史跡巡りの記事です。今回は、岐阜県坂祝町にある猿啄城です。登るのに健脚を要する急勾配の山城です。マイナーな城と言いたいところですが、第1・第2駐車場も満車と家族連れにも人気のスポットです。

 

猿啄城(さるばみ)

応永14年(1407)頃には西村豊前守善政、享禄3年(1530)には土岐氏の一族田原左衛門が在城していました。天文年間(1532〜1555)に、家臣の多治見修理が謀叛をおこして猿啄城を奪って城主となりました。織田信長の中濃攻略が始まると、永禄8年(1565)信長の家臣、丹羽長秀・河尻秀隆らによって攻められると多治見修理は城を脱して逃れました。信長は城を勝山城と改称して、戦功のあった河尻秀隆を城主としましたが、秀隆の領地変えによって廃城となりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(1)猿啄城展望台、(2)展望台から見た主郭、(3)城址碑、(4)展望台アップ、(5)石垣、(6)堀切と土橋、(7)城主だった河尻秀隆を祀った社、(8)勝山遠景

 

登るのに難儀する険峻な山城ですが主郭はとても狭いです。主郭には、わずかですが、石垣が確認できます。昔、一緒に城攻めをした城友が、攻城後、麓で、展望台にサングラスを忘れてしまったのを気づきましたが、「もう一度登ってサングラス回収しますか?」と尋ねたら首を横に振り、そのまま帰宅したのを思いだしました。