史跡めぐりの記事です。今回は、三重県菰野町にある千種城です。南北朝好きな人については馴染みの名前ですが、南朝で活躍した千種忠顕の末裔の城です。

 

千種城(ちくさ)

後醍醐天皇の忠臣であった千種忠顕の子顕経が、永徳元年(1381)に禅林寺城から移転築城したといわれています。その後、勢力を拡大していましたが、永禄11年(1568)に織田信長が滝川一益に命じて北伊勢を攻めたときに降伏しました。その後は織田信雄の傘下となります。その時、家督を次いだ千種顕理は、天正12年(1584)に信雄と羽柴秀吉との問が不仲になり小牧長久手の戦いが始まると、秀吉配下の蒲生氏郷に攻められて落城しています。その後、顕理は、豊臣秀吉に陪従して、音羽村で六百石を領地としましたが、元和元年(1615)大阪夏の陣において顕理が戦死し、千種家嫡流は断絶しました。

 

 

 

 

 

 

(1)城址碑、(2)城の案内と登口、(3)虎口の土塁、(4)土橋と空堀、(5)主郭土塁

 

昭和初期に造られた城址碑が南朝の忠臣千種氏をリスペクトしてもの凄く立派です。それほど防御力の優れた城に見えませんが、見所は、城の虎口と土橋付近だと思います。