【破壊と創造】
「破壊」も「創造」も
逆の意味のように思うが
実はそんなに変わらない。
分子や原子のレベルで見れば、
どちらもただ空間を移動しただけだ。
もう少し大きい単位で見ても、
形を変容しただけで、
結局、人の手によって
人間にとって有用にすることを「創造」と呼び
人間にとって無用にすることを「破壊」と呼んでいる
ただそれだけの差だろう。
分子や原子を移動させるチカラを
人にとっての創造に使うなら「創造力」で
人にとっての破壊に使うなら「破壊力」であって、
チカラそのものというのは同一のものだ。
つまり、
創造力だけを持つものはおらず、
破壊力だけを持つものもいない。
ただ、人が勝手な主観で
分類をしているだけなのだ。
また、人にとって有用な物事というのは、
「創造」からも「破壊」からも
生まれない。
主観が無く、
物事の道理に整えられたものは、
例外なく美しい。
主観から作られ道理に外れた物は
例外なく醜い。
例えば、
雪の結晶はとても美しく、
下手な芝居は見るに耐えないだろう。
形式に囚われた会議は成果もなく疲労しかないが、
効率の良い作業現場は小気味良く、
清々しさすら感じるものだ。
つまり、
「破壊」や「創造」をしようとするほどに
その主観により
物は乱れ複雑になり
事は岩のように動かない。
これを人は「醜い」と感じる。
翻って、
主観の全てを捨て、
そのもの自体の在り様を整える事で
物はシンプルで
事は風のように成る。
これに人は「美しさ」を感じる。
現代社会をこの視点から見ると、
あまりにも人の主観に人の主観を被せ
ゴテゴテの物事と
ゴテゴテの頭の中で
更におかしくなった主観で
醜い物事を積み上げる。
これが日々繰り広げられている。
現代のクリエイティブワークは、
殆どが
子どもの泥遊びよりもドロドロだ。
本来求められる結果は、
人間における客観的「成果」と、
それによる主観的「評価」だろう。
これは「創造」や「破壊」では
なかなか得られない。
ただやるべきは
「破壊」とか「創造」とか
「良い」とか「悪い」とか
「好き」とか「嫌い」とか
そんな主観をすべて抜き、
ただその物事を
道理に沿って整えるのだ。
その結果に
「美しさ」が見えてきた時、
そこに人を忌み嫌う心があれば、
人類は有用な何かを失い、
それを人は「破壊」と呼ぶだろう。
そこで人を思いやる心があれば
客観的な成果はスルリと訪れる。
それを人は「創造」と呼ぶだろう。
大切なのは、
「何をするか」ではなく、
「どうあるか」というのは
こういう事なのだ。
チカラのあるものは、
何を持つべきか。
目のあるものは
何を見るべきか。
わかる者にはわかるだろう。
そして、未来はそれで決まるのだ。
