以下、カント『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』(中山元:訳、光文社古典新訳文庫、2006年)から引用です。
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万物の終焉(1794年)
◇永遠という思想
p.110
永遠というのは、中断なく持続される人間の[以下傍点]すべての時間の終焉[傍点終]でなければならない。しかしこの中断のない持続というものは、人間の存在を〈量〉とみなすなら、時間とはまったく比較できない量、が意味されているのでなければならない。もちろんこれについてはわれわれはいかなる概念ももてないのであり、消極的な意味でしか考えることができない。
p.140
訳注
(1)カントはここで括弧に入れて「ドゥーラチオー・ヌーメノン」というラテン語の表記を追記している。カントの認識論では、人間には「物自体」を認識することができず、人間が認識できるのはものの「現象」にすぎないとされている。この物自体の領域を示すためにカントはヌーメノンとう概念を使い、現象の領域を示すためにはフェノメノンという概念を使う。だから「ドゥーラチオー・ヌーメノン」は人間が認識することのできない「物自体の持続」という意味である。訳語としては「本体論的な持続」と訳される。
p.111
時間から永遠への移行という思想を、理性が道徳の領域で行ってきた移行という観点から考察すると、われわれは[以下傍点]万物の終焉[傍点終]という思想にたどりつく。〔略〕
◇最後の審判
p.113
万物の終焉という理念は、宇宙における物事の[以下傍点]自然的な[傍点終]思索からではなく、道徳的な思索において生まれるのであり、こうした道徳的な思索だけをきっかけとしたものなのである。
◇救いに関する2つの体系
p.114
しかしここで、きたるべき永遠については、古代から2つの体系があったことを指摘しておくべきだろう。一つは[以下傍点]ユニテリアン派[傍点終]風の体系であり、もう一つは[以下傍点]二元論[傍点終]の体系である。ユニテリアン派(4)の体系では、長い(あるいは短い)贖罪の後にすべての人間が永遠の祝福を獲得するが、二元論の体系では祝福されるのは選ばれた者だけであり、[以下傍点]残りの者[傍点終]は永遠に呪われたままとなるのである。〔略〕
訳注(4)ユニテリアン派は、父と子と聖霊の三位一体説を批判し、父なる神だけが真の神であるとして、イエスの神性を否定する宗派。〔略〕
◇恐るべき世界の終焉
p.118〜119
しかし人間が[以下傍点]そもそも世界が終焉すること[傍点終]予期するのはなぜだろうか。そして世界が終焉すると考えるとき、多くの人が恐怖とともに終焉を待ち構えるのはなぜだろうか。[以下傍点]最初の問い[傍点終]の答えは、次のようなものだろう。世界が存続することに価値があるのは、理性的な存在者がこの世界で、その存在にふさわしい究極の目的を実現するからだと理性は告げるのだが、この目的が実現されないとすると、こうした存在者が創造された目的がなくなることになる。これではこの世界は、結末というものがなく、理性的な意図すら認識できない演劇のようなものではないか。
さた[以下傍点]第二の問い[傍点終]の答えは、人類の堕落はすさまじいものであり、もはや希望をもてなくなっているという考えに基づくものである*。このような堕落した人類を終わらせること、そして恐るべき終わりを与えることは、(大部分の人の意見では)、最高の叡智と正義にかなった唯一の措置であるというのである。だからこそ[以下傍点]末日の前兆[傍点終]はすべて恐ろしいものとされているのである。
原注[*]
p.120〜121
いつの時代にもあやしげな賢者や哲学者が登場して、人間の本性には善に向かう素質があることを無視して、吐き気を催させるほどの忌まわしい比喩を駆使して、人類の棲家[すみか]であるこの地上の世界を、軽蔑をもって描きだすものである。
1)宿屋として(隊商[キャラバン]の宿として)。イスラームの修道士たちは世界をこのように描き出す。人生という旅においてこの宿に宿泊する者は、次に訪れる者たちからすぐに追いだされる準備をしておけというのである。
2)牢獄として。バラモン教とチベットの宗教、東洋の賢者たち、そしてプラトンまでもがこのような見解を抱いていた。天空から落下してきた霊が、いまでは人間や動物の魂として、懲戒と浄化をうけている場所とみるのである。
3)狂者の宿として。ここではだれもがみずからの意図を破綻させるだけでなく、たがいに考えられるかぎりの心痛を与えあうのであり、しかも巧みにそうする力があることを、最大の名誉とみなしているのである。
4)溝[どぶ]として。ここには他の世界からすべての汚物が持ち込まれるのである。この比喩はかなり独創的であり、あるペルシアの才人が考えだしたものである。それによると、人間の最初の夫婦が滞在した天国は、地上ではなく天空にあった。この〈園〉には、多数の果樹がはえていて、すばらしい果実をたわわに実らせていた。果実を味わうと、食べ滓[かす]はすぐに消滅してしまうのだった。ただし園の中央にある1本の樹だけは例外であり、魅惑的な果実を実らせているが、これは食べても食べ滓は消滅しないのだった。人間の最初の祖先であるこの夫婦は、禁止されていたにもかかわらず、この果実をどうしても食べたくなった。[この果実は食べ滓が消滅しないので]、天国を汚さないために、天使は[果実を食べてしまった]夫婦に、遠く離れた地上を指差し、次のように忠告するしかなかったのである。「あれが宇宙の厠[かわや]だ」と。そして排泄させるために天使は夫婦をそこにつれてゆき、二人を残して天国に飛び去った。こうして地上に人類が誕生したのである。
◇万物の終焉の3つの概念
p.124
1 [以下傍点]自然的な[傍点終]万物の終焉。これは神的な叡智の道徳的な目的にかかわるものである。この道徳的な目的は、おそらく人間が(実践的な観点から)[以下傍点]理解することが[傍点終]できるものである。
2 [以下傍点]神秘的な[傍点終]、すなわち超自然的な万物の終焉。これは終焉させる原因にかかわるものである。人間はこの終焉の原因については、[以下傍点]まったく理解することができない[傍点終]のである。
3 [以下傍点]反自然的な[傍点終]、すなわち倒錯した万物の終焉。これは人間が最終目的を[以下傍点]誤解した[傍点終]ために起こる万物の終焉である。
◇反自然的な概念
★p.125〜126
「ヨハネの黙示録」では、「あの天使が、右手を天に上げ、世々限りなく生きておられる方にかけて誓った。すなわち、天とその中にあるもの……を創造された方にかけてこう誓った。〈もはや時がない。〉」(10章5節〜6節)と語られている。
もしも天使が「7つの雷がそれぞれの声で語った」(10章3節)というような無意味なことを行ったのでないとすれば、これからもはや変化[傍点]というものがなくなることを言おうとしたに違いない。世界のうちにまだ変化があるかぎり、時間もまだあるからだ。変化は時間においてのみ起こりうるのであり、時間を前提としないかぎり、考えることもできないからだ。
★p.126
われわれはある時間の長さについて、それを[以下傍点]無限な[傍点終]ものとして、すなわち永遠につづくものとして感じることもある。〔略〕時間がなければ[以下傍点]終わりもない[傍点終]のだから、この概念は永遠の長さについての消極的な概念として考えるべきなのだ。
p.127
理性にとって可能なただ一つの方法は、時間において無限に進む変化は、最終目的の実現に向けて絶えず進歩している状態だと考えることである。そして人間の道徳的な心情は、時間のうちで発生する現象のようなものではなく、時間とともに変化することのない超感性的なものであるために、そのままで維持され、あくまでも同じであろうとすると考えるしかない。
この理念にしたがって、理性を実践的に使用するための規則は次のように表現されるだろう。われわれの道徳的な状態は、善なるものをさらに善なるものに変えてゆく無限の進歩のうちにあるものの、心情としてはわれわれは自分の道徳的な状態はいかなる時間の変化にも支配されるものではないものと理解すべきだということである(道徳的な存在としての人間の「行状は天にある(9)」)。
p.143〜144
訳注(9)ここでカントはキリスト教の教義と道徳的な掟を巧みに組み合わせている。「道徳的な存在としての人間」と訳したところは、「ホモ・ヌーメノン」というラテン語で書かれている。訳注(1)で説明したように、ヌーメノンとしての人間は、物自体としての人間であり、これは認識する対象ではなく、道徳的なふるまいをする主体としての人間を意味する。人間は物自体を認識することはできないが、道徳的に行動するときには物自体となって、ヌーメノン的な存在となるとカントは考える。「行状は天にある」は『新約聖書』のパウロの言葉「しかし、わたしたちの本国(ポリテウマ)は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(「フィリピの信徒への手紙」3章20節)を言い換えたものと考えられる。
p.129
究極の目的に向かって無限に進歩するという考えは、まだ無限の悪がつづくことを人間に思い知らせるものである。こうした悪は、より大なる善によって克服されるはずではあるが、そのことで満足感が生まれることはないのである。満足を感じることができるのは、[以下傍点]究極の目的[傍点終]がついに[以下傍点]実現された[傍点終]ときだけだからである。
◇神秘的な終焉の概念
p.129〜130
こうして瞑想的な人間は神秘主義[傍点]に陥るのである(理性は内在的な使用、すなわち実践的な使用に満足せずに、超越的な使用に走りたがる。それが理性の秘密である)。この場合には理性は、みずからの本性についても、みずから意図することについても理解することがないので、感性的な世界に住みながら叡智の世界にも属する人間は、この世界にとどまるべきであるにもかかわらず、その限界を超えて妄想するのである。〔略〕
◇人間の愚かしさ
p.131
人間の手によってもたらされる万物の終焉は、その目的が善きものであっても、[以下傍点]愚かしいもの[傍点終]である。
p.132
だから「哀れな死すべき者たちよ、お前たちには変わらぬものなどない。変わらぬのは、たえず変わりつづけていることだけだ」と嘆きたくなるのも、もっともなことなのだ(12)。
訳注
(12)この引用は、カントの『諸学部の争いの第2部』第4節でも引用されている。フランスのイエズス会士のガブリエル・フランソワ・コイエ(1707〜82)の言葉。
◇摂理
p.133
最善で究極の目的の実現のてまに選択された手段が成功するかどうかは、摂理に委ねるのがよいのである。これが成功するかどうかは、自然の成り行きにしたがうものであり、あくまでも不確実なものだからだ。あらゆる人間的な智恵にしたがって採用された手段を尽くしても確実に成功することが予測できない場合には(人間的な智恵とは、その名に値するかぎり、道徳的なものに向かわねばならないのである)、究極の目的の実現を諦めてしまわないかぎり、どんな[以下傍点]不信心な人[傍点終]でも実践的な形で、神の智恵が自然の成り行きに力を合わせてくれると信じるしかないのである。
◇キリスト教の愛
p.134〜135
キリスト教の定めた掟[おきて]は、その聖性によって、わたしたちに争うことのできない尊敬の思いをかきたてるものであるが、キリスト教にはこれとは別に、[以下傍点]愛すべきもの[傍点終]がある。わたしが言いたいのは、人類のために偉大な犠牲を払ったイエスという人格の愛すべきところについてではない。事柄そのもの、すなわちキリスト教が作りだした道徳的な体制そのものである。人格の愛すべき性質は、この道徳的な体制からしか生まれないものなのだ。この尊敬の念が最初のものであるのは間違いのないところだ。尊敬の念なしでは、真の愛は生まれないが、愛なしでもある人に尊敬の念を抱くことはあるからだ。
しかしたんに義務について考えるだけでなく、義務にしたがって行動することが問題になる場合には、すなわちたんに[以下傍点]人は何をなすべきか[傍点終]という客観的な行動の根拠だけではなく、行動の主観的な根拠を問う場合には(この主観的な根拠とは、人間は何をするだろうかを予測させる根拠である)、愛こそが、他者の意志をみずからの道徳的な掟のうちに自由にうけいれさせる力をもつものである。人間性の不完全さを補うものとして愛が不可欠になるのだ。ところが理性が道徳的な法則によって命じるものは、自由なものとしてではなく必然的なものとして人間性に強制されねばならないのである。人間はみずから望むものでないと、あまりやりたがらないものであり、実行するとしても、それを義務が命じたものだという理屈にしたがってするにすぎない。だから愛が伴わない場合には、義務の命令も大きな原動力とはならないものなのである。
◇万物の終焉の到来
p.139〜140
もしもキリスト教が愛すべきものではなくなるようなことがあったならば(キリスト教が和らぎのある精神ではなく、命令を下す権威で武装するならば、愛すべきものではなくなるだろう)、道徳的な事柄には中立というものがなく、相反する原理が対立しながら共存することもないのだから、キリスト教に対する嫌悪と反感が人々の心を支配するようになるだろう。そして末日の先駆者とみなされる[以下傍点]反キリスト[傍点終]が、おそらく恐怖と私利を原理として、たとえ短い間でも支配を開始することになろう。そうなったら、キリスト教は普遍的な世界宗教であるべく[以下傍点]定められている[傍点終]にもかかわらず、そうなるべき運命に[以下傍点]恵まれて[傍点終]いないということになる。こうして、道徳的な意味での[以下傍点]万物の(倒錯した)終焉[傍点終]が訪れることになるだろう。