家康の回忌供養と日光の舞楽 | 日本音楽の伝説

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学校の教科書には、詳しく登場しませんが、第二代将軍の秀忠は、娘の徳川和子(まさこ)(当時14歳)を、すでに子供がいた25歳の後水尾天皇の元に嫁がせました。

 

徳川和子の天皇家への輿入れや、家康の回忌供養と東照宮の増築など、徳川家の重要な行事が続いたことで、雅楽や舞楽の再興に拍車がかかり、派生的に、舞楽屏風などの美術品が、数多く生まれました。

 

徳川幕府は、皇后となった和子(東福門院)に、莫大な資金を贈ってサポートしました。和子は、現代風にいえば、文化的なインフルエンサーだったようです。和子が愛した野々村仁清の色絵陶器が、世に知られるようになり、染織なども発達しました。和子の輿入れの呉服を仕立てた呉服屋が、画家の尾形光琳の生家です。

 

※野々村仁清の色絵月梅図茶壷

 

※尾形光琳 (Wikipediaより)

江戸時代中期を代表する画家。平安王朝時代の古典を学び、明快で装飾的な作品を残した。その非凡な意匠感覚は「光琳模様」という言葉を生み、現代に至るまで日本の絵画、工芸、意匠などに与えた影響は大きい。

 

「東福門院入内図屏風」

1620年の徳川和子の輿入れの様子は、「東福門院入内図屏風」から窺い知ることが出来ます。この屏風に描かれた華やかな行列の中には、雅楽を演奏する楽人たちも、描かれています。参加した楽人は45名いたそうです。

 

 

和子が20歳になる1626年の秋、秀忠と家光が上洛し、後水尾天皇の二条城行幸が行われました。この二条城行幸は、秀吉が後陽成天皇を招いた聚楽第行幸を真似したものでしょう。「二条城行幸図屏風」からは、徳川家の絶頂期の豪華さが伝わってきます。

楽人は50人も参列し、9月7日は舞楽御覧、9月8日は和歌、管絃、9月9日は猿楽御覧が開催されました。

 

 

この時、大納言だった四辻季嗣が、催馬楽の「伊勢の海」を譜面から再興しました。「伊勢の海」の再興は、政治的にも意味がありそうです。

 

催馬楽「伊勢の海」歌詞

伊勢の海の清き渚に、潮間(しおがい)に、

なのりそや摘まむ。

貝や拾はむ、玉や拾はむや。

 

<現代語訳>

伊勢の海の清き渚で、潮が引いている間に、

神馬藻(なのりそ)を摘みましょう。

貝を拾いましょう、玉を拾いましょう。

 

催馬楽「伊勢の海」の神馬藻(なのりそ)は、海藻のホンダワラのことですが、名前を名のることに掛けています。また、貝は女性、玉(真珠)は、玉のような男の子と表現するように、男性を意味しています。

しかし、徳川家からみれば、貝は、徳川和子、又は娘の明正天皇のこと、玉は、伊勢の神の末裔である後水尾天皇のことでしょう。徳川家は、まさに貝も玉も手中にしたのです。

 

その後、1628年の家康の十三回忌では、楽人が京都から日光まで出張し、帰京の途中、江戸城西ノ丸で舞楽御覧が行われ、三代将軍の家光も鑑賞しました。この時「東遊」も奉納されました。

 

そして、1636年の家康の二十一回忌法要に合わせて、第三代将軍の家光は、日光の東照宮を増築し、豪華絢爛な彫刻を特徴とした社殿を建立しました。東照宮の落慶式と共に行われた家康の二十一回忌法要では、舞楽の装束が奉納されました。現在でも、日光の輪王寺を中心に、舞楽の装束や舞楽面、所用具などが、834点も所蔵されています。

なぜ二十一回忌が盛大だったかというと、伊勢神宮の20年に一度の式年遷宮に倣ったものと考えられています。

なお、多数の舞楽装束を保有する輪王寺には、天海と第三代将軍の家光の墓所があります。

 

翌年1637年には、家光の命により、日光にも楽人を置くことになり、楽人は、天海の衆徒や社家から選定されました。
奈良の南都楽所の辻近元、久保近光、上近康の三名が雅楽の指導にあたり、「師家」と呼ばれました。それ以来、1844年まで約200年間、師家たちは10数回、京都から日光に来山して、日光楽人の指導にあたりました。

 

日光・輪王寺の「舞楽屏風」

輪王寺の舞楽屏風は、屏風が納められた黒漆塗りの箱に寛永13年(1636年)とあり、家康の二十一回忌に、舞楽装束と一緒に奉納された屏風と考えられています。

 

 

 

「天女舞楽の図」

日本一の美人天女と名高い、東照宮の神輿舎の天井画です。天女たちは、龍笛や琵琶を演奏しています。

 


家康の二百回忌「舞楽楽器之図」

家康の回忌供養の度に、舞楽図が作成されていたようです。

200回忌というのはすごいですね。

 

 

日光の東照宮が完成した後、1642年、家光の命令で、江戸城内の紅葉山(もみじやま)にも、徳川家康の廟所(紅葉山東照宮)が置かれました。

第二代・秀忠以降の歴代将軍の廟所も、紅葉山に設置され、廟の祭祀のため、京都楽所、南都楽所、四天王寺楽所から、数名づつ計7名が江戸に移住し、「紅葉山楽人」と呼ばれました。

徳川幕府は、能楽を武家の式楽と定めたものの、結局のところ、雅楽や舞楽も大切にしたのです。