史跡めぐりの記事です。今回は、愛知県豊川市にある牛久保城です。東三河の牧野氏の居城です。

 

牛久保城(うしくぼ)

享禄2年(1529年)に宝飯郡の牧野城主であった牧野成時(古白)の子、成勝が築城したと伝えられています。その後も牧野氏がほとんどの時期を城主を勤めましたが天正18年(1590年)に牧野康成は徳川家康の関東移封に従って上野国勢多郡大胡に2万石を領して移動しました。その後、は吉田城に入った池田輝政の支城となり、重臣の荒尾成久が城主となりました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後は牛久保周辺は幕府、天領となり、城郭の一部が代官所として機能していましたが、元禄13年(1700)に廃城となりました。

 

山本勘助の墓

牛久保城址に近くにある長谷寺(ちょうこくじ)には、風林火山で知られる山本勘助の墓があります。 山本勘助は、明応9(1500)に山本藤七郎の三男として生まれ、幼名は源助と名乗っていました。勘助は15 才で牛久保町の牧野家家臣大林勘左衛門貞次の養子となり、名を大林勘助貞幸と改め、へ出立するまでの若く多感な時期を、この牛久保の地で過しました。武田信玄の軍師として知られる山本勘助は、この寺の念宗和尚と親交があり、信玄に召し抱えられたとき遺髪を和尚に託しました。永禄4年(1561)、勘助が川中島の合戦で戦死した後、その死を悼み遺髪を埋めて建立したのが、五輪の墓です。また、長谷寺には、勘助の守護神であったとされる木造摩利支天尊像も安置されています。

 

 

 

 

 

(1)牛久保城址碑、(2)城址にある忠魂碑、(3)長谷寺本堂(4)山本勘助の墓

 

牛久保城はかつて豊川の古い河岸段丘を利用した2重の水堀を備えた平城でありましたが、現在はその遺構が全く滅失しています。昔、長谷寺の木造摩利支天尊像を実際に見せていただいたことがあります。このお寺で山本勘助の甲冑劇をさせて頂いたことがありますが、長谷寺(ちょうこくじ)をうっかり(はせでら)とセリフを間違えて恥をかいたことがありました。(笑)