史跡めぐりの記事です。今回は、愛知県東郷町にある傍示本城と諸輪城です。遺構がないので2城掲載です。周辺は、岩崎丹羽氏が治めていた地域で、傍示本城の城主だった丹羽氏重は、小牧・長久手の戦いの際に、岩崎城の戦いにて討死するも池田・森隊を足止めして活躍した武将です。

 

傍示本城(ぼうじもと)

愛知県東郷町春木字市場屋敷にある城で、鎌倉時代に加藤安俊が築いたとされる城です。その後、丹羽氏が治めることとなり、岩崎城主の丹羽氏次の弟である丹羽氏重の持ち城でした。小牧長久手の戦いでは岩崎城主の丹羽氏次が、徳川隊に加わったため弟の丹羽氏重が岩崎城を守備して、豊臣方で中入り作戦を敢行した池田恒興に攻めかかり、足止めに成功するものの討ち死にを遂げました。城は、丹羽氏が伊保1万石に転封となると廃城となりました。

 

 

 

 

 

(1)傍示本城城址碑、(2)傍示本城があった傍示本公民館跡、(3)高低差のある城の斜面、(4)岩崎城にある丹羽氏重像

 

堺川が沿いにあり、遺構はないながらも段丘の先端に築かれた丘城で尾張と三河の境界の城です。丹羽氏重は、長久手の戦いで16歳の若さで戦死しましたが、徳川の勝利に大きく貢献したと思います。

 

諸輪城(もろわ)

愛知県東郷町諸輪中市にあった城です。諸輪には、北城、中城、下城、南城と4つの城がありましたが、掲載は、中城です。岩崎城主の丹羽氏識は松平家に従い、尾張の織田家とは敵対関係でしたが、両者が同盟した結果、隠居して、永禄5年(1562)に織田信秀の娘を継室としていた嫡男の氏勝に家督を譲り、氏識は諸輪北城へと移り住みました。   その後、氏識は出家をして道久と名乗り、清安寺を建立しました。隣接地に諸輪中城を築いて居住したとされています。 永禄8年(1565)に氏識が死去すると、丹羽氏重が一時居城しましたが、その後廃城になったとされています。

 

 

 

(1)城跡があった付近の丹羽氏識の菩提寺、清安寺、(2)丹羽氏重の側女・おくらが信仰したとされる稲荷社

 

城は四方を竹薮・竹林で囲まれ、堀や土塁を巡らせていたとされていますが、現在は、竹林すら残ってなく静観な住宅地となっています。