呂氏春秋(3)夏王朝の音楽 | 日本音楽の伝説

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権力者がトップの座を世襲ではなく、徳のある優れた者に譲ることを「禅譲」と言います。

現代でも新聞などで見かける言葉です。この「禅譲」という言葉は、中国の伝説の聖王である堯(ぎょう)と舜(しゅん)の故事に由来するそうです。

中国の創世の時代、堯は、舜には徳があるとして、自分の血縁者ではない舜に天子の位を譲りました。舜も同じく、血縁者ではなく、黄河の治水に優れた禹(う)を後継者に指名しました。

ところが、禹から以降は、血縁者が王位を世襲し、中国最初の夏王朝が始まったのです。その後、中国の歴代王朝では、禅譲を名目にした強制的な帝位簒奪はあるものの、実質的な禅譲は一度もないといわれています。

この舜が禹に教えた政治の要諦が、「人心これ危うく、道心これ微かなり。これ精、これ一、まことにその中を執れ」(『中庸・章句序』)という教えです。

(人の心とは、絶えず揺れ動く危ういものであり、正しい道によろうとする道心は微かなものです。だから、根気を持って専一に道を求め、最も的中した案(又は人物)を採用せよ。)
 

禹は、舜の教えをよく咀嚼しなかったのでしょうか。


近年、炭素14測定法によると、河南省洛陽の二里頭遺跡の遺物は紀元前1800年~紀元前1500年と推定され、殷の時代に先行していることが判明。この二里頭遺跡の発掘により、夏王朝は伝説ではなく、実在した王朝と考えられるようになりました。

 

『呂氏春秋』には、堯・舜・禹が音楽を作らせた説話が載っています。

 

『呂氏春秋』 夏の節 65・66

 

堯(ぎょう)は、帝に即位すると、質に命じて音楽を作らせた。
質は、山林や路谷の音に似せて歌曲を作り、さらに鹿の皮をほとぎに張って鼓をつくり、そのうえ手で石を打ち合わせて、古代の上帝を祭る時の馨(けい)の音に似せた。百獣はその楽を聴くと寄り集まって来た。
瞽叟(こそう)は、五絃の瑟を改良して、十五絃の瑟を作り、これを「大章」と名づけ、上帝を祭った。

舜(しゅん)が即位すると、延(えん)に命じて、瞽叟がつくった十五絃の瑟に八絃増して二十三絃の瑟とした。舜はまた、楽人の質に命じて、「九招」、「六列」、「六英」などの曲を改作させ、帝徳をいっそう明らかにした。

 

禹(う)が即位すると、天下のために勤労して、日夜怠ることがなかった。
大川を疏通し、塞がった箇所を切り開き、黄河の竜門を削り広げ、流水を黄河に導き、三江五湖を疏通して東海に注がせて、民衆に大いなる利益を与えた。そこで皐陶(こうよう)に命じて、九章から成る「夏籥」(かやく)の曲を作らせ、治水の功績を明らかにした。