以下、大和岩雄『神社と古代民間祭祀』(白水社、2009年)から引用です。

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大酒神社・大避神社――石神[しゃくしん]・麻多羅[またら]神と秦河勝

麻多羅神と牛祭

p.443
 麻多羅神については、林羅山(道春)が『本朝神社考』に引く『山家要路』に、伝教大師最澄が唐の青竜寺に赴いたとき寺の鎮守の麻多羅神が現れたとあり、「日吉大宮」と同体の神だと記されている。鎌倉時代に叡山の学僧光宗が書いた『渓嵐拾葉集』(常行堂麻多羅神事)には、比叡山の麻多羅神について、慈覚大師円仁が唐から帰る船中にこの神が現れ、「我を崇敬せざる者は往生の素懐を遂げるべからず」と告げたので、常行堂に勧請したとある。そして麻多羅神を「障礙[しょうがい]神」と書いている(障礙は障碍に同じ)。



祭神としての秦河勝

p.445
 秦河勝は、『日本書紀』では推古紀と皇極紀に登場するから、7世紀前半に活躍した人物だが、『日本書紀』推古天皇11年11月1日条には、
  皇太子、諸[もろもろ]の大夫に謂[かた]りて日[のたま]はく、「我、尊き仏像有[たも]てり。誰か是の像を得て恭拝[ゐやびまつ]らむ」とのたまふ。時に、秦造[はだのみやつこ]河勝進みて日はく、「臣[やつかれ]、拝みまつらむ」といふ。便[すで]に仏像を受く。因[よ]りて蜂岡寺[はちのをかでら]を造る。 
とある(皇太子とは聖徳太子のこと)。また推古天皇31年7月条には、
  新羅、大使奈末智洗爾[なまちせんに]を遣[まだ]し、任那[みまな]、達率奈末智[だちそちなまち]を遣して、並に来朝[まうけ]り。仍[より]て仏像一具及び金塔并[あはせ]て舍利を貢[たてまつ]る。且[また]大きなる観頂幡一具・小幡十二条たてまつる。即ち仏像をば葛野の秦寺[うつまさでら]に居[ま]しまさしむ。余[あたし]の舎利・金塔・観頂幡等を以て、皆四天王寺に納[い]る。
とある。


鬼面と翁面
p.447
 『風姿花伝』は秦河勝を猿楽の祖とし、次のように書く。
  此の芸をば子孫に伝へ〔化人[けにん]〕跡を留めぬによりて、摂津国難波の浦より、うつほ舟に乗りて、風に任せて西海に出づ。播磨の国坂越[しやくし]の浦に着く。浦人舟を上げて見れば、形人間に変〔れ〕り。諸人に憑き祟りて奇瑞をなす……
『明宿集』も、「空舟[うつぼぶね]」による秦河勝の播磨坂越浦への漂着説話を載せ、次のように書く。
  ソノ後、坂越[シヤクシ]ノ浦ニ崇メ、宮造リス。次ニ、同国山ノ里ニ移シタテマツテ、宮造リヲビタヽシクシテ、西海道ヲ守リ給フ。所ノ人、猿楽ノ宮トモ、宿神トモ、コレヲ申タテマツルナリ。
 大避神社を「猿楽ノ宮」と呼ぶのは、秦河勝を猿楽の祖とみるからだが、その猿楽の徒の神「宿神」について、禅竹は『明宿集』で、「翁ヲ宿神ト申タテマツル」と書き、「秦ノ河勝ハ、翁ノ化現疑ヒナシ」とも書く。「翁」とは「翁面」のことである。
 秦河勝が猿楽の祖といわれるのは、聖徳太子が「六十六番の物まね」を秦河勝に演じさせたからだと、『風姿花伝』は書き、そのとき太子は「六十六番の面」を作って河勝に与えたが、そのなかの1面(鬼面)だけが円満井座に伝えられて重宝になったと書く。『申楽談義』は、この「聖徳太子の御作の鬼面」を、河勝の賜わった「根本の面」と書く。
 宿神は翁面だといわれているが、「聖徳太子作」として伝来する「根本の面」は鬼面である。翁面と鬼面は別のものだが、この2面が1対のものであることによって、翁面は宿神たりうるのである。禅竹も『明宿集』で、
  翁ニ対シタテマツテ、河勝ニ鬼面ヲ当座ニ安置〔シ〕タテマツルコト、コレワ聖徳太子御作の[ママ]面也。秦河勝ニ猿楽ノ業ヲ被‹›仰付‹›シ時、河勝ニ給イケル也。是則、翁一体ノ御面ナリ。諸天・善神・仏・菩薩ト初メタテマツリ、人間ニ至ルマデ、柔和・憤怒ノ二ノ形アリ。コレ、善悪ノ二相一如ノ形ナルベシ。サルホドニ、降伏ノ姿、怒ル時ニハ、夜叉・鬼神ノ形ト現ワレ、柔和・忍辱・慈悲ノ姿ヲ現ワス時、面貌端厳ニシテ、本有如来ノ妙体也。然者一体異名ナリ。
と書いている。
 石神・宿神・麻多羅神が守護神と障礙神の両面性をもつのは、翁面と鬼面が一体だからである。「二相一如」「一体異名」が神の姿といえる。

p.449
 このような二面性は、荒魂[あらたま]・和魂[にぎたま]、生魂[いくたま]・足魂[たりたま]、魂振[たまふり]・魂鎮[たましづめ]の二面性そのものである。すなわち、当社の鬼面は荒魂・生魂・魂振、翁面は和魂・足魂・魂鎮であり、この「二相一如」の場所が「避」なのである。