「禁中並公家諸法度」と雅楽の復興 | 日本音楽の伝説

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徳川幕府が発布した「禁中並公家諸法度」により、朝廷の運営は、逐一、京都所司代を通じて、幕府の承認が必要となったため、著しく制限されることとなりました。当時の後水尾天皇は、僧侶に紫の衣の着用を許す勅許について、徳川幕府に事前の相談がなかったと難癖を付けられ、ブチ切れた形で譲位しています。

 

しかしながら、徳川幕府は、朝廷を統制しようとする一方で、家康が東照宮に神道式で祀られたことからも、朝廷の神道祭祀の復興については、肯定的だったのです。

また、意外なことですが、「禁中並公家諸法度」は、天皇を日本国の君主として認めており、立派な君主になるためには、まず学問が第一としているのです。

 

一 天子諸藝能之事、第一御學問也。

不學則不明古道、而能政致太平者末之有也。貞觀政要明文也。

寛平遺誡、雖不窮經史、可誦習群書治要云々。

和歌自光孝天皇未絶、雖爲綺語、我國習俗也。不可棄置云々。

所載禁秘抄御習學専要候事。

 

(現代語訳)

天子が身に付けなければならない学問・芸術の中で、第一は学問である。

学ばなければ、古来の道義・学問・文化に闇くなってしまう。そのような状態で、政治に落ち度が無く、天下に太平をもたらした事は、いまだかつてない。このことは『貞観政要』にも明確に記載されている。

(平安時代の宇多天皇が醍醐天皇に与えた)『寛平遺誡』には、天子は、中国古典の儒学書や歴史書を極める必要はないが、『群書治要』を読み習うべきとある。

和歌は、(平安時代の)光孝天皇からいまだ絶えていない。美しく飾った言葉に過ぎないとはいえ、わが国の習俗であり、捨て置いてはならないとある。

『禁秘抄』に書き載せられていることを、専ら学ぶことが重要である。

 

『禁秘抄』は、鎌倉時代の後鳥羽上皇の子息である、順徳天皇が著した有職故実の解説書で、天皇が学ぶべきものとして、第一に学問を、第二に、雅楽の管絃を勧めています。その次が和歌とされています。ちなみに、管絃の楽器では、天皇には笛が相応しく、ついで和琴と箏、その次は、琵琶と笙をあげています。また、篳篥は、天皇には相応しくないとされています。

 

どうやら、徳川幕府は、私たちがイメージするよりも、はるかに神道的だったようです。

他にも、例えば、御三家の筆頭である尾張名古屋藩の初代藩主・徳川義直(よしなお)は、全国の由緒ある神社の祭神について、六国史などを引用しながら考証し、神器類の彩色図などを加えた『神祇宝典』(じんぎほうてん)を編纂しています。『神祇宝典』は、現代風に言えば、全国神社案内といえる書物です。

 

 

また、水戸黄門で有名な徳川光圀は、『大日本史』を編纂する過程で、朝廷の神道祭祀が衰微することを心配して、『礼儀類典』(れいぎるいてん)を編纂しています。『礼儀類典』は、神道祭祀の祭器などの図鑑のような書物です。黄門様も、奥ゆかしい優美な皇室の祭祀が、消失してしまうのを心配されていたのでしょう。

 

 

このような徳川幕府の姿勢もあったため、江戸時代を通して、皇室の大嘗祭などの祭祀が復興し、雅楽や舞楽でも、「東遊」(あずまあそび)や「久米舞」などが復興されたのでした。