新井白石と舞楽 | 日本音楽の伝説

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5代将軍・徳川綱吉の儒学重視の政治は、新井白石、荻生徂徠、山鹿素行らの学者を輩出するきっかけとなりました。

 

綱吉が亡くなると、綱吉とともに将軍候補だった甲府藩主の徳川家宣(いえのぶ)が6代将軍に就任しました。新井白石は甲府時代から家宣に仕えていたため、そのまま登用されて、文治政治を推進したのです。彼の政治改革は、「正徳の治」と呼ばれています。

 

新井白石の政策は、経済政策を除けば、理論的なものでしたが、幕臣たちは「東照神君(家康)以来の祖法変るべからず」という頑固者が多く、孤立していたようです。

もっとも、新井白石も負けずに、自分の政策を強行し、幕臣たちから「鬼」と呼ばれていました。

 

教科書では習いませんが、新井白石は、儒学者らしく、天皇を「天」とし、将軍を「地」とする考え方の持ち主でした。また、『楽考』(がっこう)という雅楽曲を解説した著作も残しており、雅楽を大変重視していました。

 

1711年の朝鮮通信使の接待では、能楽の代わりに、舞楽会を開催したことでも有名です。この時、京都、奈良、四天王寺の三方楽所と江戸城の紅葉山楽人10名を加えて、総勢51名の楽人が奉仕したそうです。

 

新井白石の友人である室鳩巣(むろきゅうそう)が『坐間筆語』に、舞楽会の模様を、次のように描写しています。

(訳文は、神戸大学の寺内直子先生の論文『狛近家(近寛)撰『狛氏新録』の成立について―新井白石と正徳度朝鮮通信使との関係から探る』から引用しました。)

 

朝廷の音楽は本邦で生まれたものと外国から来たものがある。京都の楽家が代々これを伝承してきた。近年、幕府の宴礼は散楽 (能)を以て儀礼の楽としたので、古い儀礼楽が廃されて行われなくなったことは嘆くべきことだ。

 

辛卯(正徳元年)の冬、朝鮮通信使が来朝した。 十一月三日、江戸城の内殿で宴会を賜った。 前代の例によれば能を用いるところ、源君美 (新井白石)が建議して古楽 (雅楽)に代え、本邦の楽と外国の楽を用いた。宴礼の日に、楽官たちはみな恐れ多い様子で威儀を正していた。

 

左右の舞楽が交互に奏されるたびに君美(新井白石)がこれについて筆談で説明した。

君美(新井白石)の対応は流れるごとくに流暢であった。宴から退出した後、曲目ごとに問答の内容を記して進呈した。今書いているものはその稿である。

 

昔、延陵の季子が魯を招いて「三代之楽」を観た。『左氏』がこのことを伝えている。古今これを美談としてきた。漢の末、三國の後から南北十六朝を経て、南宋、遼、金の時代に及び、敵國が互いに使者を交換するようになった。 (しかし) 宴会の間に楽を観るということを聞いたことがない。

千有餘年の間、絶えて見ることができなかったものを今ここに見ている。歴史を作るとは、まさに『左氏』にある伝承を継いで、この先長く輝かしく伝えていくことだ。これはひとり楽家の者たちの名誉であるだけでなく、我が国の栄光でもある。

 

新井白石の得意顔が目に浮かぶようです。現代でも、外交の場で、もっと雅楽が演奏されれば、諸外国の尊敬を集めることができるでしょう。西洋のクラッシック音楽といっても、せいぜい400年程度のものです。雅楽には、1000年以上前の曲どころか、紀元前に作られた曲(貴徳など)もあるのです。

 

朝鮮通信使の接待で催行された舞楽は、以下の曲でした。

振鉾(えんぶ)、三台塩、長保楽、央宮楽、仁和楽、太平楽、古鳥蘇、甘州、林歌、陵王、納曾利、退出は長慶子。

 

話は変わりますが、新井白石は、現代と同様、皇統の断絶について、非常に危惧していました。そこで、徳川将軍家に御三家があるように、皇統断絶を回避するために宮家の創設を考えたのです。現代でいうリスク分散です。

そして、大嘗祭を再興した東山天皇の第6皇子直仁親王に、幕府が1000石の所領を献上して、1718年、新しく「閑院宮」(かんいんのみや)という宮家が創設されました。

 

約60年後、新井白石が危惧した通り、後嗣なく崩御してしまった後桃園天皇の跡を継いで、閑院宮家から光格天皇が即位されました。以後は、皇太子が次代天皇に即位することで、皇統が断絶することなく、今上陛下まで連なっています。

 

<参考>:『狛近家(近寛)撰『狛氏新録』の成立について―新井白石と正徳度朝鮮通信使との関係から探る』

https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/0100481679/0100481679.pdf