桜の咲く季節がやってきましたが、戦争で苦しむウクライナにも、早く平和な春がやってきて欲しいものです。東京の桜スポットと言えば、上野公園や皇居の千鳥ヶ淵が有名ですが、京都でしたら、嵐山か、醍醐寺でしょうか?
1598年、豊臣秀吉は、京都の醍醐寺で大規模な花見の会(「醍醐の花見」)を開きました。北野天満宮の「北野大茶湯」と並び、秀吉の一世一代の催し物として知られています。この時も、多くの舞楽が奉納されたそうです。この「醍醐の花見」には、北政所や淀君をはじめ、なぜか女性ばかり1300人ぐらいが参加しています。
<醍醐寺ウェブサイト>
https://www.daigoji.or.jp/events/events_detail2.html
醍醐寺の霊宝館には、江戸時代の俵屋宗達が「醍醐の花見」をイメージして描いた有名な「舞楽図屏風」があります。
醍醐寺は、数ある京都の寺院の中でも、最も広い土地を有していて、平安時代から「花の醍醐」と呼ばれるほど有名な桜の名所です。
874年に、空海の実弟に師事した聖宝(しょうぼう)理源大師が開いた真言密教のお寺ですが、聖宝は、役小角が開いた修験道にも力を入れていました。そのため、役小角が植えた吉野の桜に倣って、桜を植えていたようです。そこに、秀吉が「醍醐の花見」のために、700本の桜の樹を移植したのです。
当時の醍醐寺の座主だった義演は、秀吉の死期が近いことを予感し、英傑の最後にふさわしい華やかな舞台をしつらえるため、周到に根回しをして「醍醐の花見」を実現させたといわれています。そして、義演の予感通り、秀吉は「醍醐の花見」の五ヶ月後に亡くなってしまったのです。
桜と言えば、わが国の催馬楽の中には、「桜人」(さくらびと)という曲があります。『増鏡』には、雅楽に熱心だった後醍醐天皇が「桜人」を謡うシーンが描かれています。
もっとも、「桜人」の歌詞は、桜の花の美しさを愛でる内容ではなく、夫婦の掛け合いのような内容になっています。
催馬楽『桜人』
(夫)桜人 その舟とどめ 島つ田を 十町つくれる
見て帰り来んや そよや 明日帰り来ん そよや 明日帰り来ん
(妻)言をこそ 明日とも言わめ 彼方に
妻去る夫は 明日も真(さね)来じや そよや
さ明日も真来じや そよや
<現代語訳>
(夫)桜人、その舟を止めてくれ。離れ島に十か所も田んぼを作っている、それらを見回って帰って来るよ。明日には帰ってくるよ。
(妻)言葉では、明日帰ると言いますが、島には別の妻がいるんだから、どうせ明日も帰って来ないでしょうね。
催馬楽は、租庸調の品を京都に運ぶ時の馬子唄がルーツと言われていますが、名古屋市南区には、現在も「桜」「桜田」「桜台」という地名があり、歌詞にある「島田」という地名も近隣の天白区にあります。そのため、「桜人」は尾張地方の風俗歌が、催馬楽になったのではないかという説があります。
しかし、「桜人」の歌詞を見ると、まるで秀吉のような男ですね。秀吉が「醍醐の花見」に女性ばかり集めたのは、「桜人」の歌詞を知っていて、最後に反省したためだったのでしょうか。
醍醐寺の歴史も、簡単に紹介しておきましょう。
「醍醐味(だいごみ)」という言葉がありますが、仏説でいう「醍醐味」は、練乳やクッキーのような最高級の乳製品の味をいいます。おそらく生命の根源の味なのでしょう。
聖宝が、お寺を建てる発願をして土地を探している時、京都の南東の笠取山に慶雲(五色の雲)がたなびくのを目撃しました。笠取山に登ってみると、山頂近くの泉で、白髪の老婆が水を飲み、「醍醐の味かな…」とつぶやいて消えたと言われています。
そこで、聖宝は、その泉の側に御堂を建て、准胝(じゅんてい)観音と如意輪観音の二体の仏像を祀り、醍醐寺を開山しました。わが国では、准胝観音は、安産や子育ての仏様とされていますが、元々は戦の女神で、インド神話のシバ神の妻神のドゥルガー女神のことです。
准胝観音が安産や子育ての仏様とされたのには、理由があります。それは、菅原道真を重用した宇多法皇と、その御子息である醍醐天皇にまつわるお話です。
藤原氏の陰謀で、菅原道真が大宰府に左遷された901年、宇多法皇は、東寺で阿闍梨となるための伝法灌頂の儀式を催行しました。この時、醍醐寺を開いた聖宝は、嘆徳師を務めました。翌年、宇多法皇が灌頂印信(灌頂を受けた証書)を授けられた時も、聖宝は表白師(儀式の趣旨を読み上げる役)を務め、これらの宇多法皇への貢献が実を結び、907年に、醍醐寺は御願寺となったのです。
宇多法皇の御子息の醍醐天皇は、雅楽の右舞の名曲「延喜楽」が作られた延喜年間(901年~923年)の天皇です。天皇が自ら政治を行う天皇親政が行われた「延喜・天暦の治」で有名です。
醍醐天皇は、自分の母方の祖父母が、准胝観音に願をかけたお陰で、母が自分(醍醐天皇)を身ごもったという、出生にまつわる話を聞きました。そこで、醍醐寺の准胝観音に御祈願されたところ、二人の優れた子息(後の朱雀天皇と村上天皇)を授かりました。そのため、諡号を醍醐天皇とされたと言われています。ちなみに、醍醐天皇の子女は36名を数え、源高明や空也上人(御落胤)など、優れた文化の担い手が生まれました。また、孫には、雅楽の天才と呼ばれた源博雅や、『源氏物語』の六条御息所のモデルとなった徽子女王がいます。