昨日見た映画についての記事を読んだが、どれも注目点として様々な伏線がしかけられていることをネタバレに気を遣いながら書いている。
実際は「伏」せられているのではなく、観客に違和感を感じさせるような台詞・描写が随所にちりばめられている、といった方が近いかも。

ネットのマンガやアニメの感想サイトなどを最近読んでいて感じるのは、「伏線が拾われる」「伏線を回収する」ということが最近はずいぶん大きく評価されるようになっている、ということだ。
以前は、少なくとも10年くらい前は、伏線が「回収」されるものだ、という発想や、「回収」という言い方自体なかったように記憶している。

その評価軸だと、最終回までに「回収」されない伏線を残したままのものは否定的に語られるし、感動的な最終回を迎えて肯定的に語られる際にも、伏線は全然回収してないけどそんなことはもういい、みたいな注釈をわざわざ付けられたりすることになる。
最近50巻目の単行本が発売された日本一売れている雑誌の人気連載マンガなんかは、何年かの連載期間を経て伏線を回収することで驚きと賞賛の声が向けられたりしているのだった。

「伏線」というのは、渡部直己「日本小説技術史」の第一回で論じられているように曲亭馬琴が「稗史七則」の一つに数えている創作技術である。
「伏線」が成立するためには読者が読んでいる過程で前に書かれていた出来事や描写を忘却している必要があり、渡部直己はそういう読者にある態度を強要する傲慢な発想を批判している。

ところが、現在では「伏線」というのは忘れられることで効果を持つものではなく、読者や視聴者によって鵜の目鷹の目で探し求められ、「回収」される時を虎視眈々と待たれるものになっているのだった。

10年前にはなかった、と先程書いたけれどこういう「伏線」を重視する傾向を生み出した一因はエヴァなのかもしれない。
まずは、説明無しに使われる聞き慣れない用語、思わせぶりな台詞、断片的に差し挟まれる映像など、視聴者に疑問を抱かせ、それが後のストーリーに大きく関わるものなのではないか、とあれこれ想像させるような作り方で、「伏線」に敏感な視聴者を作り出した。
さらに決定的だったのは、それらの「伏線」(と多くの視聴者が思いこんでいたもの)をすべて投げ出した(かのように視聴者に思われる)終わり方をし、「伏線」が「回収」されるかされないかが重要な問題であると考える雰囲気を醸成した。

もちろん理由はそれ一つだけではないと思いますが。

でも、ほんとに昔は思わせぶりな台詞や設定からあれこれ想像して、肩すかしを食うというのが当たり前で、それを冗談にはしても特に怒ったりもしなかったのよ。