以下、『大鏡』(『新編 日本古典文学全集34』、橘 健二/加藤 静子:校注・訳、小学館、1996年)より。
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左大臣[さだいじん]時平[ときひら]
p.73〜74
〔43〕菅原道真と朝政を執る 道真の左遷
このおとどは基経のおとどの太郎なり。御母、四品弾正尹[しほんだんじやうのゐん]人康[さねやす]親王の御女なり。醍醐[だいご]の帝の御時、このおとど、左大臣の位[くらゐ]にて年いと若くておはします。菅原[すがはら]のおとど右大臣の位にておはします。その折、帝御年いと若くおはします。左右の大臣に世の政[まつりごと]を行ふべきよし宣旨[せんじ]下さしめたまへりしに、その折、左大臣、御年二十八九ばかりなり。右大臣の御年五十七八にやおはしましけむ。ともに世の政をせしめたまひしあひだ、右大臣は才[ざえ]世にすぐれめでたくおはしまし、御心[こころ]おきても、ことのほかにかしこくおはします。左大臣は御年も若く、才もことのほかに劣りたまへるにより、右大臣の御おぼえことのほかにおはしましたるに、左大臣やすからず思[おぼ]したるほどに、さるべきにやおはしけむ、右大臣の御ためによからぬこと出できて、昌泰[しやうたい]四年正月二十五日、大宰権師[だざいのごんのそち]になしてたてまつりて、流されたまふ。
p.74〜76
〔44〕配流 自邸での和歌 途次の詩歌
この大臣[おとど]、子どもあまたおはせしに、女君達は婿[むこ]とり、男君達は、皆ほどほどにつけて位[くらゐ]どもおはせしを、それも皆方々[かたがた]に流されたまひてかなしきに、幼くおはしける男君・女君達慕ひ泣きておはしければ、「小さきはあへなむ」と、おほやけもゆるさせたまひしぞかし。帝[みかど]の御おきて、きはめてあやにくにおはしませば、この御子どもを、同じ方[かた]につかはさざりけり。かたがたにいとかなしく思し召して、御前[おまへ]の梅の花を御覧[ごらん]じて、
東風[こち]吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな
また、亭子[ていじ]の帝に聞こえさせたまふ、
流れゆく我は水宵[みくづ]となりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ
なきことにより、かく罪せられたまふを、かしこく思し嘆きて、やがて山崎[やまざき]にて出家[すけ]せしめたまひて、都遠くなるままに、あはれに心ぼそく思[おぼ]されて、
君が住む宿の梢[こずゑ]をゆくゆくとかくるるまでもかへり見しはや
また、播磨国[はりまのくに]におはしましつきて、明石[あかし]の駅[むまや]といふ所に御宿りせしめたまひて、駅の長[をさ]のいみじく思へる気色[けしき]を御覧じて、作らしめたまふ詩、いとかなし。
駅長[えきちやう]驚クコトナカレ、時ノ変改[へんがい]
一栄一落[いつえいいつらく]、是[こ]レ春秋[しゆんじう]
(駅長莫驚時変改 一栄一落是春秋)
p.76〜80
〔45〕配所における和歌と詩 菅家後集
かくて筑紫[つくし]におはしつきて、ものをあはれに心ぼそく思さるる夕[ゆふべ]、をちかたに所々[ところどころ]煙[けぶり]立つを御覧[ごらん]じて、
夕されば野にも山にも立つ煙なげきよりこそ燃えまさりけれ
また、雲の浮きてただよふを御覧じて、
山わかれ飛びゆく雲のかへり来るかげ見る時はなほ頼[たの]まれぬ
さりともと、世を思し召されけるなるべし。月のあかき夜[よ]、
海ならずたたへる水のそこまでにきよき心は月ぞ照らさむ
これいとかしこくあそばしたりかし。げに月日[つきひ]こそは照らしたまはめとこそあはめれ」
まことに、おどろおどろしきことはさるものにて、かくやうの歌や詩などをいとなだらかに、ゆゑゆゑしう言ひつづけまねぶに、見聞く人々、目もあやにあさましく、あはれにもまもりゐたり。もののゆゑ知りたる人なども、むげに近く居寄[ゐよ]りて外目[ほかめ]せず、見聞く気色[けしき]どもを見て、いよいよはえてものを繰[く]り出[い]だすやうに言ひつづくるほどぞ、まことに希有[けう]なるや。重木、涙をのごひつつ興[きよう]じゐたり。
世次「筑紫におはします所の御門[みかど]かためておはします。大弐[だいに]の居所[ゐどころ]は遥かなれども、楼[ろう]の上の瓦[かはら]などの、心にもあらず御覧[ごらん]じやられけるに、またいと近く観音寺[くわんおんじ]といふ寺のありければ、鐘の声を聞こし召して、作らしめたまへる詩ぞかし、
都府楼[とふろう]ハ纔[わづか]ニ瓦ノ色ヲ看[み]ル
観音寺ハ只[ただ]鐘ノ声ヲ聴[き]ク
(都府楼纔看瓦色 観音寺只聴鐘声)
これは、文集[もんじふ]の、白居易[はくきよい]の「遺愛寺[ゐあいじ]{ノ}鐘{ハ}欹[そばだ]{テテ}‹ㇾ›枕{ヲ}聴{キ}、香炉峯[かうろほう]{ノ}雪{ハ}撥[かか]{ゲテ}‹ㇾ›簾[すだれ]{ヲ}看{ル}」といふ詩に、まさざまに作らしめたまへりとこそ、昔の博士ども申しけれ。また、かの筑紫にて、九月九日菊の花を御覧じけるついでに、いまだ京におはしましし時、九月の今宵[こよひ]、内裏[だいり]にて菊の宴ありしに、このおとどの作らせたまひける詩を、帝[みかど]かしこく感じたまひて、御衣[おんぞ]たまはりたまへりしを、筑紫に持[も]て下らしめたまへりければ、御覧ずるに、いとどその折思[おぼ]し召[め]し出[い]でて、作らしめたまひける、
去年ノ今夜[こよひ]ハ清涼[せいりやう]ニ侍[はべ]リキ
秋思[しうし]ノ詩篇[しへん]ニ独[ひと]リ腸[はらわた]ヲ断[た]チキ
恩賜[おんし]ノ御衣[ぎよい]ハ今此[ここ]ニ在[あ]リ
捧[ささ]ゲ持チテ毎日余香[よかう]ヲ拝シタテマツル
(去年今夜侍清涼 秋思詩篇独断腸
恩賜御衣今在此 捧持毎日拝余香)
この詩、いとかしこく人々感じ申されき。
このことどもただちりぢりなるにもあらず、かの筑紫にて作り集めさせたまへりけるを、書きて一巻とせしめたまひて、後集[こうしふ]と名づけられたり。また折々[をりをり]の歌[うた]書きおかせたまへりけるを、おのづから世に散り聞こえしなり。世次若[わか]うはべりし時、このことのせめてあはれにかなしうはべりしかば、大学[だいがく]の衆[しゆう]どもの、なま不合[ふがふ]にいましかりしを、訪[と]ひたづねかたらひとりて、さるべき餌袋[ゑぶくろ]・破子[わりご]やうのもの調[てう]じて、うち具[ぐ]してまかりつつ、習ひとりてはべりしかど、老[おい]の気[け]のはなはだしきことは、皆こそ、忘れはべりにけれ。これはただ頗[すこぶ]る覚えはべるなり」
と言へば、聞く人々、
「げにげに、いみじき好き者にもものしたまひけるかな。今の人は、さる心ありなむや」
など、感じあへり。
p.80〜82
〔46〕北野と安楽寺 内裏火災と道真の怨霊
世次「また、雨の降る日、うちながめたまひて、
あめのしたかわけるほどのなければや着てし濡衣[ぬれぎぬ]ひるよしもなき
やがてかしこにてうせたまへる、夜のうちに、この北野にそこらの松を生[お]ほしたまひて、わたり住みたまふをこそは、ただ今の北野宮と申して、現人神[あらひとがみ]におはしますめれば、おほやけも行幸[ぎやうかう]せしめたまふ。いとかしこくあがめたてまつりたまふめり。筑紫のおはしまし所は安楽寺[あんらくじ]と言ひて、おほやけより別当[べたう]、所司[しよし]などなさせたまひて、いとやむごとなし。
内裏[だいり]焼けて度々[たびたび]造らせたまふに、円融院[ゑんゆうゐん]の御時のことなり、工[たくみ]ども、裏板[うらいた]どもを、いとうるはしく鉋[かな]かきてまかり出でつつ、またの朝[あした]にまゐりて見るに、昨日の裏板にもののすすけて見ゆる所のありければ、梯[はし]に上[のぼ]りて見るに、夜[よ]のうちに、虫の食[は]めるなりけり。その文字は、
つくるともまたも焼けなむすがはらやむねのいたまのあはぬかぎりは
とこそありけれ。それもこの北野のあそばしたるとこそは申すめりしか。
かくて、このおとど、筑紫におはしまして、延喜[えんぎ]三年、癸亥[みづのとゐ]二月二十五日にうせたまひしぞかし。御年五十九にて。
p.90〜91
〔53〕道真、雷神となる 王威と理非
また、北野の、神にならせたまひて、いとおそろしく雷[かみ]鳴りひらめき、清涼殿[せいりやうでん]に落ちかかりぬと見えけるが、本院[ほんゐん]のおとど、太刀[たち]を抜きさけて、「生きてもわが次にこそものしたまひしか。今日、神となりたまへりとも、この世には、我に所置きたまふべし。いかでかさらではあるべきぞ」とにらみやりてのたまひける。一度はしづまらせたまへりけりとぞ、世[よ]の人[ひと]、申しはべりし。されど、それは、かのおとどのいみじうおはするにはあらず、王威[わうゐ]のかぎりなくおはしますによりて、理非[りひ]を示させたまへるなり。