史跡めぐりの記事です。今回は、奈良県奈良市法蓮町にある多聞城です。多聞櫓の名の起源にもなりました松永久秀の居城です。
多聞城(たもん)
奈良県奈良市法蓮町にある城で、永禄2年(1559)に松永久秀により築城されました。眼下に東大寺や興福寺を望むことができ、大和支配の拠点として天守に相当する四階櫓や、後に多聞櫓と呼ばれる長屋状の櫓が存在したとされて、近世城郭のさきがけの城と言えます。永禄10年(1567年)、久秀は、東大寺大仏殿が焼失した戦いで三好三人衆・筒井順慶連合軍を破り、翌年には織田信長より大和の支配権を認められました。しかし、その後、久秀は信長に反旗を翻したため、信長は筒井順慶に大和の支配権を与えて、天正4年(1576)に多聞城の破却を命じました。
(1)若草中学校階段と城址碑、(2)若草中学校正門、(3)城址碑、(4)多聞城に使われた元墓石、(5)堀切跡
現在は、若草中学校となっており城の主要部は、立ち入りができません。城としては遺構はあまり残っていませんが、なんとなく小さ目の安土城の雰囲気のある平山城です。織田信長が正倉院に伝わる「蘭奢待」を切り取ったのはこの城で、梟雄の名にふさわしい城です。