よく、
「自己犠牲の精神」というような表現があるが、
元々日本語に「自己犠牲」という言葉はない。
これの起源は定かではないが
おそらく早くても明治以降に作られた
かなり新しい言葉だ。

外来の言葉を訳した時に、
同じ意味の漢字を当てたのだろうが
これが多くの間違いをはらんでいる事を
このネーミングをした人間は気がついていなかった。


自己犠牲の「犠」も「牲」も、
「牛」が付いているだろう。
この「犠牲」というのは、
「牛畜生」を使った「いけにえ」の事だ。


近代になるまでは、
干ばつが続き、
作物が次々と枯れているときなど、
自分たち人間ではどうにもならない事態に陥った時は
弱いものからどんどん死んでいた。
年に一度の収穫が1/10になれば、
年間の食い物が1/10になる。
10日に一度しか食べれないなら、
当然そうなるだろう。

日本もほんの数百年前まではこうだった。

その時、
自分たちが「とても大切にしているもの」として、
家族の次に大切な「牛」などを
大自然、その代表である「神」に返す事で、
その大自然に願いを叶えてもらおうという試みが
世界中にある「いけにえ」という
人間の本能的な儀式だ。

だが、神頼みというのは
実際大して意味がない。
大自然というのは何かを欲するわけでもなければ
誰かの為に動くことは無いからだ。

結果的に、その牛畜生は「無駄死に」することになるわけだ。


さて。

この言葉の延長線上でいくと、
現代で言う自己犠牲というのは
「自ら牛畜生のように自分の命を無駄遣いする」
という意味合いが強くなるのは当然だ。

自分を牛畜生まで貶めて、
さらに無駄死にするのが正しい人間?はぁ?
である。

その反発心は、正常な反応と言える。

我々人間は牛畜生ではないし、
意味なく命を断ったところで
当然、何ら意味はない。
そんなことをしたところで
なんにもならんのだ。

そして、世界中どの宗教を見ても
根本的にこんな事を言っているところはない。


本来その言葉で伝えたかったのは、
少し意味が違う。
それを漢字にするとこちらのほうが近い。

牛を取っ払った
「義生」だ。


「義」つまり、
人として正しい事の中に
「生」きるのだ。

その「義」は、
自分の中の正しさでもいいし、
誰かの言う正しさでもいいし、
パートナーや親や上司の正しさでもいい。
物理法則や論理でもいい。
もっと根本的な「理」でもいい。

どのレベルの「義」に生きるかは
各々成長レベルに合わせて選んだらいい。

逆に言えば
「義」ではなく「我」、
つまり「エゴ」のために生きるのでは、
(長続きはせんから)つまらんよ。
という話なわけだ。


これなら意味がわかるだろう。
実際、大抵の日本人は教えられずとも
誰しもが日々やっている事だ。

そして、
この部分は世界中どの宗教も
同じことを言っている。

ただ、現代人は
その解釈を間違えているだけなのだ。


実際、
どうにも、自分を「犠牲」にして
自分を押し殺している人は世の中多いだろう。

彼ら彼女らは、
その「間違った漢字」を当てたことによる
被害者だ。

また、
このこじれた人たちの「正しさ」の先にあるのは
人間を「牛畜生」にし、無駄死にさせる事だ。

その証拠に、
「こんなはずじゃなかった」と

自らを「社畜」と呼んだり
結婚が「墓場」になったりするだろう。

こんな表現が生まれるのも、
その言葉の「こじれ」が
社会の常識のそこかしこにあるからなのだ。


現代においては
こんな「こじれ」が驚くほどある。
殆ど、それしかないと言ってしまえるほどだ。

だからこそ
今、大切なのは、
間違ったっていいから
自分が正しいと思うことの中に
生きること、となるのだろう。