秀吉の豊国神社の舞楽 | 日本音楽の伝説

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春のお彼岸ですね。前回の秀吉の「醍醐の花見」の続きです。

 

秀吉は、戦乱で焼損した東大寺の大仏に代わり、新しい大仏(方広寺大仏)を、京都に造ることを発願していました。そして、「刀狩」で民衆から集めた刀剣は、方広寺の大仏造立のためと喧伝されました。

 

ところが、大仏の開眼供養が迫った1596年9月5日、突然、慶長の伏見大地震が起きて損壊してしまったのです。そこで、秀吉は、損壊した大仏に代わりに、信濃の善光寺の阿弥陀三尊(善光寺如来)を京都に遷座したところ、今度は、秀吉が病に倒れてしまい、京都では、善光寺如来の祟りではないかと噂が広まりました。

 

秀吉が花見を楽しんだ醍醐寺の座主・義演は、北政所の依頼で、秀吉の病気回復を祈願し、真言密教の北斗法の祈祷を行いました。しかし、秀吉は1598年8月18日(旧暦)に亡くなってしまったのです。

 

秀吉は、東大寺の大仏を守る手向山八幡宮に倣って、自らを方広寺の大仏を守る「新八幡」として祀るように遺言したといわれています。しかし、秀吉と違い、宇佐神宮の八幡大神(応神天皇)は皇祖神であることや、「朝鮮出兵」の最中であったこともあり、朝廷は「新八幡」という神号を許しませんでした。代わりに、1599年4月、豊国大明神として、豊国神社に祀られることになりました。秀吉の墓所は、三十三間堂に近い、東山の阿弥陀ヶ嶽の山頂にあります。

 

 

秀吉は舞楽が好きだったため、豊国神社では、毎月の祭礼に加えて、8月の祥月命日には、多数(40名以上のケースも)の楽人が参加する祭礼が催行されました。現在の宮内庁楽部が30名以下であることを考えると、大規模な舞楽も奉納されていたことでしょう。十人「迦陵頻」や、十人「胡蝶」なども奉納されたようです。いずれにしても、豊国神社の祭礼は、三方楽所(京都、奈良、四天王寺)の体制整備と、応仁の乱以降縮小された雅楽・舞楽の本格的な復興に一役買ったことは間違いありません。

 

「豊国祭礼図屏風」を見ると、豊国神社の祭りが大盛況だったことがわかります。

 

 

方広寺の大仏については、その後、家康の勧めで、豊臣秀頼が大仏の再建を手掛けました。ところが、大仏殿に納める梵鐘の銘文について、家康が難癖を付けたのです。

 

梵鐘の銘文のうち「国家安康」「君臣豊楽」が問題視され、「国家安康」には家康の諱を「家」と「康」に分断して家康を呪詛しているのではないかと疑いをかけ、「君臣豊楽」には、豊臣を君主として楽しむという意図があるとされました。このいちゃもんが、豊臣家の家臣たちを怒らせて、大坂の陣の契機の一つとなりました。

 

家康は、1615年の大阪夏の陣で、豊臣家を滅ぼしてしまいました。隆盛を誇った秀吉の豊国神社も当然廃止となり、荒れ放題になったそうです。北政所の懇願で社殿は残されたものの、修理することを禁止され、朽ちるままに放置されることとなったのです。こういう点が、家康と本田正信等ブレーン達の陰湿なところです。

 

270年後、明治天皇は、秀吉を高く再評価しました。秀吉が天下人となった後でも、徳川のように幕府を開かず、皇室に対して尊王の忠臣であり続けたこと、さらに「皇威を海外に宣べ、数百年たっても、なお寒心させる、国家に大勲功ある今古に超越するもの」であると賞賛して、豊国神社の再興を布告する沙汰書が下されました。

 

そして、1901(明治34)年、豊国神社の社殿境内の整備工事の時、大甕に入った秀吉の遺体が発見されたのです。ところが、ボロボロと崩れたため、大甕はそのまま埋め直されました。秀吉の遺体は、西に向き、腕を組んで座っていたそうです。