以下、大和岩雄『神社と古代民間祭祀』(白水社、2009年)から引用です。

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八坂神社――牛頭天王と朝鮮の巫と陰陽道

播磨の広峯神社と祇園の関係と渡来人

p.198
 たしかに、仏典には牛頭天王が記されているが、牛頭天王が載る経典のすべてが平安時代末か鎌倉時代以降に日本で書かれた偽経であることは、通説となっている。新羅から牛頭天王が遷座したという伝承があり、蘇民将来が朝鮮の信仰であることからみて、牛頭天王は渡来人たちの創作に成る神であろう。その渡来人たちは、松前健も推測するように、瀬戸内海沿岸の渡来人で、八坂造と関係があったと考えられる。だからこそ、播磨の広峰と京都の八坂が結びついたのであろう。



祇園社の創祀と竜蛇神

p.208
 『備後国風土記』逸文では、北海の神の武塔神が南海の竜王の娘(竜女)のところへ妻問いに出かけているが、武塔神も北海の竜神である。この竜神が星神になって、牛頭天王と名を変えたのである。



陰陽道と牛頭天王と牛宿

p.202〜203
 牛頭天王の「牛」は、陰陽道で重んじる二十八宿の「牛宿」の牛によるものとみられる。『簠簋内伝』巻5の「同時宿之事」の条では、牛頭天王が主にいる所は牛宿となっている。この牛宿は二十八宿の「総体」で「本宿」だから、諸宿の始まりは「牛(丑)」からであると『内伝』は書く。『内伝』の序文に牛頭天王縁起が載るが、その冒頭に、

  北天竺摩訶 国の霊鷲山ハ艮[ウシトラ]、波尸那[ハシナ]城は西、吉祥天ノ源ノ王舎城ノ大王ヲ、名ヅケテ商貴[シヤウキ]帝ト号ス。曽ッテ帝釈天ニ仕ヘテ、善現天ニ居シ、三界ノ内ニ遊戯[ユケ]シテ、諸星ノ探題ヲ蒙リ、名ヲ天刑[ギヤウ]星ト号ス。信敬ノ志深キニ依リテ、今、娑婆世界ニ下生シテ、改メテ牛頭天王ト号ス。

とある。