子午線の祀り | へちまブログ

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日にちがたちますが、3/28に「子午線の祀り」を世田谷パブリックシアターで観ました。ネタバレあり(木ノ下歌舞伎も)。長文です。
 
4/1に「スリルミー」が開幕して観たが・・・木ノ下歌舞伎を配信で見たせいもあって、いま頭が源平の合戦中。脳のパーティーションを「子午線」「スリルミー」で分けたつもりで、会社の行き帰りの電車で木下順二の「子午線の祀り」を読んでいると、日本語の美しさに酔いしれる。例えば「現心」と書いて「うつつごころ」と読む。
 
私は平家びいき。吉川英治の「新平家物語」を途中まで、あとは川本喜八郎さんの人形劇で見ているくらいで、もともとの「平家物語」は未読。修学旅行で京都に行った時、六波羅の土を持って帰った(甲子園児か!)。
 
「子午線の祀り」
平知盛 野村萬斎
源義経 成河
民部 村田雄浩
影身 若村麻由美
 
演出 野村萬斎
 
2017年版に比べてコロナバージョンでキャストを減らし、舞台に三日月を思わせる回る装置を配置、群読のパワーは前回の方があったが、短縮版にしたためか凝縮されて、キャラクターが立った気がする。
 
多分私が一番好きなシーンは影身の姿をした女性(の魂)が、知盛に「非情なものに、新中納言さま、どうぞしかと眼をお据え下さいませ。非情にめぐって行く天ゆえにこそ、わたくしどもたまゆらの人間たち、きらめく星を見つめて思いを深めることも、みずから慰め、力づけ、生きる命の重さを知ることもできるのではございませんか」と言うところ。
パンフを読むと、知盛はこの時平家の運命を知ることになる。平家一門を託された者の運命の重さ。この台詞こそこの物語の肝。天には心などない。うたかたのように人間は儚い。
 
木ノ下歌舞伎を見ると、「義経千本桜・渡海屋―大物浦―」では知盛は義経を討つために、壇ノ浦から生き延び、船出する義経を乗せるために二年もの間、渡海屋という船屋に身をやつしている。知盛の執念と崇徳院の怨念が重なる気がした(知盛と崇徳院は同じ役者が演じている。
 
船屋の主人を知盛と見破った義経たちはついに知盛と対面する。
義経「もういいじゃないですか」
この台詞深いなあと思って泣けた(´;ω;`)ウゥゥ
知盛「生まれる前から、我らは、殺して、殺されて、殺して、殺されて、殺して、殺されて(リフレイン)・・・」
義経「成仏してください」
知盛「昨日の敵は今日の友・・・」
今度こそ大物浦の海に沈む知盛。
 
残された義経を中央に、白装束の登場人物たちが手を叩きながら、踊りながらぐるぐると回る。義経は立ち尽くして顔をあげていられなくなる。義経もまた知盛と同じ魂を持っていたのだと感じる。
 
子午線の祀りに戻る。
木下順二さんは子午線の祀りは英語に訳した時「Requiem on the Great Meridian」と、「レクイエム」と訳してほしいとおっしゃったそうで、子午線と木下歌舞伎を両方観て得心がいく。
この戯曲は鎮魂歌であった。
 
知的で冷静で、でも実は熱い魂を持っている知盛、白い鎧の萬斎さんはぴったり。「白」は何色にも染まらず己を貫く知盛の意志の強さを感じさせる。生身の影身とのシーンはもっと見たかった。
 
成河さんの義経は前回よりエッジが効いて義経というキャラクターが浮き上がって見え、成河さんのお話では前回は「型」「音程」を大事にして、今回はそれに自分らしさをプラスするとのことで、なるほどと思う。一幕ラストの「神、もっとも澄んで・・・」では鳥肌が。カンの声しびれる。
 
民部は前回、「あれだけ平家に尽くして寝返るなんてひどい」と思ったのが、なぜか今回はそうせざるを得なかった民部のやるせなさを感じて、村田さんの御髪が前回より白髪が増えて、人間味が増しているように思えた。
 
回り舞台がよい。地球の回転、惑星の回転、月によっておこる満潮や干潮も、もしかしたら寝返った民部のようにくるくる変わる人の心も表しているのかも。
 
いま原作を今読んでいるため、舞台で聴く群読はやはりとっつきにくいところがあって、でも日本語の美しさはとても感じた。「弓手(ゆんで)」とか「浪の下にも都の候ぞ」とかため息が出る。
 
子午線の冒頭、出演者がただの「人々」としてあちこちから舞台に向かい、蝋燭を持つ影身を取り囲んで座って萬斎さんのあの「すっくと立っている」を聞くのだけど、成河さんと弁慶役の星智也さんがまるでトランスジェンダーのカップルのように、睦まじく腕を組んで出てきたので、冒頭から落涙。
 
「輪廻」はこの戯曲のテーマではないけれど、戦をしていた人たちが成仏して、1000年たって現代で仲良く暮らしていると思ったら、私なりに非常に納得させられた。
 
子午線の祀りはまさに「祈り」そのもの。戦をしないで平和に生きられることに日々感謝して(コロナなどありますけれど)、清く生きなくてはと囁かれた気がした。