先行的信念
『 こんちには みさなん おんげき ですか?
わしたは げんき です。
この ぶんょしう は イリギス の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう けっか、
にんんげは たごんを にしんき する ときに、
その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば じばんゅんは めくちちゃゃ でも、
ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。
どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ? 』
あーあーあー
やっちゃったねケンブリッジ大学
これはもう、ただの錯覚とかで片づけられるような話ではない
もちろん、
「 人間は皆最初と最後しか見てない、つまり真ん中なんざ一切見ちゃいねぇんだ! 」
「 だから女の子をみるときも顔と足だけ見てて、おっぱいなんざ眼中にねぇんだ! 」
という、そんなチープな話をするつもりは毛頭ございません
そもそも錯覚とはその事象に原因があるもので、あくまで (その事象によって)引き起こされた ものです
しかし、今回のケースはちょっとちがうと思うんです
一見したところ、意味不明な単語の羅列に意味を与え、文章として成立させたのは
あなたですよね?
つまりこれは、錯覚によって引き起こされたものではなくて、あなた自身が引き起こしたものなんです
もっと言えば、あなたの 「こうあってほしい」 とか 「こうだったら都合がいい」 というある種の偏見に基づいているんです
こんな直観的な文章でさえ偏見様が幅を利かせている昨今、
あなたは物事をその物事自体として認識していると思いますか?
いや、ぶっちゃけいいんですそんな認識しなくても。
ただ、
「 絶対的なものなんてない! 見る人によって感じ方が違うんだから、物事はそれ自体として認識できるわけない相対的なものなんだ!十人十色ワッショイ!! 」
というありふれた答えは、おそらくみんな中2くらいで悟っていると思います
しかし、たいていそういう人に限って 相対的なものこそ絶対だ、 という矛盾に陥っている場合が多いんです
せっかく相対化を図ったのに、その視点に固執し、それが答えだと思って再び絶対化していては全く意味がないんです
そんなところにヒューマンドラマは存在しません
諸行無常からやり直せ貴様ら!!!
黙ってるるぶでも読んどけ!!!
…しかし、その偏見というものまた不可避なものなのかもしれません
「数えきれないほどのものが外界から私の感覚器官に押し寄せてくる。これらすべてのものが、すべてきちんと私によって経験されるわけではない。なぜだろうか。それらがすべて、私の関心をひくわけではないからである。私の経験とは、私が注目することに同意したものだけなのだ。私が気付いたものだけが、私の心を作りあげる。選択的関心がなければ、経験とはまったくの混沌である。」
(W.James, Essays in Psychology, 1878)
そう、もしかしたら、知識や経験こそが物事の認識を歪めている・偏見を作り上げている原因なのかもしれません
もう勉強するのやめよう
安っぽい信念なんか捨ててしまおう
中2以前の純粋さを取り戻そう
『家なき子』のお父さん役だった内藤剛志が極悪人だと思ってたあの頃に戻ろう
※次回、『パンツ進化論~迷える子羊はさらなる森の奥へ~』 乞うご期待!