新井白石と同時代の儒学者に、貝原益軒(かいばらえっけん)がいます。
彼は、健康長寿の秘訣について著した『養生訓』を出版し、大ベストセラーとなりました。現代でも、販売されているほどです。
貝原益軒は、300年前の九州の黒田藩の儒医(儒学者で医者を兼業)でしたが、薬草の研究(本草学)をはじめ、老荘思想に登場する「気」の研究や、音楽療法のように、音楽が健康に及ぼす効用なども研究していました。
また、有馬温泉や別府温泉などの温泉を訪問し、『有馬湯山記』(ありまとうざんき)を残しています。現代でも、貝原益軒の『養生訓』は、温泉湯治の規範にされているほどです。おそらく健康長寿に効くものは、すべて試していたのでしょう。そして、自らが生き証人であるかのように、人間五十年といわれた時代にあって、84歳まで長生きしたのです。
<『有馬湯山記』>(国書データベース)
彼は、何度も京都をおとずれ、「京の桜に京の酒、京の学びも、京の雅楽も」と、元禄文化が花咲く、京都を愛してやみませんでした。雅楽については、35歳ごろ、京都で琵琶を習い、61歳から篳篥(ひちりき)を始め、72歳で『音楽紀聞』を著しています。私も、篳篥や篠笛を嗜みますが、笛の類は、息を長く吹くため、なかなか体力が必要です。61歳からの篳篥の練習は、大変だったことでしょう。ちなみに、貝原益軒が愛用した琵琶は、博多の筥崎宮に現存しています。
<『音楽紀聞』>(早稲田大学所蔵)
雅楽に関する貝原益軒の思想は、儒教の『礼記』の「楽記」篇や『論語』を中心とするものです。儒学者でしたから、当然といえます。
およそ音楽道をしらんと思わば、「礼記」の「楽記」を熟読すべし。
又、尚書「論語」の楽を説ける所と其本註と、及儀礼経伝通解曲礼全経等、併せて、周程朱子の楽説を考え見るべし。
「楽記」に楽者楽也。(楽(がく)は楽(らく)なり)
人情の免るること、能わざる所也といえり。
春の鴬、秋の蝉、凡もろもろの鳥さえずり、虫の声までも、自然に吟声を発するは、これ和気より出る所、すなわち楽なり。
「楽記」曰く、天高く地下く、万物散殊して、礼制行わる。これ礼の本なり。
流れて息まず、合同して化して楽興る。これ楽の本なり。
ひそかにおもうに、この数句は即これ礼楽のよりて出る所、本源を解けり。
これ天地の礼楽なり。至言というべし。
楽者天地の和なり。礼は天地の秩序なり。
又曰く、大楽は天地の和を同じくし、大礼は天地と節を同じくす。
是等はすべて礼楽の本をといいけり。聖人、天地に礼楽の道理あるを見、これにのっとりて礼楽を作りたもう。天地自然の道理にもとづきしたがえるなり。
<参考>
一方、健康長寿については、「気」を「生命の根源」と考え、この「気」を養うことを目的していました。こちらは儒教というより、老荘思想に沿ったものといえます。
「気」を養うために、身を慎み、心を養うことを人の道とし、勤労と身体運動を重んじ、快楽を戒めています。まるで、現代の健康法でも言われているような内容です。温泉については、長く入浴すると「気」が抜けるため、短時間がよいとしています。
音楽の健康に対する効用については、以下のように解説しています。
古人は、詠歌舞踏して血脈を養う。
詠歌は、うたう也。舞踏は、手のまい、足のふむ也。
皆心を和らげ、身をうごかし、気をめぐらし、体をやしなう、養生の道なり。
楽なりて、その心、和気をやしない、心中の湮欝をひらきかたし。
故に、古人は小児の時より音楽をおしえ、詠歌舞踏して、その性情を和らげ、その血脈をやしなう。
つまり、音楽は心を和やかにし、心を解放するもので、古人は、子供の時から音楽の教育を施し、詠歌舞踏で性情を和らげ、結果的に血脈を養うことになるという意味です。
また、「気」を養う健康的な生き方を、次のように解説しています。
ひとり家に居て、しずかに日を送り、古書をよみ、古人の詩歌を吟じ、香をたき、古法帖を玩び、山水をのぞみ、月花をめで、草木を愛し、四時の好景を玩び、酒を微酔にのみ、園菜を煮るも、皆これ心を楽ましめ、気を養ふ助なり。
貧賎の人も、この楽つねに得やすし。
もし、よくこの楽をしれらば、富貴にして楽をしらざる人にまさるべし。
貝原益軒の思想は、共感できる部分も多いのですが、忙しい現代社会において、老荘思想的な養生は、難しいといえます。
また、わが国古来の神道では、神祭りにおいて、大自然を司る神々や龍神たちに、神楽や雅楽を奉納して喜んでもらい、その息吹や神徳によって、人間も健康で長寿を全うするという考え方です。
自力で「気」を養うには、限界があります。神道や修験道、最近のパワースポット・ブームのように、神社や大自然の息吹を頂いて「気」を増幅してもらう、という他力的な考え方が、貝原益軒の思想には欠けているといえます。
神は人の敬によりて威を増し、
人は神の徳によりて運を添ふ
神は、人の敬の祈りに応じて神威を増し、人は、神の神徳によって運が好転していくものである。
鎌倉幕府の基本法である「御成敗式目」の第一条は、なんと!「神社を修理し、祭祀を専らにすべき事」という条項です。鎌倉武士たちが、如何に信仰心が深かったかを示す証跡といえますが、この第一条の条文の中に、「神は人の敬によりて威を増し、人は神の徳によりて運を添ふ。」という文言があります。
<御成敗式目>
一、神社を修理し、祭祀を専らにすべき事
右、神は人の敬によりて威を増し、人は神の徳によりて運を添ふ。
然れば則ち、恒例の祭祀は陵夷(りようい=衰退)を致さず、如在(によざい=神を祭る) の礼奠(れいてん=供物)は、怠慢せしむるなかれ。
これによつて、関東御分の国々ならびに庄園に於ては、地頭神主ら各(おのおの)その趣を存し、精誠を致すべ き なり。兼てまた有封(うふ=封戸のある)の社に至つては、代々の符(=太政官符)に任せ、小破の時は且(かつがつ)修理を加へ、もし大破に及び子細を言上 せば、その左右(さう=状況)に随てその沙汰(=指示)あるべし。