もうすぐ親父の命日だ。
日時が正確過ぎるのは隠匿したい個人情報なので「もうすぐ」とだけ述べておく。
もう随分経つ。癌だった。
仕事人間で、実はしばらく前から痛みを感じたりしていたのだが、ずっと我慢していたらしい。
見ている家族もそんな気はしていたが、「大丈夫」と強く言い張るのでそれ以上何も言えないでいた。
仕事人間であると同時に、破天荒な人間だったのだ。
そしてついに健康診断を受け、案の定再検査になり、入院。
家族が呼び出され、自分は母に同行した。
余命3ヶ月という診断だった。
告知するか訊かれ、迷わずそれを選択した。
医者がちゃんとした説明の場を設けるということで、
この日から、実際に本人に告知するまでにはタイムラグがあった。
今思えばその期間、親父と顔を合わせるのが辛かった。
告知の際、親父は気丈だった。
涙もろくて頼りない母に、弱気な姿を見せたくなかったのだろう。
親父はいつもそうしていた。
既にその時、痛み止めを処方されていたが、それさえあれば元気で、
死が現実味を帯びていなかった事もあるかもしれない。
告知した事は正解だった。
入院生活中も事あるごとに
「告知してもらって良かった」
と言っていた。
そして沢山の仕事相手や仕事仲間、旧友に連絡を取り、
毎日見舞いの客人と破天荒に過ごしていた。
長い点滴の治療を行った後、一度は退院した。
その時は確かに調子が良かったようだが、
治療の成果があったのか、ただの小康かはわからない。
そして今度は、家にいてもどうにも調子が悪くなり再入院。
げっそりやせ細っているのに足がむくんだり、
体重減に歯止めがかかったのかと思いきや、腹に水がたまってきたり、
そして意識が朦朧としてきた。
最初からかどうか自分は知らないが、痛み止めはモルヒネだったのだ。
幻覚も見ていたようだ。
ベットに横になり目をつぶって寝ているのだが、しきりに手を動かしていた。
考え事をしているときの手振りだった。
きっと夢の中では、この期に及んで、仕事のことを考えていたのだと思う。
死ぬ前日の夕方にも病室を訪れた。
すると親父は
「うるさい!出てけ!」
と叫んだ。
そんなにうるさくしたわけでもなく、なぜそう叫んだのかはわからない。
幻聴や耳鳴りのように、本当にうるさかったのか。
俺という存在がうるさかったのか。
一人になりたかったのか。
とにかく、その場を立ち去る事にした。
その時、心の中で、親父にさよならをしてしまった。
その夜は、自分と入れ替わりに、用事を終えた弟が付き添っていた。
弟に対しては、「うるさい!」などと叫ぶ事も無かったらしい。
だが親父は呼吸が乱れるなどして落ち着いて眠れていなかったらしく、
通常の面会時間が当に終わっても、それを見守っていたのだ。
しかし、終電もなくなったころ、急にとても穏やかに眠り始めたらしい。
もう安心で、帰る足がないので車で迎えにきて欲しいとのこと。
片道40分、車を走らせた。
帰宅は深夜の2時を回っていた。
でもまさか、数時間後、日の出前の早朝に家の電話が鳴るとは思わなかった。
弟と母と3人で、今度は電車で病院に。
病室に入ると、むしろ昨日よりも穏やかな表情をした親父がベットに横たわっていた。
昨日までたくさんつけられていた点滴やなんかの管やらは全て取り外され、
心電計やその他の機器も既に全て片付けられ、昨日に比べて病室内が整然としていた。
その日は忙しかった。
親戚の人達の助力を受けつつ、バタバタと葬式の段取りを整えた。
入院中にはどこから聞きつけるのか、新興宗教のようなものから勧誘された事などもあったらしい。
その事について「俺は宗教なんかに関わらずにやってきたのに、今さら神頼みなんてしない。」
と、一蹴したと聞いていた。
しかし「ウチの家系は○○宗だから」などと初耳なことを聞かされ、人並みに仏教っぽい葬式を挙げた。
所詮、強く主張するほどの「無宗教」ではなかった。でも、「無宗教」な感じは、現在、自分も持ち合わせているのである。
そんな親父だが、印象に残っている事がある。
「蜘蛛を殺してはいけない」という迷信だけは、信じていたのだ。
その由来は、芥川竜之介の「蜘蛛の糸」なのか、その小説の由来となっている伝承なのか、
全く別の起源なのかはわからない。とにかく家の中等で蜘蛛を見つけたとき、外へ逃がすなどする事はあっても
つぶしたりする事は決してなかった。
その事が印象に残っているものだから、自分も蜘蛛をつぶす事が出来ない。
基本的に、迷信も、死後の世界さえも信じていない自分が、
蜘蛛は親父の生まれ変わりだ、と思ったりしてしまっているのだ。