今回のワイズマン特集は26日で終了。

 

最終日は連作二本。

http://www.zipporah.com/films/1

http://www.zipporah.com/films/2

 

日本ではアルファベット二文字(二作目はプラス数字)のタイトルになっているが、原題は普通に英単語二つである。なぜ原題そのままを邦題にして「ドメスティック・ヴァイオレンス」としなかったのか。もしかしたら「A」「A2」を意識してのアルファベットタイトルだったのだろうか。

または「バイオレンス」ということばがタイトルに入れるにはきつめだという判断か。

豪先生ごめんなさい。

 

この二作を見て思ったのは、ワイズマン映画では、風景や人々の顔や姿が映し出されるが、同時に様々な人によって特語られる言葉と言葉が語られる場を記録しているのか、ということである。語るものの表情と動作、そして言葉が語られる場に立ち会った者の表情と動作が映し出され続ける。

 

一作目は特に暴力の前に言葉を発する力を奪われていた者たちが言葉を取り戻して語り始める・続ける様が描かれる。そこで語られる言葉はすべて正しいわけではなく、思いこみや早合点の結果発せられたものもあるのだろうが、もちろん映画の中ではコメントを付けることもなく、ただその場に立ち会う無言の人々の表情と動作によっていくらかの相対化が行われているように見える。

少し「違国日記」の最近の展開を思い出したりした。

 

二作目は対照的に言葉を発することが法律の秩序の許ではじめから許されている場を舞台としており、それは同時に法律(正しくはそれを担う役割の裁判官の判断)から逸脱する言葉は止められ、無かったことにされてしまう場でもある。

その過程は、前のエントリでふれた「MEAT」の食肉工場の工程と同様にオートマティックであり、もちろんそうしないと担当する裁判官の労働時間が大変なことになってしまうのだろう。

あるルールが定められると、それに関わる者はるールを維持する機会にならなくてはならない。そのルールが良かろうと悪かろうと関係はない。もちろんルールもまた言葉によって定められるのである。