿祭祀というような形式もある。
 そのような神社祭祀の形式の多様性については、神社の設営と祭祀が日本の歴史の中で経験してきた段階差を示す歴史情報として読み取り比較研究する方法が有効である。神社の歴史の中には伝承と変遷という2つの動態が刻まれているのであり、たとえていえば、パソコンデータの上書きと消去の繰り返しである。ただ、歴史上かつていったん上書きされたデータは永遠に消去できないところに伝承の特徴がある。民俗伝承学はそこを見逃さないのである。

春日社の変遷
 春日社[かすがしゃ]の祭地は、天平勝宝8年(756)「東大寺山界四至図」に御蓋山とその山麓の「神地」と注記された頃には、春日神を祀る神域はあったがまだ社殿はなかった。社殿は、神護景雲2(768)に御蓋山の山腹に左大臣藤原永手[ふじわらのながて]が創建したという伝えが古い。春日社の祭神は、『続日本紀』の宝亀8年(777)の藤原良嗣[ふじわらのよしつぐ]の病気平癒を祈った段階では、常陸国の鹿島神[かしまのかみ]と下総国の香取神[かとりのかみ]の2神であった。しかし、『続日本後紀』の承和13年(846)の藤原常嗣[ふじわらのつねつぐ]の航海安全祈願の段階では、鹿島神と香取神に加えて天児屋命[あめのこやねのみこと]と比売神[ひめがみ]という4柱大神へと変わっていた。そして、氏神の意味が氏族の守護の神から先祖の神へと展開していた。

式内社と二十二社
 律令神祇制下の神社の体制は、『延喜式』神名帳に載せられている式内社[しきないしゃ]を基礎とするかたちであった。その数からみれば、畿内645座と天皇王権の基盤的な範囲に多く、それ以外では、陸奥が100座と圧倒的に多い。北陸道の若狭22座、越前126座、加賀22座、能登43座、山陰道諸国の五60座、西海道の壱岐24座、対馬29座、というその多さが注目される。つまり、畿内の安穏祈願、蝦夷征討、朝鮮半島に対する防衛と安全保障、という配置がその特徴であった。
 それに代わる平安祭祀制下では、王城鎮守としての二十二社、国鎮守としての一宮[いちのみや]という体制が成立していった。その中で、古来の式内社ではない祇園八坂神社[ぎおんやさかじんじゃ]や石清水八幡宮[いわしみずはちまんぐう]への信仰が高揚していった。

氏神・鎮守が示す歴史の動態
 氏神と鎮守という観点の事例研究として、和歌山県の隅田八幡宮[すだはちまんぐう]がもともと中央の権門寺社にとっての荘園鎮守社として創立された神社であったのが、中世には在地武士の隅田党[すだとう]の氏神へと変化し、近世には農村の村人の氏神へと変遷する動態が追跡された。そして、旧来の放生会[ほうじょうえ]や流鏑馬[やぶさめ]や宮座[みやざ]の喪失と、新たなだんじり屋台の登場、また祭日の旧暦8月15日の放生会から新暦10月15日の秋祭りへという伝承と変遷の動態も追跡された。
 郷村や町場を含む日本各地の地域社会では、氏神や鎮守の神社が祭られているだけでなく、それ以外にも大中小さまざまな神祇が神社や小社や小祠また巨岩や大樹や聖別される杜などのかたちで信仰の対象となっている。それらを一まとまりのものとして把握し比較していくという方法の有効性を示した。そして、そのような神祇の多様な存在形態とは、日本の神社がたどった過去の歴史の一コマずつをあらわしているものだということを指摘した。
 私たちの目前にある日本各地の神社の大小さまざまな多様性というのは、無秩序な乱雑な多様性ではなく、秩序ある多様性であるということ、それは日本各地の神社がそれぞれ歩んできた歴史的な変遷の過程を刻んでいる歴史情報であることを指摘した。それは、たとえていえば、前述のように消去されたパソコンデータが残っているような状態である。伝承と変遷の中にある歴史世界というのは、消去しても消去されないデータが残存する世界なのである。だからこそ、民俗学つまり民俗伝承学が歴史科学の一端を担うことができるのである。